第1話 婚約破棄には承知しました。では退職届もどうぞ
「リネット。君との婚約を破棄する」
王太子殿下がそうおっしゃったとき、私はテーブルの下に落ちていた銀の匙を拾っていた。
匙を落とした子爵夫人が、私の代わりに息を吞む。広間の楽団まで演奏を止めてしまった。
顔を上げると、アーネスト殿下の腕にヴィヴィアン様が寄り添っていた。真紅の髪飾りが、彼女自身の魔法で咲く小さな薔薇に変わる。周囲から感嘆の声が漏れた。
綺麗だった。
私が今朝、宴の前に直した天井の照明よりも、ずっと。
「王妃となる女性には、国民に夢を与える華やかさが必要だ。君の地味な魔法では、それは望めない」
「承知しました」
拾った匙を給仕に渡すと、殿下の眉が寄った。
「承知した、だけか」
「理由をお尋ねしたほうがよろしいですか?」
「君は何でも仕事の話にしてしまう。そういうところが、私たちの間に心が通わない原因なのだ」
そうかもしれない。
昨日、お茶をご一緒する約束の時刻に、殿下から届いたのは『噴水が止まった。客が来る前に何とかしてくれ』という伝言だった。私はお茶の代わりに地下の排水路に入った。
その前は馬車の暖房。その前は寝室の窓。
殿下の好みは、紅茶より詳しく覚えている。照明は明るく、風は弱く、椅子の背もたれは冬でも暖かく。
私が何を好むか、殿下に尋ねられたことはなかった。
「では、こちらもお受け取りください」
鞄から封筒を取り出す。金の刺繍の入った小さな鞄には似合わない、実務用の茶色の封筒だ。
「何だ、これは」
「王宮修繕係の退職届です。明日の勤務を最後に、職を辞します」
殿下は初めて、私の手元をよく見た。
白い手袋の右の指先だけが、薄く灰色になっている。今朝、照明陣を縫い直した煤が落ちなかったのだ。
「そんなもの、今ここで出す必要があるのか」
「先月から三度、工務長に面会を願いましたが、お取り次ぎいただけませんでした。監督責任者である殿下に直接提出するよう、人事係に教えていただきまして」
「婚約を破棄された腹いせか?」
会場の誰かが小さく笑った。
以前なら、その笑い声だけで封筒を引っ込めただろう。
私は笑われることより、役に立たなくなることを怖れていた。
「いいえ。退職届の日付をご覧ください」
七日前の日付。
その日は、四度目の休日の取り消しが決まった日だった。
母の墓へ持っていく予定だった白い花が、部屋で枯れた。
「引き継ぎは?」
「図面、作業記録、部品の在庫、今月必要な補修をまとめました。担当部署に渡します」
「ならば、問題ないな」
殿下は封筒を隣の侍従へ押しつけた。
「そもそも、壊れたところを直すだけだろう。誰でもできる仕事だ。新しい担当はすぐに見つかる」
ヴィヴィアン様が一瞬、殿下を見た。それから私に向かって、少し困ったように微笑む。
「どうぞ、あなたに合った暮らしをなさってください」
「ありがとうございます」
うまく返事ができた。
泣かなかった。
それが嬉しいと思ってしまう自分が、少し悲しかった。
王妃陛下への挨拶を済ませ、私は広間を出た。陛下は公式な婚約解消の手続きについて、翌朝、人をよこすとおっしゃった。
私の退職届は、その場で受理された。
人の手が足りず、明日の勤務だけは残っている。
それでも、終わりが決まった。
回廊を歩くと、南の窓ががたがたと鳴った。
留め金が緩んでいる。風圧を逃がす陣の端も切れかけていた。あと五分あれば直せる。
私は窓へ手を伸ばしかけ、引っ込めた。
「南回廊の窓を、使用禁止にしてください。明日の引き継ぎ簿にも書いてあります」
通りかかった衛兵に伝える。
衛兵は戸惑いながらも、窓の前へ縄を張ってくれた。
危険を知らせることと、自分で全部を直すことは、同じではない。
覚えたばかりの区別だった。
玄関を出ると、雨が降っていた。
迎えの馬車はない。叔父に借りた馬車は、殿下のお客様を送るために使われている。
王宮の門まで歩けば、貸し馬車が見つかるはずだった。
「セルヴィ嬢」
振り返ると、黒い礼服の男性がいた。
広間の隅で見かけた方だ。銀灰色の髪に、穏やかな青い目。左の手袋を右手で直す仕草に、少し不自由さがあった。
「オルディン辺境伯ですか」
「ルイスで結構です。お話を聞いてしまいました」
今夜のことには触れてほしくなかった。
口元を引き締めると、辺境伯は懐から紙を一枚出した。
「失礼。婚約の件ではなく、退職のほうを」
広げられた紙には、領の橋や水門の修繕職を募集する文面があった。給与、勤務時間、休日まで書かれている。
私は休日の行を二度読んだ。
「週に二日、休めるんですか」
「その条件では足りませんか?」
「いえ、逆です」
辺境伯は笑わなかった。
募集用紙を私に預け、傘を開く。
「今日は返事をなさらなくて結構です。ひとまず、馬車まで」
「まだ私の魔法を見ていらっしゃいませんよ」
「昨年の東門の補修報告を読みました。設計の欠陥を隠さず、通行制限を提案したのはあなたでしょう」
「……殿下に褒められた報告です」
「署名は、あなたの名でした」
誰も読まないと思っていた。
報告書の最後、目立たない場所に書いた私の名前。
雨の中で、それを口にしてくれる人がいる。
傘に入る前に、私は募集用紙を鞄へしまった。
封筒を一通渡したぶん、鞄には少し余裕ができていた。
「まず、条件のお話を伺いたいです」
「喜んで」
辺境伯は私の歩幅に合わせて歩いた。
王宮の明かりは背後で眩しく輝いていたけれど、もう振り返る必要はなかった。




