第21話 リネット修繕所の看板
未払いの金を受け取っても、私は急に豪華な暮らしを始めなかった。
旅から戻ったあと、ナナさんと三日かけて使い道を考えた。
母の家を自分の名で管理するための費用。
生活を立て直すための貯金。
使い慣れた針の予備。
それから、町で仕事をする場所。
試用期間の終わりが近づいていた。
親方は、私を正式に領の職員へ推薦すると言った。
私はありがたく思いながら、別の相談もした。
「小さな修繕所を開きたいんです。領の仕事は、契約で受けます。人も、育てたいので」
親方は腕を組んだ。
「一人で帳簿も道具も抱えるつもりか?」
「それは、無理だと思います」
「思う、じゃない。何を誰へ任せる?」
私は、準備した紙を出した。
領の大きな設備は、親方の技師たちと組む。アダの教育は、曜日を決めて続ける。受付と帳簿は、町で経験のある人を雇う。
雇えるまでは、受ける依頼を少なくする。
親方は紙を読み、仕事量の欄に線を引いた。
「少なくするなら、ここは半分でいい。開業したばかりは、何でも余計に時間がかかる」
私は書き直した。
使うべきお金が見えると、まだ足りない気もしてきた。
焦って全部を使わないよう、三か月分の余裕を残す。
借りる場所は、市場の横の元靴屋に決まった。
アダの父親が、角の広い店へ移ったため空いていたのだ。
窓から明かりが入り、裏には水桶を置ける。
入口の段差が高かったので、最初に低い踏板をつけた。
足の不自由な倉庫係も、入れるようになった。
開店の準備中、最初の客が来た。
手に持っていたのは、壊れた保温箱だった。食堂の女主人で、昼までに直してほしいという。
調べると、断熱材も傷んでいた。
「今日は、使えません。線を直すだけでは、外へ熱が漏れます」
女主人の眉が下がった。
私は親方のところで予備の箱を借りられるか確かめ、翌日の修繕を提案した。
値段を伝えると、王宮から来た人なら無料で見てくれるのかと思ったと言われた。
言い返す言葉が、すぐには見つからない。
エルマさんが、横から受付の紙を出した。
点検の費用と、交換する材料の費用を分けてある。
女主人は少し考え、代用品を借りる分も含めて申し込んだ。
「この箱で、毎日、何食も売るんだものね。ちゃんと直してもらわないと」
私たちは、納期を決めた。
終えた仕事に値段をつけることと、人に好きになってもらうことを、また混ぜそうになっていた。
エルマさんが紙を綴じる。
「次から、先生もこの用紙を出してくださいね」
先生と呼ばれる人が、受付の方法を教わる。
私は、はいと答えた。
ルイス様は、契約の話をするために来た。
公の仕事なので、ナナさんも一緒だった。
私は領の修繕依頼を、月ごとの見積もりで受ける。緊急対応は別枠。休業日には、親方のところへ回す。
修繕所は、私の事業になる。
「館の別棟は、どうしますか」
ルイス様が尋ねた。
「春までお借りしたいです。その後は、上の部屋へ移ります」
店の二階には、小さな部屋がある。
暖房を直し、窓を替えれば住めそうだった。
彼は窓を見上げて、少しだけ寂しそうな顔をした。
「わかりました。別棟の賃料は、他の職員の住まいと同じ条件で」
ナナさんが書きつける。
好きだと言われている相手から、家賃の説明をされる。
奇妙だったけれど、その説明がないほうが不安だった。
契約が終わり、ナナさんが席を外した。
ルイス様は、壁に立て掛けた看板を見た。
『リネット修繕所』
親方が塗ってくれたものだ。文字の右肩が、少し上がっている。
飾りはなく、下に小さな針が描かれていた。
「いい名前ですね」
「姓にしようかと思いました。でも、母もリネットだったので」
私は母と同じ名を持っている。
村の人は、母をリネットさんと呼んだ。
叔父に言われるたび、母と同じだけ働かなければならないと思っていた名だ。
今は、その名で違う働き方を始めたい。
「明日の午後、ここでお茶を飲みませんか」
私が言うと、ルイス様の目が看板から戻ってきた。
「仕事の打ち合わせですか」
「いいえ。私がお誘いしています」
彼は、その違いを確かめたかったのだろう。
私も、確かめてほしかった。
前に答えを保留した話は、まだ消えていない。
翌日、ルイス様は焼き菓子を持ってきた。
厨房で用意してもらったものではなく、町の店で買ったという。
私はお茶を淹れ、修繕室ではなく、窓際の小さな卓へ置いた。
「ルイス様」
彼がカップを置く。
「私も、あなたが好きです」
言うのは、思ったより怖かった。
婚約の約束がなくても、家の都合がなくても、自分の気持ちを渡すことは怖い。
でも、その怖さは、役に立たなくなる怖さとは違った。
「手が動かない日も、あなたと話したいと思いました。知らない本も、一緒に読みたいです」
ルイス様は、言葉を探しているようだった。
やがて、こちらへ手を差し出す。
「握っても、いいですか」
私は頷いた。
包帯を外した手を、彼の右手へ置く。
強くは握られなかった。
「私も、あなたの話を聞きたい。うまく話せない日は、その日も」
彼の言葉に、私は笑った。
手を引く代わりに、少しだけ指を曲げる。
窓の外で、看板を掛けるための釘が打たれていた。
作業の音を聞きながら、私たちはお茶を飲んだ。




