第17話 雨の夜、開かない水門
領境へ着いたのは、予定より半日遅かった。
山道へ入る手前で、倒木の片づけを待ったのだ。
その間も、雨は降り続いた。
馬車の屋根に当たる音が、誰の声より大きい。
最後の宿場で伝言石を開いた。
親方が出た。
一番門は修繕を終え、町へ向かう水を絞っている。二番門は仮の歯車で動くようになった。しかし、三番門には適合する部品がない。
『水が増えてきた。伯爵が低い地区の避難を始めた』
馬車の窓から、川を見た。
茶色の水が、普段の河原を隠している。
荷の中には、三番門へ使える歯車があった。
ただ、それだけで動くとは限らない。調整器の線を外し、旧式の操作盤と接続する必要がある。
「ここから、まっすぐ水門へ向かっていただけますか」
御者は護衛と相談した。
水辺の道は使わず、丘の道を回る。それなら行けるという。
私はベルトン技師と、馬車の中で図面を開いた。
雨の音の中、互いの声を大きくして、作業の順を決める。
町に近づくと、灯りを持った人たちが列になっていた。
荷車へ毛布を載せる男。子供を背負う女。屋根のある場所へ羊を連れていく老人。
混乱してはいたが、皆が同じ方向へ歩いている。
門のそばで、ナナさんが名前を確かめていた。
「リネット!」
私を見つけた声に、ほっとしたものが混じった。
彼女はすぐに地図を出し、通れる道を示す。
「ここから先は、徒歩。部品は領の馬で運ぶ。伯爵様は一番門です」
「三番門へ行きます」
「伝えておく」
ナナさんは、余計なことを聞かなかった。
濡れた紙を胸へしまい、次の家族を呼んだ。
丘の道を半分進んだところで、荷車の車輪が泥へ沈んだ。
歯車を入れた木箱が、斜めになる。
私が押そうとすると、護衛が止めた。
木箱は重く、一人で扱えるものではない。
ベルトン技師が、部品だけを背負うための紐を出した。
箱の封を開く前に、濡れた紙へ部品番号を写す。届ける途中で入れ替わったと言われないため、護衛にも署名を頼んだ。
雨の中で紙を守る仕事が、こんなに難しいとは思わなかった。
「印は、私が保管します」
私は箱についていた札を外し、鞄へしまった。
四人で荷を分け、丘を上がる。
機械室へ着くまで、技師の肩に食い込んだ紐を何度も掛け直した。
使える部品が手元に来るだけでも、こんなに人の手が要る。
三番門には、ガルド親方と四人の職人がいた。
水が上がり、門の表側からはもう作業できない。丘側の機械室だけが、まだ乾いていた。
親方は部品を見ると、声を上げた。
「間に合った。箱を上げろ!」
ベルトン技師が寸法を測り、歯車を検める。
私は調整器の外側へ触れた。
切り離したはずの戻り線が、またつながっていた。
「誰が、これを?」
親方の顔が暗くなった。
昼間、供給元の整備係を名乗る男が来たという。工務長の古い委任状を持ち、無断開封の処置をして帰った。
親方は修繕を止めるなと抗議したが、領の役人が書類を信じて入れてしまった。
「そいつは、もういない。使った紙は押さえた」
保証を守るための処置なのか、証拠を元へ戻すつもりだったのか。
意図はわからない。
今、問題なのは、その線が歯車の動きを阻んでいることだった。
私は脇の遮断弁を見た。
水から得る魔力を、三つの水門に分ける線が走っている。
それを全部切れば、三番門は止まる。
だが二番門の補助動力も失われ、重い門を人力だけで持ち上げなければならない。
「全体を落とさずに、三番だけ切ります」
「時間は?」
「二十分。途中で水がここまで来たら、やめます」
ベルトン技師が私の手を見た。
「二十分続けては、持ちませんね」
「二度に分けます。私が線を外している間に、歯車をお願いします」
親方が頷いた。
壁に水位の印をつけ、撤退の合図を決める。
そのとき、伝言石から辺境伯の声がした。
『戻ったと聞きました。今、どこですか』
「三番門です。修繕を始めます」
『ここへ来てほしいと言うつもりでしたが、そちらに必要なのですね』
短い間があった。
私は雨の音の中で、自分の心臓を聞いた。
「はい。伯爵様は、一番をお願いします」
『わかりました。……リネット、危なくなったら戻ってください』
「ルイス様も」
名前を呼んだ。
初めてだった。
石の向こうで、彼が息を吸った気がした。
『約束します』
私は石を脇へ置き、道具箱を開いた。
青い手袋は、鞄の中にある。
針を持つ手には、仕事用の革をはめた。
冷たい金属へ触れる。線の位置を確かめる。
雨はまだ、弱まっていなかった。




