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22/24

第22話 辺境伯様から、求婚の依頼書

 春になり、私は修繕所の二階へ移った。

 窓の下には、市場の賑わいが聞こえる。朝早くからパンを焼く匂いが上がってくるので、以前より朝食が楽しみになった。

 ルイス様とは、休みの日に会っている。

 館へ行く日もあれば、彼が店へ来る日もあった。

 忙しい週には、伝言石で近況を話すだけになる。


 離れて住めば、寂しい。

 寂しいからといって、仕事を畳んで館へ戻りたいわけではない。

 その二つを話せるようになるまで、少し時間がかかった。


 修繕所には、受付のエルマさんが入った。

 子供が学校に通っている間だけ働き、夕方は私かアダが受付をする。

 水曜日と日曜日は休み。入口の札を裏返すだけで、依頼が減るわけではない。

 納期が合わず断ることも、何度かあった。

 最初は断ったあとで落ち着かなかったが、エルマさんが翌朝、普段どおりに来てくれると安心した。

 断った一件で、店が終わることはなかった。


 ある水曜日、ルイス様が封筒を持ってきた。

 私は休日用の服を着て、店の窓辺で航海の本を読んでいた。

 彼は、机へ封筒を置いた。


「仕事の依頼ですか」

「いえ。仕事のつもりで受け取らないでください」


 言い方がおかしい。

 私は封を開けた。

 紙のいちばん上に、『依頼書』とあった。


『宛先 リネット・セルヴィ様

 依頼人 ルイス・オルディン

 内容 私との結婚について、考えていただきたいこと』


 その先へ、すぐには目を進められなかった。

 私は顔を上げる。

 ルイス様は立ったまま、耳を赤くしていた。


「口で伝える前に、紙を出すのはおかしいでしょうか」

「かなり」

「考えがまとまらなくて。仕事なら、まず紙に書くので」


 私は笑った。

 笑ってから、涙が出そうになった。

 この人も、私の返事が怖いのだ。

 何でも上手に聞ける人ではなく、失敗しないよう考えて、封筒を用意した人なのだ。


 続きには、結婚しても修繕所は私の事業として残すことが書いてあった。

 館へ住む場合も、仕事場を替える必要はない。店まで通う時間を取り、雇用の契約は別に続ける。

 私が姓をどう使うか、住まいをどうするかは相談したいとある。


「期限の欄が、ありませんね」

「急がせたくないので」

「見積もりも、ありません」

「結婚を見積もれる自信は、ありません」


 私は紙を置いた。

 喜びだけで、頷いてしまいたい。

 それでも、聞くことがあった。


「伯爵夫人の仕事は、ありますよね」

「あります。全部なくせるとは言いません。行事や来客への対応は、相談が必要です」

「私が今の仕事を続けたら、その時間は少なくなります」

「だから、これまで母やマルタに集中していた仕事も、分けたいのです。ただ、具体的に何をするかは、あなたと話したい」


 領主の妻になれば、何も変わらないはずがない。

 その変化を愛情で包んで、見えなくされるのが怖かった。

 ルイス様は、変わることを隠さなかった。


「私が休みたいと言ったとき、ご一緒に休めますか」

「必ずとは言えません。領の緊急の仕事はあります」

「逆も、あります」

「ええ」


 私は頷いた。

 何もかも叶えてくれるという約束より、叶わない日について話せることを選びたかった。


「一つ、追加していいですか」


 ペンを取ると、ルイス様が椅子を引いた。

 私は余白へ書いた。


『困ったとき、黙って仕事を増やさず、相手へ伝えること』


 彼は読み、少し苦く笑った。


「私にも必要ですね」

「はい。私にも」


 私はペンを置いた。

 依頼書の下には、回答欄があった。

 そんなところまで用意するのかと思うと、また笑ってしまう。

 そこへ、承諾、と書いた。


「一緒に暮らしたいです。今の仕事も、続けたいです」


 ルイス様は、紙を読むことを忘れたように私を見た。

 やがて、小さく息を吐く。


「ありがとうございます」

「ここで、お仕事の挨拶をなさらないでください」


 彼は笑い、私の手を取った。

 右手は、もう痛まない。

 それでも、彼は確かめるように指へ触れた。


「指輪を、はめても?」


 差し出された箱には、淡い青の石があった。

 大きすぎず、針を持つときにも引っ掛かりにくい形だ。

 私は仕事中は外すかもしれないと言った。

 彼はもちろんと答えた。

 外しても、約束がなくなるわけではない。


 指輪が、左手に収まった。

 私はしばらく眺め、それからルイス様を見た。


「今日は、何かを直すご予定は?」

「ありません。あなたは?」

「お店を閉めています」


 窓の外の人たちが、こちらを見ている。

 市場の店主が、わざとらしく目を逸らした。

 私は立ち上がり、窓のカーテンを引いた。


 振り返ると、ルイス様はさらに困った顔をしていた。

 私は近づき、彼の上着へ手を置く。


「今度は、紙に書かなくてもいいです」


 彼が身を屈めた。

 唇が触れたのは、ほんの短い時間だった。

 それでも離れたあと、私はうまく笑えなかった。

 彼も、何かを言いかけてやめた。


 机の上で、依頼書の端がめくれている。

 私はそれを本の下へ入れた。

 仕事の書類を重しにしなかったのは、意識してした、小さな選択だった。

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