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はじまり 1話 

 男が毛糸で遊んでいる。鏡の中を行き来しながら、男はにんまりと笑い、毛糸を解いては結んで、結んでは解いて。


 少女は、何かを言いたかった。何か言葉を発したかった。しかし、何も言葉が出てこない。追憶の香りがする。父と母、そして私。草の香りと小さな花の出立が、少女に無邪気さを思い出させた。


 男は鏡を割る。割ってしまうと、少女の記憶も消えてゆく。少女の記憶が、だんだんと粒になって泡になって消えてしまうその頃に、少女は目が覚めた。



 

 夏が終わり、冬が来ようとしていた。相変わらず春実とよくいて、相変わらずの日々を過ごしている。離婚した後、夏可の姓が変わった。それが、夏可にとって残った、何となく気分の悪い傷だった。


 授業が終わり、部室に入る。部室には本がたくさんあって、その本の種類は全くデタラメであった。ベーコン卿があると思えば、今度は孟子、右にスタンダールがあると思いきや、左にはファイマンが。


 冬の雪の降る頃の部室は、何だか暗かった。古い蛍光灯の光のある廊下に、逆光を得て立ち潜む男が、静かにどこかへ去って行く。そんな風景が、少し寂しい。


 「悪党がここで出てくる。でも気をつけなくちゃならないのは、この悪党というのは政敵や反乱分子達のことであるということだ。


鎌倉幕府が強くなればなるほど、統制を強めなくてはならない。だから、こういう反乱分子を悪党とよんで、政敵を排除してたんだね。」


 そう言って、貞蔵は皆に本を紹介する。この男はなれた手つきで「日本の歴史をよみなおす」を本棚から取り出し、夏可に渡す。


 「これを読めば何となくはわかる。いい本だよ。読みやすいし、学としても中々しっかりしている。」


「そう。ありがと。」


「いいさ。ここにあったって仕方ないからな。」


「あら、やさしいのね。」


 そう佐奈井が茶化した。佐奈井は赤い小さな本を読みながら、ポテトチップスを食べていた。


「俺は紳士だからね。」


「紳士?紳士なら、そのまずその空いたチャックを閉めたら?」


 貞蔵は「うるせっ」と言いながらチャックを閉めた。佐奈井は笑いながら本で顔を隠す。


 「どうでもいいが、とりあえずもう始めようか?結局あいつはこなかったしな。」


 部長である囃子がそういい、全員でテーブルを囲む。この部活では普段は本を読み、定期的に本の論評会をすることになっている。


 しかし、実際には、だべってこの本が面白い、この本がひどい、とかそういうことをお菓子を食べながらのんびりするという、非常にやる気のない活動をしている。


「お菓子なにいる?」


「私はクッキーがいいな。」


「俺はいらね。」


 そんなふうに、和気藹々と何か平行線に会話が進んでゆく。平穏な時間、外では雪が降り積もる。どこかから、吹奏楽の音がした。エルガーの「威風堂々」が聞こえる。夏可は、窓を傍目に、何か特別な感覚を感じる。


「威風堂々ね。ローマン的だわ。」


「ローマンはローマンでも、華美なローマンさ。」


「違うわよ。彼のローマンはシンプルだわ。マーラーやワーグナーとは違う。」


「同じさ。ローマンはみんな同じ。全員が全員狂ってる。特別なことはありはしない。ただわかっただけさ。調性を劇的に使う術を、モーツァルトから学んでね。」


 囃子が少し眉間にしわをよせて言う。


「しかし、ベートーヴェンは素晴らしい音楽家だぜ。ワーグナーだって捨てたもんじゃない。何もローマン全体が悪いわけじゃないだろう。」


 貞蔵はニヤリと笑い、待っていたかの様にこう答える。


「捨てたもんじゃない?違うね。捨てるから意味があるんだ。調性を捨てることに、な。それこそ破壊的創造さ。全てのブルジョア社会における掟だよ。」


「ブルジョア社会から芸術が生まれるわけじゃないわ。」


「当然さ。だが現にローマンはブルジョアの産物さ。プチブル達が上位のブルジョアのパトロンの元につくる、実に破壊的な産物さ。」


 外から聞こえる曲は、いつのまにか変わっていた。今はタッチの主題歌が聞こえる。夏可は少し気まずい感じがして、クッキーをパクパク食べていた。


「あら、もう食べたの?早いわね。」


「うん。お腹空いてたからさ。」


 夏可は少し照れながらそう言う。雪が積もってきた。もう夜も黒くなる。私たちは、適当に切り上げて、帰路につくことにした。


 4人で雪道を歩く、街灯で輝く場所だけが、存在しているようだ。夏可は少しだけ恐れを感じる。天を見上げると雄大な空を、全く雄大な雲達が、覆い隠し、私たちを見下ろしている。


 何か、この自然にずっと見られている様な気がしてならない。夏可は、冬の風を受けながら、薄暗い街灯を浴びていた。


 4人は途中で別れる。別れると、夏可は少しだけ考えた。こういう気分が、どうして起こるのだろうかと。きっと、私だけがこの不安を持っていたんだろう。あの4人の中で、私だけが。


 この不安が私を支配する。私は体がこわばり、震え、吐き気がしてくる。そんな時が、時折り私にやってくる。夏可は自分自身を不幸に想った。自分自身の弱さを呪った。


「もし、生まれ変わったら、私はもっと明るくなりたいな。私はもっといい人間になれたらいいな。」


 そう想って、空を見上げる。夏可には雲が、歯車の様に見え、街灯が鏡の様に見えた。どこがで、この光景を、確かに見た様に、しっかりと、感動して。

 

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