猛毒龍ヒュドラ
草木の死に絶えた大地に、夕暮れに染るよりもなお赤く色づいた空。焼けたような空の半分は、重たく黒い雲に包まれ、雷が唸り声をあげている。
地獄のような広大なる荒野に、ボスの姿はない。
「どう……なってるんだ」
フィックスの放った技によって、俺達が転送させられたのは間違いない。状況から考えれば、それは猛毒龍ヒュドラのいる貪欲領域であるはずだ。
なのに、何もーー
「シャァァァァァァァァ!」
大地が砕けた。
砕けて、隆起し、亀裂からマグマが噴出する。思わずたじろぎーーそうになったが、動けなかった。歯を食いしばってとか、勇気を振り絞ってとかではなく、怯み状態になったわけでもない。
純粋に動けなかった。
おそらくあれがヒュドラの出現のイベントで、その間は動けない仕様になっているのだろう。ムービー中に動けないのは、ゲームにおける伝統だ。
まあ、VRだととても違和感のある状況だが。
などとくだらない事を考えているうちに、マグマの湖が出来上がっていた。噴火によってはねあげられた岩石によって、平坦な荒野は起伏に富んだ荒地と化している。
端的に言って、地獄だった。
そんな地獄のマグマ湖から、ゆっくりと、黒い龍が顔を覗かせる。その顔だけでも相当な大きさだ。
ついで、8本の頭が最初の頭を囲むように浮かび上がってくる。8つの首の付け根は中央へと伸びていき、その先に漆黒の島が現れた。
硬い鱗に覆われたそれは、龍の胴体だ。
ゆっくりと前に傾きながら、体がせり上がってくる。その動きは、胴が岸に乗り上げたところで静かに止まった。
九頭の黒龍。
予告で姿を見たことはあったが、静止画と実物では迫力がまるで違う。
地獄の底より君臨したのは、SF映画に出てくるような巨大怪獣だ。戦うのは、光の巨人や怪獣王ではなく、矮小な人間なのだけれど。
「シャァァァァァァァァ!」
中央の首が、大地を揺らさんばかりに慄いた。
それに答えるように、周りの首が十人十色ーー八頭八色かーーに攻撃を始める。火炎、水流、土石、風刃、光線、黒線が大地を砕き、半透明の波動のようなものが頭上を抜け、紫色の煙が俺達を包み込んだ。
少し遅れて、紫色の髑髏ーー毒状態になったことを告げるアイコンがHPバーの上に現れた。
「いきなり毒かよ」
とはいえ、猛毒龍が毒攻撃をしてくることは想定内だ。俺は多めに揃えておいた解毒ポーションを口に入れる。ーー動けた。
「さぁ! ヒュドラ討伐を始めよう!」
どこからともなく響いたエターナルの掛け声に応えるように、プレイヤー達が動き出す。俺もそれに続こうと思ったところで、ひとりのプレイヤーが目に止まった。
黄金のローブを身にまとった金髪の青年だ。一見すると人のようだが、僅かに尖った耳を持つ彼は小妖精だろう。
無駄に輝いていて存在感がある上に、ヒュドラへ向かって走っていく群衆の中にいて、彼だけが動いていなかった。
「何してるんだ?」
周りの人が駆け抜けても、彼は動かない。
「見るがいい。人がごみのようではないか」
遠ざかっていく背中を見ながら、青年は鼻で笑う。
傍から見れば、完全に出遅れているのだが、焦りは感じられない。まあ、俺も同類だけど。
「凡愚共よ。我と貴様らの違いを見せてやろうぞ」
自信に満ちた顔で、青年が宣言する。誰も彼も進軍に夢中で、聞いてるのは俺くらいだったが。
「落ちろ、雷霆。ケラウノス」
手を挙げて、振り下ろす。
その動きに合わせて、ヒュドラに一筋の雷が落ちた。
「シャァァァァァァァァ!」
怒声と共に、紫一色のHPバーが現れる。
それはヒュドラの規格外のタフさを示すと同時に、今の一撃でダメージを与えられていないことを示していた。というよりは、一撃与えてからが、本番ということだろうか。
「初撃は我が頂いた。だが、我は衣装などいらぬ故、次の一撃を決めた凡愚が貰うがよかろう」
青年の偉そうな言い分は、やはり誰も聞いていない。
背景として暗雲が立ち込めているし、ゴロゴロと雷が落ちる前のような音も聞こえているし、HPバーが1ドットも減っていないし、誰も今のがプレイヤーの攻撃だとは思っていないのだ。
「さて、凡愚共の力量を拝見させてもらおうか」
それでも満足そうに、青年は腕を組んでいた。
動く気配はやはりない。
付き合う義理もないので、俺も動き出す。
ヒュドラは悩むまでもなく初見だし、味方に初見じゃない人がいても俺のチートに影響はない。先を行っていたプレイヤー達に追いつき、追い抜き、前線に合流する。
そして単独で先頭に躍り出た。
「シャァ!」
眼前に巨大な顎が迫る。
ヒュドラの顔かとも思ったが、違う。2回りくらい小さいし、額には結晶の角が追加されているが、全体的な彫り込みは浅い。
龍というよりは、巨大な蛇だ。
「シャーー」
「まあ、雑魚に変わりはないんだけど」
大蛇を一振で切り伏せ、進み、立ち止まる。
さらに前方には風の逆巻く穴が空いており、そこから這いずり出る大蛇が4体いた。固有名は【ウィンド・サーペント】。直訳すると風の蛇か。
俺はゆっくりと斧を担ぎ、力を込めた。
発動させるのはトマホーク。俺の数少ないどころか、唯一の遠距離攻撃手段だ。横目で赤く光ったことを確認し、投げる。
斧は俺のイメージを反映し、4体の大蛇全てを切りつけ、葬り去った。
「よしっ!」
戻ってきた斧をキャッチして、真っ直ぐに走る。そのまま曲がらずに穴に足を踏み入れると、中から吹き出す風に煽られ、体が浮き上がった。
エレベーターが下がる時のような浮遊感を伴って、エスカレーターで上がる時のように姿勢だけは変わらずに、空へと飛ばされる。
……ゲームとは言え、似合わない表現だな。
ともかく、大きく距離を縮めることには成功した。
風のベルトコンベアーから放り出された俺の体は、放物線を描きながら漆黒の九頭龍へ向かって落ちていく。
その頭の1つと目が合った。
龍の顎が大きく開かれる。
「近道じゃなくて罠だったか」
気づいた時にはもう遅い。
龍の口から巨大な風刃ーー厳密には違うと思うけどーーが放たれた。
どっかのバニーガールのように空中で動けるチート持ちなら避けられるかもしれないが、俺には無理だ。じたばたともがいて多少動けたとしても、攻撃が大き過ぎる。万が一に躱せたとしても、少しズラして放たれた次の刃に斬られるだけだろう。
それが幾つも連なっているのだから、1度避けたくらいじゃ変わらない。
「でもまーー」
人1人倒すには十分過ぎる風刃の波が、俺に襲いかかる。
「ーー今回は、相手が悪かったな」
ヒュドラの攻撃は、人1人倒すには十分でも、初見の俺を倒すには不十分だ。
1つ1つに当たり判定があるので、当たる毎に1ずつダメージは増えていくが、微々たるもの。絵面的には大怪我だろうと、HP的にはかすり傷にすぎない。
「今度はこっちの番だ」
斧を持ち上げ、水平に構える。現在進行形で斜めに落下中なので本当に水平かはわからないが、斧はしっかりと赤く輝いた。
システム的には体に対して垂直に構えるという処理なのだろうか。
「覚悟しろ、ヒュドラ!」
システムのアシストに乗りつつ、力を込めて斧を薙ぎ払う。ヒュドラの頬につけた傷は、巨体から見れば小さなものだ。けれど、俺の攻撃に当たり方は関係ない。
紫のHPバーが青く染まる。
だが、HPの減少はそこで止まった。
「一撃で倒させてはくれないってか」
同じく複数のHPバーを持っていた【バグルマイアトーラス】は一撃で倒せたが、何らかの対策が取られたのだろうか。
だが、それでもあと2発当てーー
「シャァァァァァァァァ!」
「くっ!」
咆哮と共に発生した衝撃波にあおられ、後方へと飛ばされる。攻撃ではなく、純粋に距離を開けるための技ゆえか、HPは全く減っていない。
風に乗って運ばれた時とは違い、荒々しく乱暴にまともに体勢すら整えられないし、下手すれば酔って強制ログアウトだ。
入り直したとしてもチートは途切れてしまう。
「ぐっ!」
背中に強い衝撃が走る。
そのままゴロゴロと地面を転がり、ようやく止まった。現実なら即死間違いなしだが、ゲームでは落下ダメージが少しだけ。風の刃によって受けたダメージと合わせても、HPは9割以上残っている。
距離は遠くなってしまったが、チートは途切れていない。
問題は、そこじゃなくーー
「……どこに落としたかな」
右手から常夜の斧がなくなっていた。飛ばされてる間に手放してしまったんだろうが、どこまで持ってたかすら覚えてない。
目に見える範囲には落ちてないから、地面にぶち当たるよりも前なのだろうがーー
「シャァ!」
夜を封じ込めた結晶を持つ大蛇ーーダーク・サーペントが現れる。
本体に攻撃を届かせたから警戒されているのか。武器がないから狙い目だと思ったか。
どっちにしろ、運がない。
「シャァ!」
「武器は関係ないんだよ!」
ワンパンだ。
ダーク・サーペントの体は砕け散り、四散する。
その直後、チートが途切れた。




