第2話 引き継ぐものと、持っていくもの
翌朝、私はいつもより一時間遅く出勤した。
遅刻ではない。契約書に書かれている始業時刻は九時だった。
裏門の衛兵が、時計と私を見比べる。
「今日は何かあったのですか」
「いいえ。今日までは勤務しますから、よろしくお願いします」
工務室に入ると、机の上に依頼が七枚積まれていた。
うち三枚は、昨夜から今朝にかけてのものだ。
私は緊急度を確かめて、排水路の異臭の一件だけを赤い箱へ移した。二件は明日でも間に合う。残りは工務室の通常受付へ回す。
「全部片づけてから辞めるものではないのかね」
工務長のフェラン様が、戸口に立っていた。
いつも香油の匂いがする方で、狭い部屋に入るとしばらく消えない。
「辞める前日にも依頼が増えていますので、すべて終えることはできません。排水路は担当のベルトン技師に連絡しました」
「君ならすぐだろう」
「原因はまだ見ていません」
そう答えたのは、初めてだった。
すぐだろうと言われるたび、すぐにしなければならない気がしていた。
実際には、壁の中でどこが詰まったか調べるだけでも時間はかかる。
私は厚い引き継ぎ簿を開いた。
どの部品をどこから仕入れるか。止めるべき機器は何か。私以外に扱える技師は誰か。危険のある作業には、立会人が必要なこと。
フェラン様は、二頁目で閉じた。
「こんな細かい注意は、現場で覚えればいい」
「受領印をお願いします」
彼は不機嫌に印を押した。
私は受領書を切り離し、公証用の控えに添えた。
王宮の図面はすべて置いていく。自分の作業日誌のうち、費用と勤務の記録だけを持ち帰る。それは契約に認められた権利だった。
「私物も検める」
「人事係の方の立会いをお願いします」
呼ばれた人事係の女性は、袋に入った針と細い銅線を見て、目を丸くした。
「これで修繕を?」
「はい。傷んだ魔法陣の線をつなぎます」
「大きな魔法は?」
「使えません。火を灯すなら、蝋燭一本がやっとです」
皆、そこで話を終える。
人事係の女性は終えずに、銅線を指でつまんだ。
「小さな針ですね。こんなものを使っていたの」
「大きいと、隣の線まで触ってしまうので」
彼女はそれ以上何も言わず、持ち出し許可証に署名してくれた。
昼の鐘が鳴る前、食器庫の担当者が戸口へ来た。
私が辞めると聞き、最後に礼を言いに来たのだという。
いつも私に割れた皿の修繕を頼む人だった。陶器そのものは直せないので、収納棚の揺れを調べたことがある。
「あの棚を直してもらってから、夜の片づけが早くなりました」
彼女は、焼いたパンを布に包んで持っていた。
王宮の余りではなく、家で焼いたものだという。
「次の方が来たら、棚を強く温めないようにお伝えください。乾きすぎると木が縮みます」
「引き継ぎ簿を、私たちも読めますか」
考えたことがなかった。
工務長が読むものとしてまとめたが、設備を毎日使うのは彼女たちだ。
私は人事係に確認し、各部署の必要な頁を回してもらうことにした。
それなら一冊が閉じられても、必要な人へ届く。
「リネット様。どこへ行かれても、お元気で」
彼女は私の返事を待たずに、仕事へ戻った。
王宮での四年が、全部、嫌なものだったわけではない。
パンを鞄へしまうと、退職の日が少し違って見えた。
昼前、王妃陛下の代理人が来た。
婚約解消は両家合意。私への不名誉な理由は付けない。手続きの間、必要なら王宮の客室を使ってよいという。
私は客室だけを辞退した。
叔父の屋敷にも、もう戻らない。
母の遺した家は叔父に貸し出されていた。貸していることを知ったのは、先月のことだった。
私が二十歳になるまでの後見人。今は、私の委任を受けて財産を管理している人。
その委任の範囲も、収入も、私は正確に知らなかった。
知る時間がないと考えていた。
しかし毎日、他人の屋敷の窓を直す時間は作っていたのだ。
銀行で委任を停止し、書類の写しを求めた。
窓口の人は、身分証を確かめるとすぐに手続きをした。
叔父の許可は要らなかった。
「それから、工務室に未払いの照会を出したいのです」
私の契約は月に金貨八枚、四十八か月。
支払われたのは、最初の一年の九十六枚だけだった。
残りは『婚約者としての奉仕だから、いずれ婚礼の持参金と調整する』という叔父の言葉を信じていた。王宮がそう定めた書面はない。
未払い二百八十八枚。立て替えた材料費が四十二枚。
数字を一列に書くと、我慢してきた年月まで見える気がした。
夕方、門の前には辺境伯の馬車が待っていた。
昨日のうちに、仮雇用の条件を話してある。三か月の試用期間。住まいは領主館の別棟。月に金貨十二枚。夜間の緊急作業は別途支給。
失敗した仕事について報告する義務も、書かれていた。
その行があるから、信用できた。
「乗る前に、少しお見せしていいですか」
馬車の扉の内側に、保温陣の裂け目があった。
御者に確認してから、私は針を取り出す。線に細い魔力を通して、銅の筋を傷んだ部分へ置いた。
一針。もう一針。
指先が熱くなったところで、手を止める。
「これで今夜の風は防げます。ただ、木枠が腐り始めています。十日以内に交換してください。針だけでは支えられません」
辺境伯は補修箇所を覗いた。
「あなたがいなければ交換を忘れそうだ。予定簿に書いておこう」
「はい」
「その作業、明日の請求に入れてください」
「ほんの少しですが」
「では、ほんの少しの請求を」
目が合った。
冗談を言っている顔だったが、書類に記すことは本気なのだとわかった。
私は馬車に乗った。
膝には道具箱と、母の古い針入れ。椅子の横には二冊の作業日誌。
大きな荷物は、それだけだった。
「ほかに寄りたいところは?」
「母の墓に」
「日が落ちる前に間に合います」
御者への指示を聞きながら、私は鞄から白い花を出した。
今朝、市場で買ったばかりの花は、まだ元気だった。




