第6話 王宮では、誰でもできる仕事が残っていた
リネットの退職から十日後、アーネストは工務室を訪ねた。
部屋の隅に木箱が三つ並んでいた。机にも紙束が積まれている。
彼は眉を顰めた。
「整理する者はいないのか」
工務長フェランが、椅子から立ち上がる。
「新しい担当を募集しております。経験者が見つかるまで、少々」
「魔法士団から一人借りればいい。修繕程度なら、学生でもできるだろう」
その言葉は、すでに三日前、実行されていた。
借りてきた魔法士は温室の暖房を強化し、翌朝には鉢を二十六個枯らした。保温陣へ大量の魔力を流した結果、下段の鉢に熱が集中したのだ。
彼は謝罪し、技師の補助に回った。
フェランは、その報告をまだ殿下へ上げていない。
「彼女は、よほど自分の立場を高く見積もっていたのだな」
アーネストは、箱の一つを開けた。
依頼書の束だった。
洗濯室の排水不良。北棟の通風陣。食器庫の乾燥機。
舞踏会の夜、彼が気に留めたことのない場所ばかりだ。
「侍従に、各部署で片づけるよう伝えろ」
そう言って箱を閉じかけたとき、廊下からヴィヴィアンが入ってきた。
いつもの髪の薔薇は咲いていない。
「洗濯室を見てきました」
「君が行く場所ではない」
「私の衣装の裾が汚れていたので、理由を尋ねたんです」
ヴィヴィアンは、濡れた靴の先を見た。
床には水が溢れていた。担当の女性たちが桶で掻き出していたが、追いついていない。
彼女は火の魔法で水を乾かそうとした。
すると、年老いた洗濯婦に止められた。
濡れた木の床を急に熱すれば、反ってしまうという。
「私の魔法では、役に立ちませんでした」
「君は花を咲かせればいい。そんなことをする必要はない」
つい先日まで、その言葉は嬉しかった。
自分の美しさや才能を、誰よりも見てくれると思っていた。
今、彼女の胸に残ったのは、床に並んだ桶の光景だった。
「でも、服が乾かなければ、私も宴に出られません」
「新しいものを買えばいい」
アーネストは話を終えようとした。
そこへ、髭の白い技師が来た。ベルトンという男だった。
「殿下。南回廊の窓の交換につき、予算承認をお願いします」
「また窓か。リネットにやらせれば、費用などかからなかったぞ」
「材料費の記録は、あります」
ベルトンは冊子を開いた。
交換した留め金、補修用の線、枠の木材。
支払いの欄に、セルヴィ嬢立替と書かれている。
「彼女が手を出していた箇所も、いずれ交換は必要でした。引き継ぎ簿にあります」
「一時的に繕えばいいのでは?」
「もう一時的に繕える限界を過ぎています」
アーネストは署名をした。
苛立ちを込めて、ペン先を紙へ押しつけた。
仕事が増えたのではない。以前からあった仕事が、自分のところまで上がってきたのだとは、まだ考えなかった。
技師が出たあと、ヴィヴィアンが尋ねた。
「リネット様のお給料は、どうなっているんですか」
「どう、とは?」
「ここには、月八枚と。お仕事の契約があります」
アーネストは冊子を見た。
フェランが先回りして説明する。
「セルヴィ家のご意向により、婚姻時の精算を予定しておりました。王宮側に悪意はございません」
「では、婚姻がなくなった以上、精算しなければなりませんよね」
彼女の言葉に、フェランは微笑んだ。
ただ、その微笑みは答えではなかった。
「正式な照会には、正式に対応します」
アーネストは窓辺へ歩いた。
庭の噴水は止められている。そこに警告札が立っていた。
前は水が止まるたび、リネットへ伝言すればよかった。
彼女がどこにいても、夜でも、ほどなく直った。
それがなくなって、ようやく不自由を感じていた。
「彼女はどこへ行った?」
侍従が、オルディン領だと答えた。
アーネストは口元を歪める。
「辺境の古い館なら、気に入るだろうな」
ヴィヴィアンは、その声に笑いを合わせなかった。
開かれた契約書の署名欄を見ている。
リネット・セルヴィ。
今まで彼女に見えていたのは、殿下の婚約者という席だった。
席から離れても残る仕事の名前を、ヴィヴィアンは初めて読んだ。




