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第3話 温かい部屋に、依頼書はありませんでした

 王都を出て四日目、馬車はオルディン領に入った。

 道の両脇には、刈り取られた麦畑が広がっていた。山に近づくにつれ、木々が赤や黄に染まる。

 こんなに長く窓の外を見ていたのは、いつ以来だろう。

 王宮にいたときは、馬車に乗っても作業記録を書いていた。


「気分は悪くありませんか」


 向かいの辺境伯が顔を上げる。

 彼の膝にも書類はあったが、時々閉じては御者や私に声をかけた。


「元気です。あの山は、雪が積もるんですか」

「来月には白くなります。今年は冬が早いかもしれません」

「水門の検査を急いだほうがいいですね」

「仕事の話は、明日ガルド親方と。今日は到着だけで十分です」


 私は膝の上に置いた道具箱の留め金を、そっと離した。

 馬車が揺れると金具が鳴る。締め直そうとしていた手が、いつの間にか針を探していた。


 領主館は、想像していた城とは違った。

 石の壁に蔦が這う三階建て。中庭に洗濯物が干され、玄関では犬が眠っている。

 馬車が止まると、犬は薄目を開けてまた眠った。


「新しい修繕係の方ですね」


 玄関にいた年配の女性は、私の道具箱より先に顔を見た。


「家令のマルタです。遠いところ、お疲れさまでした。お部屋で手を洗われますか。それとも先に食堂へ?」

「どちらでも、皆様のご都合のよいように」


 マルタさんは一呼吸置いた。


「リネット様の都合を伺っています」


 意地悪な聞き方ではなかった。

 けれど、私は答えに詰まった。

 朝に食べたパンから、もう半日経っている。指には道の埃がついていた。


「……手を洗ってから、食事をいただきたいです」

「かしこまりました。では、湯をすぐに」


 案内された部屋には、寝台と机と小さな暖炉があった。

 机の上には紙が置かれていた。

 私は条件反射でそれを手に取る。


『夕食は六時です。起きられなければ、部屋へお持ちします。マルタ』


 故障の依頼ではなかった。

 その紙を、私は机の端に丁寧に置いた。


 食堂には野菜のスープと、肉の煮込みが待っていた。

 辺境伯は上着を脱ぎ、普通の椅子に座っている。近くでは子供が二人、パンの端を取り合っていた。

 使用人の子らしい。

 伯爵が手を伸ばし、パンを半分に割った。


「大きさは同じだ。今度はどうする?」

「こっちのほうが、皮が多い」

「それは相談してくれ」


 私は思わず笑った。

 辺境伯がこちらを見る。

 笑っても叱られないと気づいて、さらに可笑しくなった。


「こちらでは皆様、一緒に食べるんですか」

「全員ではありません。仕事や家族の都合があるので。ただ、空いている席は使っていいことにしています」


 上席はあった。家令も給仕も働いている。

 身分の違いがなくなったわけではない。

 それでも、仕事を終えた人が腹を満たすことを、誰も不思議に思わなかった。


 温かいものを飲むと、急に眠くなった。

 スプーンを置くと、辺境伯が静かに尋ねた。


「部屋へ戻りますか」

「まだ、点検すべき場所を教えていただいていません」

「明日の朝、九時に。今は七時です」


 時計を見上げる。

 針は確かに七時を指していた。

 私は無意識に、次の依頼を待っていたのだ。


「すみません。慣れていなくて」

「謝る必要はありません。私も、任せることをよく忘れます」


 辺境伯は左手を膝へ下ろした。

 旅の途中、手袋を外したところを一度だけ見た。指の付け根から手首まで、火傷の跡がある。

 何があったのか、私は聞かなかった。

 その傷に触れるには、知り合って間もなさすぎた。


 部屋へ戻ると、暖炉はすでに暖かかった。

 灰受けの蝶番が少し歪んでいる。いつものように膝をつき、針を取り出したところで、扉が叩かれた。


「湯たんぽをお持ちしました」


 入ってきたマルタさんが、私の手元に気づく。


「そこは来週、職人が直す予定です。今夜は触らないでください。火が残っていますから」


 私は針をしまった。

 直せるかどうかより、今、直してよいかどうか。

 ここでは誰かが、それを一緒に考えてくれる。


 寝台へ入ると、布団の底が温かかった。

 背中をつけても、まだ肩に力が入っている。

 鐘が鳴った。八時。続いて九時。

 九時になる前には眠るつもりだったのに、目を閉じることが怖かった。

 起こされる前に眠ると、よけいにつらい。

 そんなことを、身体が覚えていた。


 私は枕元の紙をもう一度読んだ。

 起きられなければ、部屋へお持ちします。

 短い一文を目で追ううちに、視界がぼやけた。


 翌朝、目を開けると、窓の外は明るかった。

 慌てて時計を見る。八時十五分。

 誰も戸を叩かなかった夜が、終わっていた。


 私はしばらく寝台に座っていた。

 無事に朝まで眠っただけで、こんなに驚く人間になっていたのだと、初めて知った。

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