第5話 初めての給料で、何を買いますか
オルディンに来て七日目、事務員のナナさんが封筒を持ってきた。
私より二つ年上の彼女は、いつも袖口にインクをつけている。
「移動中の馬車の保温陣と、橋の臨時作業分。先に精算する決まりだから」
封筒の中には、銀貨が入っていた。
それぞれの作業時間と金額が、薄い紙に記されている。
馬車での作業も、本当に入っていた。
「間違いがなければ、ここに署名ね」
私は一枚ずつ数えた。
黙っていると、ナナさんが紙を覗き込む。
「少ない?」
「いえ。正しいです」
「ならよかった。お給料の日は月末。旅費も領のほうで持つから、領収書があったら私へ」
彼女は封筒を置いて、次の机へ行った。
大したことではない、という様子だった。
私は封筒を道具箱にしまい、また出した。
何かに使ってしまったら、なくなる。
当然のことなのに、怖かった。
昼休みに、辺境伯が修繕室へ来た。
水門の巡回順について、親方と話していたらしい。私の机に硬貨が並んでいるのを見て、足を止める。
「初めての精算でしたね」
「はい。ちゃんといただきました」
「ちゃんと、というところが気になりますが」
私は硬貨を封筒へ戻した。
王都で銀行に出した照会は、まだ返ってきていない。話をすると、辺境伯の表情が変わった。
「四年分の賃金を、婚礼で調整すると?」
「最初の一年は、支払われました。その後は」
「婚約と雇用は別です」
「今は、わかります」
強く言い返したつもりはなかった。
辺境伯は黙り、私の机の角を見る。
「すみません。すでに行動したあなたへ、余計なことを言いました」
こちらに謝る人なのだと、私は少し驚いた。
彼は隣の椅子を引き、座ってよいか尋ねた。
頷くと、改めて話を続ける。
「領の顧問弁護士を紹介できます。あなたが自分で進めるなら、費用の相談だけでも」
「お願いします。書類のどこを見るべきか、まだよくわからないので」
辺境伯は手帳へ書きつけた。
それから、封筒を見る。
「最初のお金は、何に使いますか」
答えを準備していなかった。
針はまだ使える。銅線は職場の備品だ。靴の底も破れていない。
「貯めます」
「それもいい。ただ、欲しいものがあるなら、買っていいのですよ」
「伯爵様は、最初の報酬をどうなさったんですか」
「軍でのものですか。父への酒と、自分の靴を買いました」
「両方必要なものですね」
「靴は必要でした。酒は、そのころの父には余計だったらしい」
笑い方が少年のようになった。
父親に叱られる辺境伯を想像すると、急に彼が近く感じられた。
午後の仕事を終え、私は市場へ行った。
小さな店に、色とりどりの砂糖菓子が並んでいた。
王宮でも食べたことはある。宴の余りを給仕が分けてくれた。
選んだことはない。
「こちらの白いのを、二つ」
柑橘の香りがついているという。
店主が薄紙で包んだ。
私は自分の銀貨を渡した。
持ったまま、すぐには歩けなかった。
館へ戻ると、書斎の灯りがついていた。
夕食まではまだ時間がある。扉を叩くと、辺境伯が顔を上げた。
「これを買いました」
紙包みを差し出したとたん、子供の報告のようだと思った。
彼は真面目に包みを開き、白い菓子を見る。
「綺麗ですね」
「一つ、召し上がりますか」
「いいのですか?」
「……私が、そうしたいので」
うまく言えたと思った。
辺境伯は菓子を一つ受け取った。
「では、お茶を淹れよう。あなたの好みを知らないのですが」
「薄めの紅茶が好きです。お砂糖は、一つ」
「覚えておきます」
湯が沸くのを待ちながら、私は書斎の窓を眺めた。
留め金は新しく、硝子に曇りもない。
仕事を探さずに、この部屋にいていい。
辺境伯の淹れたお茶は、少し濃かった。
彼は自分のカップを見てから、湯差しを持ってきた。
「失敗です。普段は濃く淹れるので」
「お湯を足せば、いただけます」
私も湯差しを受け取る。
ふたりで薄くしたお茶を飲んだ。
何かを頼まれるまでの時間ではなかった。
菓子がなくなっても、話が続いた。
その夜、残ったお金を箱に入れた。
菓子の分だけ少なくなっている。
なくしたのではない。自分で使ったのだ。
箱を閉じる手が、今度は怖くなかった。




