第22話 辺境伯様から、求婚の依頼書
春になり、私は修繕所の二階へ移った。
窓の下には、市場の賑わいが聞こえる。朝早くからパンを焼く匂いが上がってくるので、以前より朝食が楽しみになった。
ルイス様とは、休みの日に会っている。
館へ行く日もあれば、彼が店へ来る日もあった。
忙しい週には、伝言石で近況を話すだけになる。
離れて住めば、寂しい。
寂しいからといって、仕事を畳んで館へ戻りたいわけではない。
その二つを話せるようになるまで、少し時間がかかった。
修繕所には、受付のエルマさんが入った。
子供が学校に通っている間だけ働き、夕方は私かアダが受付をする。
水曜日と日曜日は休み。入口の札を裏返すだけで、依頼が減るわけではない。
納期が合わず断ることも、何度かあった。
最初は断ったあとで落ち着かなかったが、エルマさんが翌朝、普段どおりに来てくれると安心した。
断った一件で、店が終わることはなかった。
ある水曜日、ルイス様が封筒を持ってきた。
私は休日用の服を着て、店の窓辺で航海の本を読んでいた。
彼は、机へ封筒を置いた。
「仕事の依頼ですか」
「いえ。仕事のつもりで受け取らないでください」
言い方がおかしい。
私は封を開けた。
紙のいちばん上に、『依頼書』とあった。
『宛先 リネット・セルヴィ様
依頼人 ルイス・オルディン
内容 私との結婚について、考えていただきたいこと』
その先へ、すぐには目を進められなかった。
私は顔を上げる。
ルイス様は立ったまま、耳を赤くしていた。
「口で伝える前に、紙を出すのはおかしいでしょうか」
「かなり」
「考えがまとまらなくて。仕事なら、まず紙に書くので」
私は笑った。
笑ってから、涙が出そうになった。
この人も、私の返事が怖いのだ。
何でも上手に聞ける人ではなく、失敗しないよう考えて、封筒を用意した人なのだ。
続きには、結婚しても修繕所は私の事業として残すことが書いてあった。
館へ住む場合も、仕事場を替える必要はない。店まで通う時間を取り、雇用の契約は別に続ける。
私が姓をどう使うか、住まいをどうするかは相談したいとある。
「期限の欄が、ありませんね」
「急がせたくないので」
「見積もりも、ありません」
「結婚を見積もれる自信は、ありません」
私は紙を置いた。
喜びだけで、頷いてしまいたい。
それでも、聞くことがあった。
「伯爵夫人の仕事は、ありますよね」
「あります。全部なくせるとは言いません。行事や来客への対応は、相談が必要です」
「私が今の仕事を続けたら、その時間は少なくなります」
「だから、これまで母やマルタに集中していた仕事も、分けたいのです。ただ、具体的に何をするかは、あなたと話したい」
領主の妻になれば、何も変わらないはずがない。
その変化を愛情で包んで、見えなくされるのが怖かった。
ルイス様は、変わることを隠さなかった。
「私が休みたいと言ったとき、ご一緒に休めますか」
「必ずとは言えません。領の緊急の仕事はあります」
「逆も、あります」
「ええ」
私は頷いた。
何もかも叶えてくれるという約束より、叶わない日について話せることを選びたかった。
「一つ、追加していいですか」
ペンを取ると、ルイス様が椅子を引いた。
私は余白へ書いた。
『困ったとき、黙って仕事を増やさず、相手へ伝えること』
彼は読み、少し苦く笑った。
「私にも必要ですね」
「はい。私にも」
私はペンを置いた。
依頼書の下には、回答欄があった。
そんなところまで用意するのかと思うと、また笑ってしまう。
そこへ、承諾、と書いた。
「一緒に暮らしたいです。今の仕事も、続けたいです」
ルイス様は、紙を読むことを忘れたように私を見た。
やがて、小さく息を吐く。
「ありがとうございます」
「ここで、お仕事の挨拶をなさらないでください」
彼は笑い、私の手を取った。
右手は、もう痛まない。
それでも、彼は確かめるように指へ触れた。
「指輪を、はめても?」
差し出された箱には、淡い青の石があった。
大きすぎず、針を持つときにも引っ掛かりにくい形だ。
私は仕事中は外すかもしれないと言った。
彼はもちろんと答えた。
外しても、約束がなくなるわけではない。
指輪が、左手に収まった。
私はしばらく眺め、それからルイス様を見た。
「今日は、何かを直すご予定は?」
「ありません。あなたは?」
「お店を閉めています」
窓の外の人たちが、こちらを見ている。
市場の店主が、わざとらしく目を逸らした。
私は立ち上がり、窓のカーテンを引いた。
振り返ると、ルイス様はさらに困った顔をしていた。
私は近づき、彼の上着へ手を置く。
「今度は、紙に書かなくてもいいです」
彼が身を屈めた。
唇が触れたのは、ほんの短い時間だった。
それでも離れたあと、私はうまく笑えなかった。
彼も、何かを言いかけてやめた。
机の上で、依頼書の端がめくれている。
私はそれを本の下へ入れた。
仕事の書類を重しにしなかったのは、意識してした、小さな選択だった。




