「名もなき人形」の物語
シュヴァリエ家から遠く離れた富豪の屋敷でクオレマは目を覚ました。
あれからどのくらいの時間が経過したのかは、人形にはわからない。
人形は、クオレマの伝説を知らない一人の少女と出会う。
もう何度目だろうか、クオレマが目を覚ました場所は今までとは違うものを感じた。
自分に被せられている汚れた布を腕で除けてみれば、所々から外の光が漏れているがとても暗く質素な小屋の片隅であった
そこに水桶と布の切れ端を持った少女が現れる。栗色の髪の少女は、動き出したクオレマを見て、驚いた顔をしたと思ったら次の瞬間には水桶を放り出し喜びの表情で抱き着いてきた。
「神様に願いが通じたんだわ、あなたが本当の人間だったらいいのにとずっとお祈りをしていたの」
クオレマは願いという言葉を聞いて動揺したが、これは自分の呪いではなく休眠状態が終わっただけだと安堵した。
聞けば少女は雪の日に屋敷の近くで横たわっているクオレマをみつけ、この小屋にひそかに運び込んで、物言わぬ人形のクオレマを自分だけの友としていたのいたのだという。
「私はコレット、ここはドラクロワ様のお屋敷よ。といっても、ここはほとんど使われていない物置小屋なのだけど……」
ここはとある地主の屋敷で、少女はここで下働きをしている身だという。
この小屋はただの古びた物置で、屋敷の者が入ってくることはそうそうなく、クオレマはどのくらいの時間をここで過ごしたかはわかないが、今まで見つかることなく済んでいたというわけだった。
おしゃべりが好きなのであろう、少女は嬉しそうにクオレマに語り掛ける。
クオレマを見つけた日の事、隠し場所をいくつか考えたがやっぱりここが正解だったこと、
他の下働きの者に掃除用具と間違われ布をはぎ取られそうになったこと、屋敷で奥様の人形の世話をした時の知識で、体の表面の汚れや衣装のほころびはなるだけ綺麗にしたが、体に深くついた傷と足の破損だけは自分では直せなかったこと。
少女は名前も持ち主もわからぬ人形の服を繕い、髪を梳かし、汚れを拭ってくれていた。
愛されていた人形の時の自分はきっと人間にこういう風に扱ってもらっていただろうと、クオレマはなんとなく懐かしさを感じた。
「ちょっと待っていて!」
少女は小屋をパッと飛び出すと、その次にはこっそりと外を伺いながら音を立てないようそうっと戻ってきた。
その腕には黒い杖を抱えていた。
「これを使ったら歩けるかもしれないから、使ってみて」
クオレマは言われるがまま、ぎこちなく立ちあがる。
そしてまるで自分のために拵えたかのように手に馴染み、その杖をついて歩くことが出来た。
少女は喜んだあと、少し寂しそうにしながらこう言った。
「やっぱりぴったりね。それはお兄さんの杖だったの、背がちょうどあなたと同じくらいだったから、もしかしたらと思って」
「あなたのお兄さん?」
「ううん、ここで一緒に働いていた男の人よ。私を本当の妹ように親切にしてくれて……
でもある日仕事で怪我をしてしまって、その杖で歩いていたの。
ねぇ、その杖はもう使われることはないから、よかったらあなたに差し上げるわ」
クオレマは、そう、とうなづきながら答えた
「じゃあ、そのお兄さんの怪我はよくなったんですね」
ふと少女の顔から笑みが消え少しの沈黙の後、口を開く
「いいえ、死んでしまったの。足の具合がどんどん悪くなって、最後には歩くこともできなくなって」
クオレマはしまった、と言葉を失った。
「ここの旦那様は、私たちみたいな使用人が病気や怪我をしてもお医者様なんて呼んでくれない。
奥様は気にかけてくれているのだけれど、病気がうつるかもしれないって、旦那様に私たちと関わることを禁止されてしまったの。
仕事が出来なくなったらお手当も出ない。私たちのお手当では少しのお薬を買う事しかできなくて、弱っていくお兄さんを助けることはできなかった」
クオレマは少しの思案の後再び壁に背を預け、座り込む。
「この杖を頂くわけにはいきません、大切な形見でしょう?」
動かない右足を庇い片腕と片足でぎこちなく膝で歩き、最後には床に跪いて少女に返すために杖を差し出す。
少女は同じように座り込んで、差し出したクオレマの手を包むように握り、下へとおろした。
「だからあなたに使って欲しいの」
使用人が使っていたにしては立派なこの杖は、幼いころから懸命に働いてきた者の為にこの屋敷の奥様が特別に作らせたもので、あと何年でも使える。
この杖の持ち主は、自分が死んだ後、どうかまた助けが必要な人に差し上げてほしいと杖を少女に託したのだそうだ。
「お兄さんが死んでしまった次の朝に私があなたを見つけたの。
足の怪我を見た時に、きっとあなたが次の持ち主なのだと思ったわ。
だから、使ってくれるとお兄さんも奥様も、きっとお喜びになるはずよ」
少女は優しく微笑み、杖をクオレマの手に戻した。
しかし、クオレマの心は不安と動揺が過った。
まさかこの杖の持ち主を死に至らしめたのは、自分なのではないかと考えてしまったのだ。
明るさを取り戻した少女は無邪気に言葉を続ける。
「あなたの体のどこにも名前の刻印がなかったの。だから私、あなたが目覚めるまでそうしていたのだけど……ノエル、と呼んでいい?その杖を持っていたお兄さんの名前なの。まるで生き写しの様に、あなたによく似ていた」
そうか、死を意味する名の刻印は長い年月の間に消え、クオレマの伝説を知らない者にとっては、自分は作者もわからない名もなきドール。
「私に名前をくださり、ありがとう。どうか、そうお呼びください」
クオレマは無邪気な少女にそう伝えたが、心のざわつきは収まらない。
死の人形クオレマを知らないこの少女を、ノエルとなった私は忌まわしい呪いから守れるのだろうか?
そして、もし「ノエル」を殺したのが私だったとしたら、彼は私に何を願ったのだろうか?
私の中で今なお生き続ける人形師、ティルグ・ベルヴェルグよ。
貴方はこのような無垢な少女をも手にかけるおつもりか?
私を、かつて貴方が作ってきた数多のドールと同じように、大切に扱い、愛してくれたこの少女を。




