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「死者からの手紙」の物語

貧しい農民のある少年は秘密を抱えていた。

それは死した者からの手紙とその内容。

クリストフ・シュヴァリエ、この名をあなたは覚えているだろうか。

動かなくなったノエルを隠したコレットが身を寄せた村。

この村にはトリスタン・リベルテという男が住んでいた。

村で成人とされる十六歳になったばかりのこの者は、慎ましく貧しい暮らしをしていたが、とある秘密を抱えている。

それは、曽祖父の持ち物から出てきた謎の手紙。

差出人はレイチェル・ルクレール、宛名はクリストフ・シュヴァリエ。

曽祖父、クリス・リベルテは、宛名の違うこの不可解な手紙を死ぬまで大切に持っていたのだ。

手紙は大変古いものであるが、この村では見たこともないような上質な紙とインクで綴られていることはトリスタンにもわかった。

最も不可解なのは手紙の内容である。


この手紙を書いたレイチェル・ルクレールという人間は、クリストフ・シュヴァリエに宛てて今生の別れの言葉を綴っている。


長年仕える事ができた事への感謝や、突然訪れた別れへの謝罪。

それから、これからのクリストフの自由を願う言葉。


この手紙はルクレールという使用人が、身分の高い主に宛てたものだろう。

それを、この辺境の地で貧しく暮らしていた曽祖父がなぜ所持していたのか。

トリスタンはこのクリストフ・シュヴァリエが、曽祖父クリス・リベルテなのではないかと夢想していた。


当のクリス・リベルテはもう亡くなっており、本人に尋ねることはできない。

クリス・リベルテのルーツについては、大昔にこの辺りで獣狩りや傭兵のような事をしていたらしいということしかトリスタンは知らず、祖父も父もこの手紙の事など、その頃の友人か誰かの預かり物なのだろうと気にもしなかった。

しかしこの貧しい暮らしも村にも嫌気がさしているトリスタンには、どうしてもこの妄想がつきまとうのだ。


自分は、このシュヴァリエという富豪か貴族の末裔なのではないかと。

男子である自分にはその家を継いだり、恩恵を受ける資格があるのではないかと。



リベルテの家の者は農村の典型的な貧しい暮らしをしながらも、手が空いている時には村の子どもたちに簡単な字や歴史などを教えていた。

この、身分の高いであろう人間に宛てた謎の手紙を読めるくらい、自分に字を教えてくれたのは両親だ。

両親に字を教えたのは祖父で、祖父に字を教えたのは曽祖父だろう。

この辺境の貧しい田舎で、ここまで複雑に字を読み、教える事ができる者は少ない。

やはりクリス・リベルテはただの田舎者ではないように思えたのだ。

自分が本当にシュヴァリエとやらの末裔ならば、この貧しい村から逃げ出したい、苦しい生活や労働から逃げ出したい。

都会に出て華やかに暮らしたい。

トリスタンは、いつからかそんな堕落した妄想にぼうっと耽け、一日中仕事も手につかないような日々を過ごしていた。


その頃、この小さな村に見知らぬ孤児の少女が働き手として住み着く。

村人たちは最初はこの出自もわからぬよそ者に冷たく当たっていたが、よく働き愛嬌のあるこの少女は、やがて村人達に大変気に入られて家族のように可愛がられるようになる。

ただ一人、内気で口数の少ないトリスタンを除いては。



わざわざこんなつまらぬ村に来て、村人の言いなりに働かされるなんて、不運な娘だ。



噂によれば、この近辺一帯を統治していたドラクロワ家が突然不幸に見舞われ、焼け落ちたのだという。

どうせそこから逃げてきたのだろう、こんなところではなく、もっと遠くまで行けただろうに。

山を越えれば大きく賑やかな街がある、川を越えれば活気のある港町だ。

その先には自分の知らない世界たくさんある。

自由の身になれたのなら、ずっとずっと遠くへ行けばよかったのに。


トリスタンはこの少女コレットに関わることは極力避けていたが、胸の内では嫉妬や羨望を抱いていた。


そんな風にコレットを意識しながら過ごしていたトリスタンが、コレットの不可解な行動に気がつかないはずがなかった。

少女は夕刻になると、必ず村外れの朽ちた柵を越えてどこかへ向かい、しばらくして同じところから帰ってくる。

一体村の外に、毎日なんの用事があるのだろうか?

そのほんの少しの興味は、やがて強い欲望を孕んだ彼をあの人形の元へ導く事になる。





その日もトリスタンは野良仕事をするふりをして、コレットが例の柵から帰ってくるのを待っていた。

コレットはどうやら人に気づかれないようにこの行動をしているようだったが、この村で生まれ育ったトリスタンにはどこが死角となるかなどよく知っていた。

あの少女は何か秘密を持っているのだろう、それは家族のように迎えてくれた村人たちにも明かせないもので、自由の身になれたはずの少女をこんな村に縛りつけている何かだ。

でもあの素直で明るい少女には、何か後ろめたい事をしているようには思えない。

それが一体なんなのか、どれほど考えてもトリスタンには想像もつかなかった。

だからこそ、暴いてやろうという気持ちが抑えられなくなってしまったのだ。



ある日の夜半、トリスタンは寒さを凌ぐマントを羽織り、小さなランプだけを手に、例の柵を越えて村の外に出る。

手入れもされていない茂み、獣道、その奥には深い森。

こんなところに用がある者などそうそういない。

トリスタンは容易にその痕跡を見つける事ができた。

少女が毎日行き帰りに歩いただろう道筋の跡。小さな足跡。

それから、歩くためにかけわけたであろう茂み。


トリスタンはランプで足元を照らし、その痕跡を辿る。

それが途絶えた先にあったのは、生い茂る草木に隠された、小さな洞穴であった。

こんなところで、もしや獣の世話でもしているのか?

それとも何か隠しものでもしているのか?

まさか村から盗みを働いているのでは?


トリスタンは蔓状の植物を手でかきわけ、秘密の洞穴へ足を踏み入れる。

どこまでも暗く、静寂。時々聞こえる、天井から滴る水滴の音が一層肌寒さを感じさせた。

少女はこんなところに毎日足を運んでいる。

余程の何かがある筈、トリスタンはより強く確信し歩みを進める。

その足が感ずることのできない何者かの力で導かれているなどとは、もちろん思いもしていなかった。




洞穴の奥でトリスタンが見たものは、薄汚れた布に隠された何かであった。

それはちょうど人間くらいの大きさで、トリスタンは思わずそれに近づくことを躊躇した。

まさか人間の死体ではないだろうか?


薄灯の中で見るそれはとても不気味で、そんな想像を掻き立てるのだった。

いいやまさか、あんな小さな少女が。そんなわけないだろう。

トリスタンはどうにか自分を落ち着かせ、そして、あの少女の秘密を明かしてやろうと乱暴に布を剥ぎ取った。


トリスタンの目に飛び込んできたのは、やはり人であった。

力なく座らされ、目を伏せ、俯いている、黒髪の何者か。

咄嗟に小さく短い悲鳴をあげ、背筋が凍る。

出自はわからなくても、あの明るい少女が隠していたものが人間だったなんて、そんなことがあるだろうか?

そしてこの人間はおそらく、生きていない。トリスタンは思わず後ずさった。

あまりの出来事に手が震え、手にしたランプを落とし、その場に本当の闇が訪れた。

それが合図になったかのように、トリスタンの耳に何者かが語りかけてきた。




「こんな所までようこそ、願い人よ。あなたの願いを二つまで叶えましょう、

三つ目は願わないでください」





静寂と闇の中でカタカタと音が響き、たった今見た、人の死体だと思ったそれが動き出したのを気配で感じた。

一体、何が起きているのか。

トリスタンは思わずその場にへたり込み、しかし焦りながらポケットを弄る。

やっと取り出したマッチを何度も擦り、ようやく火を灯す。

黒衣を纏い、杖をついて立っているその者は、無機質な表情で、慄く彼を見つめていた。



「私はクオレマ、人ではありません。驚かせてしまいましたね」



声も出せないトリスタンに向かって、目覚めたばかりの人形は言葉を続ける。



「あなたの思いが私を目覚めさせました、私は人の願いを叶えるために作られた生き人形。

あなた何か強い願いを抱いている筈、私は力になれるでしょう」



マッチの炎が消える。

再び訪れた闇と、得体の知れない何者かにトリスタンは恐怖することしか出来なかった。

生き人形と名乗ったその者は、言葉も出せず震えるばかりの彼の手からマッチ箱を取り、落とされたままでいたランプに火を灯した。




「姿が見えないと怖いでしょう、安心してください。

私はあなたに危害を加える存在ではありません。ずはあなたの名を聞かせてください」


「俺は……トリスタン……」




トリスタンは呆然としながらやっと口を開く。

クオレマと名乗った人形は、少し微笑みを浮かべた。



「トリスタン・リベルテ……私はおそらく、あなたの祖先を知っている。

あなたもそれを知りたいのではないのでしょうか」



願いを叶える人形。そうか、この者は自分に願いを要求してる。

名乗らなかったリベルテの名まで知っている。

この瞳に、自分が持っている欲望を何もかも見透かされているというのか。




「私を目覚めさせたあなたの心に願いが何もないはずはありません、あなたは私をどう使いますか?」




人と見まごう程の、なんて見事な人形。それが今人間と同じように動き、自分に語り掛けてくる。

暴いてやろうとした少女の秘密は、トリスタンの想像をはるかに超えたものだった。

トリスタンは生き人形の言葉に耳を貸す間もなく、真っ青な顔でその場から逃げ出した。

暗闇の中を走って、走って、ついに洞穴から転がるようにして飛び出す。

風が草木を揺らす音と、月明かりだけが彼を迎えた。

思わず地面に膝をつき、冷たい風にあたり、息を切らしてたった今起きた出来事を

懸命に整理しようとした。


あの少女はあの人形をずっとひた隠しにしてきた。

あの人形がひとりでに動き、喋るような、人知を超えた存在だと知っての事だろうか?

でもあの人形は願いを叶えると確かに言っていた。

少女をこんな村で働かせ縛り付けるような存在なのだろうか?

願いの力を使えば、あの少女はこんな苦しい生活をする必要などないはず。



あなたの強い願いが私を目覚めさせた―――



トリスタンには確かに夢物語のような欲望を抱いて過ごしていた。

まさかそのためにあの人形は自分の目の前に現れたとてもいうのだろうか

あの人形は、人に話せば間違いなく馬鹿にされるような、そんな願いを叶えることが出来るのだろうか?


トリスタンはふらふらと村へと歩き出す。

あの人形は恐らく曾祖父クリス・リベルテが何者かを知っている。

自分が、あのクリストフ・シュヴァリエという者の血を引いているか、

シュヴァリエ家とはどこの貴族か富豪なのか、そして自分はその末裔を名乗ることが出来るのか。

自分がずっと知りたかった答えをあの人形は握っている。


村では一般的な古くて、寒くて、小さな家に戻るころにはトリスタンの気持ちはすっかり恐怖から解き放たれ、そして次に自分が何をするべきかもう決めていた。


明日、もう一度あの人形の元に行こう。レイチェル・ルクレールの手紙を持って。





さて、トリスタンを願い人にしようとこの人形を動かしていたのは、クオレマとティルグである。

かの者の願いの力でやっと動けるようになったクオレマだが、ノエルの意思がそこに介入することはできなかった。

ノエルはドラクロワ家への復讐のためにその意思の力を激しく消耗しており、二人分の意思を圧倒する事など不可能であった。

次の願い人が早々に現れたことにティルグは喜び、クオレマはトリスタンがどうか三つ目を願わない事を祈るばかりであった。

だが、あのトリスタンという男の欲望の強さを視ることができるティルグが、この得物を易々と手放すはずなどないだろう。



「今度はお前がそこで見ているがいい、クオレマの呪いをな。

人間の欲の醜さ、醜い人間がたどる運命……

リベルテとはかつて私が善なる者の願いで自由と幸福を与えた者、こいつは私の願い人だ。

お前に手出しはさせん」



闇に包まれた洞穴の奥で、ティルグ・クオレマはにやりとほくそえみながら自分の足を支えていた杖を投げ捨てる。

この洞穴の最奥の隙間はどこか地下水道へとつながっているのか、投げ捨てられた杖は岩壁に何度もぶつかりながら、だんだんとその音は遠ざかり、ついに落ちていってしまったのがわかった。

そして支えを失ったクオレマはそのまま崩れ落ち、立つことも歩く事も出来ない壊れた人形に自ら戻った。

ノエルやクオレマの意思がこの人形を歩かせ、トリスタンの傍から逃げだすことがないように。





「ノエル!」


翌日の夕刻、いつも通りに秘密の洞穴へやってきたコレットは、人形が目覚めていることに気が付く。

それはクオレマの隠れ家として二人がここへ来てから、二か月程経っていた。

久しぶりに言葉を交わすことができる自分だけの友人。少女の嬉しさもひとしおであった。


「コレット、眠っている間も会いに来てくれていたのでしょう、私は少しも汚れていませんね。ありがとう。怪我や病気などしていませんか?

あれからどう過ごしていたのか、よかったら話してください」


コレットは思わず大きな声で沢山の事を語った。

次から次へと嬉しそうに話す姿は、ドラクロワ家の物置小屋で初めて会った日の事を思い出させた。



「そう、村の人はとても良くしてくださってるんですね。仕事は辛くないですか?お友達は?」


「安心してノエル。私、仕事をするのは大好き。村の子たちとももうすっかりお友達!

でもね、一番のお友達はあなた。本当に毎日ここに来ていたんだから……あら?」


コレットはおもわず声を漏らした。

眠るクオレマの手に持たせていたはずの「ノエルの杖」がなくなっていることに気が付いたのだ。


「ノエル、杖をどこへやってしまったの?」


「わかりません、目を覚ましたらどこにもなかったのです」


「まさか!」


コレットは小さなランプの灯りだけを頼りに、あたりを探し回る。

周辺にも岩陰にも姿は見えない。

壁のように道をふさいでいる大きな岩の裏からはほんのわずかな水音が聞こえるだけ。

足場も危ういあの岩に上ることはコレットにはできないだろう。


「どうしよう、盗まれてしまったのかも……あれがないとノエルは歩けないのに、それに、それに……」


あの杖は使用人ノエルがコレットに唯一残した形見の品。

激しく動揺していたコレットの表情ははみるみるうちに悲しみへと変わり、

そのうちついに堪えることが出来ずに泣き出してしまった。


クオレマは一瞬、彼女が自分に「願い」をすれば大切な杖がすぐに戻ってくると考えたが、

忘れてしまった願い人の「コレットを守ってほしい」という願いが、それを口に出すのを止めた。

兄や友人として彼女を守ってゆくのであれば、クオレマの力をコレットに知られてはいけないのだ。



「コレット、大切な杖を守れず申し訳ございません。村にここを知っているような者は?」


「わからないわ、村の人じゃないかもしれない。

こんな所、大人が仕事をしに来るような跡も、子供が遊びに使ってるような跡もなかった。

でも、近くに村があるのに旅人や野盗がここに来る理由はないと思う……」



地面にうつ向いたコレットは偶然にもその痕跡を見つけた。割れたランプと燃え尽きたマッチ棒。

もっと先を見れは、マッチ箱がひっくり返り未使用のマッチが何本もばらばらと散らばっている。

落ちているマッチ棒の中には、折れてしまっているものもいくつかまじっている。


「誰かがここに来たんだわ。やっぱり杖は盗まれたのよ」


でも痕跡の不自然さはなんだろうか?

この痕跡を残した何者かは、ランプを手から落とし、割ってしまった。

中の牢に明かりを灯すためにマッチを付けようとするが、何度も失敗するほど焦っている。

暗闇のためだろうか?

そしておそらく最後には、ランプもマッチも放り出してここから逃げ出すように立ち去った。


コレットはこのわずかな痕跡から、頭の中でそんなストーリーを思い描いた。

杖があまりにも高価そうだから急いで持ち去ったのだろうか?

この精巧なドールではなく、杖だけを?



「……杖を盗んだ人はまたここにくるかもしれない、今度は人形のあなたを盗みに……

 どうしよう、あなたがいなくなったら私はまた……一人になってしまう」


「コレット、今の私は動けるし喋れます。

足は不自由ですが、相手は私を人形だなんて思わないでしょう」


「本当に?また私のいない間に人形に戻ったりしない?」


「ええ、しばらく私は生き人形です。安心してください。

誰かが来たとしても、ここに住んでる変人のふりでもしていましょう。

もし本当に杖を盗んだ者もう一度現れたなら、杖のこともお話します。あれは大切な形見の品だと」


コレットはおもむろに立ちあがり、岩陰に隠していたずっしりと重たい袋を取り出しクオレマの前に置いた。


「あなたから受け取った金貨、使わずに暮らしてきたの。

その人が来たら……この金貨で足りるなら杖を返してもらって、お願い」


コレットはこの金貨を自分のために使う事はできなかった。

それでも、あの杖は兄のように慕っていた使用人ノエルの形見。

そして人形ノエルが歩くために必要な杖。

どうしても使うとしたら今なのだ。



「わかりました、安心してください。さあもう遅いですよ、早く村に帰らないと。

そんな顔をしないで……また明日、待ってますから」


コレットは涙を拭いて、人形に別れの抱擁をして、何度も振り返りながらやっと洞穴から村へと帰っていった。




少女が洞穴から去った後、そのタイミングを待っていただろう者が、ティルグの思惑通りに願いを携えやってくる。

レイチェル・ルクレールの手紙を持ったトリスタンが昨日と同じマントを着込んで訪れた。

マントで顔を覆い、フードをかぶっているのは、少女と鉢合わせても何者か悟られぬようにだろうか。



〝さあ私のターンだ〟



クオレマの器の中で、ノエルは人形師ティルグの声を聞いた。





「クオレマ、教えてくれ。俺の先祖のクリス・リベルテと、この手紙を送られた……クリストフ・シュヴァリエの関係を。

この手紙がオヤジたちの言う通りただの預かりもので、ひい爺さんとシュヴァリエは何も関係がないのか、それとも……」


「あなたの一つ目の願いは、それでよろしいですね?」



トリスタンはこわばった顔で頷く。

トリスタンは、自分がこんな暮らしを強いられるような血筋の者ではないという確証がどうしても欲しかった。

この手紙を見つけてから、妄想にとりつかれてからずっと。

彼が単なる富以上に欲しかったのは「誇り」だった。

自分は特別であるかもしれないという可能性を見つけてしまってから、ずっと、ずっと。

ティルグ・クオレマはそんな彼が待ち望んでいる、期待通りの答えを与える。



「クリストフ・シュヴァリエは、あなたの曾祖父クリス・リベルテのかつての名前。

あなたが思っている通り、あなたはクリストフ・シュヴァリエの子孫。

……あなたは王都ミルツェの大貴族、シュヴァリエ伯家の人間です」


それはトリスタンの予想以上の答えだった。

クリストフ・シュヴァリエが身分の高い人間であることは想像していたが、まさか王都ミルツェの大貴族だなどと。

空想以上の事実は、しばしの間トリスタンを茫然とさせた。



「ひい爺さん……クリストフ・シュヴァリエは、な、なぜ……名前を変えてこんな田舎に?

俺たちは伯爵家の血を引く者にもかかわらずこんな貧しい生活を?」


「あなたが持っている、その手紙を書いた者がかつて私にそう願ったのです。

私がリベルテ家を知っているのは、そのためです」



トリスタンはさらに驚いた。

この手紙の主もクオレマに出会い、そして願った。

そして今度は自分がこの人形に出会ったのは偶然か、運命か?

この人形は、リベルテ家がクリス・リベルテから始まり、ひ孫のトリスタン・リベルテに至るまで、

長い時間をどう過ごして、どうしてこの洞穴に居たのだろうか。




「レイチェル・ルクレール……クリストフ・シュヴァリエの世話役だった使用人。

彼女が、クリストフ・シュヴァリエが身分を捨てて、自由に生きられるようにと願ったのです」


「そんなまさか、使用人が主人に貴族の身分を捨てさせたというのか?」


「端的に言えば、そうでしょう」


「なぜ……」



トリスタンは思わず声を荒げそうになるのを堪えた。

そして、ルクレールの手紙の内容を思い出す。

主クリストフへ向けて、どうかシュヴァリエの名に縛られずに自由になってほしいと記されていた。

貴族の子息とはそんなに窮屈なものなのか、小さな村の貧しい農民として生まれ育ってきたトリスタンには想像もつかない世界だった。

しかし、クリストフ・シュヴァリエ自身がそれを望んでいたのかどうかもわからない。

これはあくまでも使用人の願いなのだから。

これを聞いてなおの事、トリスタンの心にはふつふつと湧き上がる。

自分はこんな生活を強いられるような人間ではないはず、伯爵家の血を引く人間ならば。

トリスタンは少しばかり興奮しながら、人形に問いかける。



「俺が本当にシュヴァリエの人間なら、こんな村の暮らしを捨てて、

王都で貴族として暮らす権利があるだろう?願いでそれを叶えることはできるのか?」


「残念ながらクリストフ・シュヴァリエは、シュヴァリエ家から完全に抹消された存在です。

あなたがクリストフの末裔だと主張しても、今のシュヴァリエ家にはクリストフという男の存在は家系図に残っていません。レイチェル・ルクレールの願いと、この私の力によって」



地面に座して、うつむいたまま話していたクオレマがふいに顔を上げて、ならばどうしたらと困惑するトリスタンと目を合わす。



「私はその過去を改変するような願いを叶えることはできません。

でも私の力によるものならば、ちょっとしたことで奇跡を起こすことが出来るかもしれない。

私に願いの提案はできません……どう願えば最良の結果を得られるか考えるのはあなたです」



クオレマが語るそれは、トリスタンには謎かけのように難しかった。

願いには限りがあったはず、それがいくつだったか、昨日混乱の中で聞いたはずのそれを思い出すことが出来ない。

どうしたら自分がシュヴァリエの末裔であるかを証明できるのだろうか?


手に力を込めたトリスタンは、その感触にふと思い出す。

自分が、曾祖父の出自や身分を疑ったきっかけ。それはこの手に握りしめくしゃくしゃとなった古い紙切れ。

シュヴァリエ家にも、こういったものが残っているのではないだろうか?

クリストフ・シュヴァリエの痕跡が、この手紙のように紙たった一枚でも。



「……クリストフ・シュヴァリエの身分を回復してほしい」



トリスタンはこの願いに一縷の望みを賭けた。



「シュヴァリエ家の誰かが祖先にクリストフという人間がいた証拠を見つけて……

俺には貴族の家がどんなものか想像もつかないが、それは多分途方もなく大きな屋敷……

なら、きっとなにかがあるはずだと思うんだ」


「それは、二つ目の願いですね?」


「そうだ、この願いはできるのか?」



人形はトリスタンに向かって目を細め、口の端を上げて少し微笑んだ。

トリスタンには、その願いは正解であると満足しているようにも、不正解であると嘲笑しているようにも見えた。



「シュヴァリエの屋敷の、かつてクリストフが使っていた部屋の大きな本棚の奥には、

彼の日記が今なお誰にも見つからず隠されている。それがまぎれもない証拠となるでしょう。

日記にはシュヴァリエの人間でなければ知り得ない日々の出来事が記されている。

さぁ、叶えましょう。クリストフ・シュヴァリエの日記は間もなく、今その部屋を使っている者によって偶然発見されることになる」



これで、トリスタン・リベルテが伯爵家の血を引くものだと証明する準備は整った。

貧しい農民のただの妄想であった、あり得ない夢物語でしかなかった野望の成就に、トリスタンは思わず震えた。

そして気づけば、興奮に身を任せて声を上げて笑っていた。静かな洞穴に響き渡る歓喜の声。

人形もまた、彼を見つめて微笑んでいた。



「トリスタン……。

そのルクレールの手紙を持って王都へ行けば、あなたの思い望んだ生活があなたを待っているでしょう」



その人形の言葉を聞き、トリスタンの笑い声はぷつっと途切れる。王都ミルツェ。

田舎で育ったトリスタンには、どこにそれがあるのか、ここからどれほど遠いのか見当もつかなかった。

ごくまれにやってくる商人や旅人の噂に聞く王都とは、いくつもの山や谷を越えた先の、驚くべきような大きな都市。

ここまで来るのにどれほど骨が折れた事か。そんな事を聞いて育ち、きっと自分には死ぬまで縁もないだろうその王都に夢を馳せたものだった。


そんな場所もわからぬ遠くに、馬車や馬を借りる金も持たぬ自分が一人でたどり着けるだろうか?

いいや、自分が貴族の末裔ならば……


トリスタンの考えを察して、満足そうに微笑んでいたクオレマが急に険しい顔で忠告を放った。



「あなたは既に二つ、私に願った。三つ目を願えばあなたに呪いが降りかかる」

「……呪い?」



「私に三つ目を願った欲深き者は、クオレマの呪いによって必ず死ぬ。

だから私には二つしか願ってはいけません」



トリスタンが掴みかけていた夢は、急にその手から遠ざかった。

もしも2つまでだと覚えていたなら、違う願いでそれを叶えていたかもしれない。

トリスタンは昨日の出来事を、この人形が語り掛けてきた言葉をしっかりと覚えていなかったことを激しく後悔した。

彼に残ったのは二つの選択肢。

どこかもわからぬはるか遠い王都を目指して一人で旅に出るか、大貴族の末裔であることを胸に秘めたまま農民として変わらぬ生活をする事。



「できればもうこの洞穴には来ない事です。

これからどうするのかはあなた次第ですが、あなたは高貴な血筋。

どうかその命を大切にしなさい」



トリスタンは、これからどうするべきか決められぬまま、茫然自失のふらふらとした足取りで洞穴を後にした。

慈悲深きクオレマはどうか彼が2度とここに来ない事を祈り、ぜんまいが切れたかのように目を伏せて、力なくその場にうなだれた。






「ふふ、あの者がここへまたやってくると思うか?」


クオレマの器の中で、ティルグは一部始終を見ている事しかできなかったノエルに楽し気に問いかける。



「まさか。どんなに今の暮らしに不満があったとしても、一時の富が死よりも重いはずがあるものか。

それに、あいつには自分の足でそれを叶える選択もある」


「どうかな?本当に罪深い人間は己の欲望のためにどんな手段でも使う。

お前が殺した二人もそうだったろう」



呪い殺してもなおノエルにとっては思い出したくもないドラクロワ家の主たちを、わざわざ例えに出す。

人形師ティルグはどこまでも、趣味も意地も悪い男であった。

相手にするのも嫌気が差し黙りこくったノエルも、クオレマと同じく、トリスタンが二度と目の前に現れない事を望んだ。

だが、ティルグは小さく笑いながら言う。


「あの者は明日再び我々の前に現れる。私にはわかるのだよ」






その翌日の夕刻、コレットは村での仕事を終えて洞穴の奥で待つ友人に会いに行こうと例の柵へと向かった。

ところが、傍の茂みから突如、村の中でも関わった事のない名前も顔もまだよく知らない男が現れて、

超えようとしていた柵の前に立ちふさがる。

驚いて、声を上げたり逃げるという事も忘れて立ち尽くすばかりのコレットに、その男は低い声で囁いた。


「……俺はお前の秘密を知っている。あの人形に会いに行くんだろう?」


まさかこの男がノエルの杖を盗んだ者なのかとコレットは思った。

でも、なぜわざわざ自分に声をかけてきたというのか。

コレットはゆっくりと後ずさる、杖やノエル存在の代わりに、何か良からぬもを要求されるのだと、身に危険を感じたのだ。

男はその姿を見て少し笑いながら、素早くコレットの腕を乱暴に掴んで自分の傍に引き寄せる。

コレットは恐怖で声も出せなかった。


「安心しろ、お前のようなガキを襲うつもりなどない。お前にやってもらいたいことがあるだけだ。

 お前はあの人形の、『能力』を知っているな?」


「な……なんのこと……ひっ」


トリスタンは少女がとても逃げ出せないような強い力で腕をつかみながら、もう片方の手でナイフを見せつける。

それは懐に忍ばせることが出来るような小型のものであったが、十三歳の少女を脅すには十分であった。


「俺の言う事を聞くだけでいい、人形の元へ一緒に来い」




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