第12話 返事を、急がなくていいのなら
休養二日目、私はマルタさんと厨房へ行った。
仕事をするためではない。昼に食べる林檎の焼き菓子を、味見するためだ。
手を使えない人は口を使ってと、料理人に言われた。
「酸っぱすぎませんか」
「ちょうどいいです」
「伯爵様は、もっと甘いのが好きなんですよ」
私は少し驚いた。
辺境伯は紅茶に砂糖を入れないから、甘いものも苦手だと思っていた。
料理人が、大きな匙で蜂蜜を足す。
「昔は台所へつまみに来てね。弟君と一緒に叱られていました」
マルタさんが、余計な話をするなという顔をした。
ただし、止めはしない。
「弟様がいらっしゃるんですか」
「東の領へ婿に行かれました。お手紙はしょっちゅう来ます。ご兄弟で文字まで似ていて、たまに見分けがつきません」
知らない話が、まだたくさんあった。
私は伯爵の仕事や傷を知っている。でも、子供のころの好物も、家族への手紙も知らない。
自分は彼のことを、もっと知りたいのだと思った。
午後、庭を歩いた。
冷たい風が吹いていたので、青い指なし手袋をつける。
包帯の上からでも、ゆるくはめられた。
西の木立に、小さな東屋がある。
そこで本を読んでいた辺境伯が、私に気づいた。
「寒くありませんか」
「これがあるので」
手袋を見せると、彼の目が柔らかくなった。
横へ座る。間には、本一冊分くらいの空きがあった。
「何を読んでいるんですか」
「地誌です。隣の領で川底を掘る計画があるので」
「お仕事ですね」
「ええ。つい持ってきてしまいました」
私は仕事をしないよう言われた側なので、少しだけ得意になった。
「今日は、別の本をお読みになっては」
「何がいいでしょう」
「伯爵様の好きな本です」
彼は困ったように視線を泳がせた。
私が最初のお金の使い道を聞かれたときに、似ている。
「子供のころは、航海の話が好きでした」
「海へ行ったことは?」
「二度だけ。どちらも視察で、泳いではいません」
「私は、まだ一度も」
山に囲まれた領から、海は遠い。
遠いものの話をしていると、目の前の仕事が少し小さく感じられた。
行けるかもしれない場所が、王都と領の間だけではなくなった。
辺境伯が、本を閉じた。
「あなたと、行きたいです」
私は返事をしなかった。
聞き間違いを確かめるように、彼を見る。
辺境伯は、逃げるような笑いを浮かべなかった。
「視察ではなく。仕事の用意もしないで」
「私も行って、何を」
何をすればいいですか、と続ける前に、言葉が止まった。
辺境伯が、小さく首を振る。
「何も頼みません。私は、あなたと一緒にいたいのです」
風が、木立の葉を落とした。
黄色い一枚が、私の膝に乗る。
取ろうとして、包帯に気づいた。
辺境伯が取ってくれる。彼の指は、私の手には触れなかった。
「それは、お仕事としてではなく」
「はい。あなたを好きになりました」
身体の中に、熱いものが広がった。
喜びだとわかった。
そのあとに、不安が来た。
「私は今、伯爵様に雇われています」
「そのことは、考えました」
「嫌だと言ったら、ここに居づらくなりませんか」
声に出してみると、ずいぶん直接的な質問だった。
辺境伯は目を伏せた。
「ならないと約束できます。ただ、私の約束だけでは不安でしょう。仕事の評価は、ガルドとナナに任せています。住まいも、雇用が続く間は契約どおりです」
丁寧すぎる説明だと思った。
けれど、私には必要だった。
婚約者という立場を失ったら、何が自分のものとして残るのかわからなかった夜が、まだ近い。
「すぐに、お返事はできません」
「ええ」
「嫌なのではありません。嬉しいんです。でも、嬉しいから、何でも頷いてしまいたくて」
辺境伯は、葉を指先で回した。
しばらくして、私の隣の木の椅子に置く。
「では、今日はここまでにしましょう」
追いかけてくる言葉はなかった。
期限も、理由の追加も。
私が黙っていると、彼は航海の本の話をした。
船の料理人が海賊より怖い、子供向けの本らしい。
私は読んでみたいと答えた。
部屋へ戻ると、王都から届いた封筒が机にあった。
王妃陛下の名で、会計検査への出席を求める正式な召喚状。
材料の不具合についても、私の証言が必要だという。
封を開いた手は、昨日より動くようになっていた。
私は返事を急がなくていい人に、まず相談しようと思った。




