第20話 あなたの窓は、あなたの担当へ
王都を出る前日、殿下から面会を求められた。
私は公証人組合の応接室を指定した。
王宮の部屋へ行けば、帰るときに誰へ断ればいいか、またわからなくなりそうだった。
弁護士に予定を伝え、宿の管理人にも知らせる。
扉は閉めたが、鍵は掛けなかった。
殿下は侍従を一人だけ連れて来た。
花束はなかった。
そのことには、少しほっとした。
今さら大きな薔薇を差し出されたら、何をどう断ればいいか考えなければならない。
「すまなかった」
席について、殿下は最初にそう言った。
私は聞いた。
「君にばかり、仕事を押しつけていた。賃金の件も、確認をしなかった」
その謝罪は、前より具体的だった。
誰かに言われて用意した言葉でも、本人が口にする意味はある。
私は、謝罪を受け取りますと答えた。
「王宮に戻ってこないか」
殿下は、すぐに続けた。
膝の上で組んだ手に、力が入っている。
「以前とは違う。給与も、休日も、私が保証する。婚約のことも、改めて」
あの夜、私へ向けられた目を覚えている。
地味な魔法では夢を与えられないという声。
今、同じ方が復職と婚約を一緒に差し出している。
「雇用のことと、婚約のことは、別にお考えください」
「わかっている。ただ、私は君が必要だ」
必要だと言われるのは、以前なら嬉しかった。
何のために必要なのかを、考えずに済んだから。
「王宮には、ベルトン技師が戻ります。新しい修繕係も決まったと伺いました」
「そういう話ではない」
「では、どういうお話ですか」
殿下は、目を伏せた。
応接室の時計が、乾いた音を立てる。
「私の好みを知っている。何も言わなくても、困っているときに察してくれた。そういう女性は、ほかにいない」
私は、カップの取っ手に触れた。
宿の紅茶は、少し濃い。
必要なら、自分で湯を頼める。
「私は、言っていました」
殿下が顔を上げる。
「休日が欲しいことも、材料費が足りないことも、点検が必要な場所も。殿下が困らないように、言葉を選びました」
「私の立場も、考えてほしい」
言ったあと、殿下自身が口を閉じた。
あのころと同じ言葉だった。
「考えていました。考えすぎたと思います」
私は、膝に置いた鞄を見た。
青い手袋と、伝言石が入っている。
それを取り出して、別の男性のほうが優しいと説明する必要はない。
私が帰る理由は、誰かとの比較だけでできているわけではなかった。
「今の仕事を続けたいです。殿下との婚約も、結び直しません」
殿下は、長く黙った。
受け入れるまで待つことはできた。
断る理由を、納得されるまで増やすつもりはなかった。
「そんなに、辺境伯がいいのか」
私は一呼吸置いた。
「その質問にお答えするために、お会いしたのではありません」
殿下は、驚いたように私を見た。
私は湯差しを頼むため、宿の係を呼んだ。
係が扉を開けると、殿下は背筋を伸ばした。
言葉を荒らげることはなかった。
「わかった。君の望みは、聞いた」
彼は席を立った。
私は礼をした。
背中へ追いすがる言葉がないことに、殿下は戸惑ったようだった。
戸口で立ち止まり、壁の窓へ目を向ける。
閉めた窓の端から、風が入っていた。
「ここの留め金も、緩んでいるな」
私は頷いた。
「管理人に伝えてあります。明日の午後、職人が来ます」
殿下は、今度こそ部屋を出た。
侍従の靴音が遠ざかり、扉が閉まる。
私は椅子へ戻って、お茶に湯を足した。
窓は、まだ鳴っていた。
誰かが直す予定を、私は知っている。
自分の手を伸ばさずに、カップを持った。
その夜、伝言石を開いた。
仕事の報告ではなく、今日、面会を終えたことを話した。
ルイス様は、最後まで遮らずに聞いた。
『嫌なことは、ありませんでしたか』
「ありました。でも、答えられました」
『そうですか』
「明日、帰ります」
向こうで椅子を動かす音がした。
ルイス様が笑っているのだと、声でわかった。
『薄めのお茶を、用意しておきます』
私は、お砂糖は一つですと答えた。
彼は知っていますと言った。
知ってもらうために、何度も我慢を重ねる必要はなかった。




