↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
12/24

第12話 返事を、急がなくていいのなら

 休養二日目、私はマルタさんと厨房へ行った。

 仕事をするためではない。昼に食べる林檎の焼き菓子を、味見するためだ。

 手を使えない人は口を使ってと、料理人に言われた。


「酸っぱすぎませんか」

「ちょうどいいです」

「伯爵様は、もっと甘いのが好きなんですよ」


 私は少し驚いた。

 辺境伯は紅茶に砂糖を入れないから、甘いものも苦手だと思っていた。

 料理人が、大きな匙で蜂蜜を足す。


「昔は台所へつまみに来てね。弟君と一緒に叱られていました」


 マルタさんが、余計な話をするなという顔をした。

 ただし、止めはしない。


「弟様がいらっしゃるんですか」

「東の領へ婿に行かれました。お手紙はしょっちゅう来ます。ご兄弟で文字まで似ていて、たまに見分けがつきません」


 知らない話が、まだたくさんあった。

 私は伯爵の仕事や傷を知っている。でも、子供のころの好物も、家族への手紙も知らない。

 自分は彼のことを、もっと知りたいのだと思った。


 午後、庭を歩いた。

 冷たい風が吹いていたので、青い指なし手袋をつける。

 包帯の上からでも、ゆるくはめられた。

 西の木立に、小さな東屋がある。

 そこで本を読んでいた辺境伯が、私に気づいた。


「寒くありませんか」

「これがあるので」


 手袋を見せると、彼の目が柔らかくなった。

 横へ座る。間には、本一冊分くらいの空きがあった。


「何を読んでいるんですか」

「地誌です。隣の領で川底を掘る計画があるので」

「お仕事ですね」

「ええ。つい持ってきてしまいました」


 私は仕事をしないよう言われた側なので、少しだけ得意になった。


「今日は、別の本をお読みになっては」

「何がいいでしょう」

「伯爵様の好きな本です」


 彼は困ったように視線を泳がせた。

 私が最初のお金の使い道を聞かれたときに、似ている。


「子供のころは、航海の話が好きでした」

「海へ行ったことは?」

「二度だけ。どちらも視察で、泳いではいません」

「私は、まだ一度も」


 山に囲まれた領から、海は遠い。

 遠いものの話をしていると、目の前の仕事が少し小さく感じられた。

 行けるかもしれない場所が、王都と領の間だけではなくなった。


 辺境伯が、本を閉じた。


「あなたと、行きたいです」


 私は返事をしなかった。

 聞き間違いを確かめるように、彼を見る。

 辺境伯は、逃げるような笑いを浮かべなかった。


「視察ではなく。仕事の用意もしないで」

「私も行って、何を」


 何をすればいいですか、と続ける前に、言葉が止まった。

 辺境伯が、小さく首を振る。


「何も頼みません。私は、あなたと一緒にいたいのです」


 風が、木立の葉を落とした。

 黄色い一枚が、私の膝に乗る。

 取ろうとして、包帯に気づいた。

 辺境伯が取ってくれる。彼の指は、私の手には触れなかった。


「それは、お仕事としてではなく」

「はい。あなたを好きになりました」


 身体の中に、熱いものが広がった。

 喜びだとわかった。

 そのあとに、不安が来た。


「私は今、伯爵様に雇われています」

「そのことは、考えました」

「嫌だと言ったら、ここに居づらくなりませんか」


 声に出してみると、ずいぶん直接的な質問だった。

 辺境伯は目を伏せた。


「ならないと約束できます。ただ、私の約束だけでは不安でしょう。仕事の評価は、ガルドとナナに任せています。住まいも、雇用が続く間は契約どおりです」


 丁寧すぎる説明だと思った。

 けれど、私には必要だった。

 婚約者という立場を失ったら、何が自分のものとして残るのかわからなかった夜が、まだ近い。


「すぐに、お返事はできません」

「ええ」

「嫌なのではありません。嬉しいんです。でも、嬉しいから、何でも頷いてしまいたくて」


 辺境伯は、葉を指先で回した。

 しばらくして、私の隣の木の椅子に置く。


「では、今日はここまでにしましょう」


 追いかけてくる言葉はなかった。

 期限も、理由の追加も。

 私が黙っていると、彼は航海の本の話をした。

 船の料理人が海賊より怖い、子供向けの本らしい。

 私は読んでみたいと答えた。


 部屋へ戻ると、王都から届いた封筒が机にあった。

 王妃陛下の名で、会計検査への出席を求める正式な召喚状。

 材料の不具合についても、私の証言が必要だという。


 封を開いた手は、昨日より動くようになっていた。

 私は返事を急がなくていい人に、まず相談しようと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。