序章 3 やるじゃないか
サギが近づいてく、口づけをする。夏可は逃げる気力がない。サギが愛撫する。ゆっくりと丁寧に、いじらしく。夏可はこれを少し期待していたように身を委ねる。まるでこれを待っていたかのように。
ジリンジリンと音がした。自転車の音が。サギは幽遊と飛び立って行った。夏可ははっとしたように、音の先を見ると、そこには会ったことのある様な男が立っていた。
「うん?人がこんなところにいるなんて、しかも若いのに。」
「はぁ」
不思議とデジャブの感じるその会話と男に、夏可は微睡の続きの感覚の後引きを感ずる。
「ここはどこでしょう。」
「ここは浴室です。見ればわかるでしょう。」
「、、、はぁ、」
ぎこちない会話が続く、でもどこかでやったような気がする。夏可はその感覚を微睡の中で自己解決してしまう。
鏡に男の顔があちこち反射する。鏡は全方向彼方此方に立て付けられ、存在し、満遍している。しかし、男の顔姿までは逆光につき、みえやしなかった。夏可はその見えなさに少なからずの興味を覚えた。
男の笑みが、逆光沿いに浮かび上がるのが見えた。夏可はこの笑みをどこかで知っている。
男は紅茶を注ぎ始めた。夏の、風の強い日のことである。私は田園の上に座っていた。下を見ると田んぼが見える。落ちたらどろんこだろう。夏可はそう思うとちょっと緊張してテーブルのマットを握った。
男は紅茶を夏可に手渡す。夏可はそれを飲む。その匂いは赤ん坊を匂う様な良い匂い。バラの様な美しさではなく、赤子の様な家庭さが、この紅茶にはあったのだ。この匂いが永遠を貫いたのなら。
「私はどこにいるの?一体どこに生きているの?」
「そんなこと、誰にも答えられやしないさ。どこの誰でも、自分が何をしているのか答えられやしない。答えたら、その時点でそいつは死を選ぶだろうからね。」
「どうして死を選ばないの?」
「それは自分に聞いてみてくれ。君は生きてるんだから。」
「貴方は死んでるの?」
「いや、そうは思わない。でも、君より生きている様には思えない。」
微睡の恍惚が続いている。問答は平行を辿り、田園は地平線を形造り、水平線の境と融合する。もうだれも、この混乱を止められない。
「これは夢?」
「さあね。」
母と父が見える。夏可を呼んでいる。母の笑顔が見えるその笑顔は富士の山の様に大きくて太陽みたいにいっぱいだ。父はたいへん立派で、それはきっと子供の頃に死んだおばあちゃんの、お経を読んでいたあのお坊さんの様に、きっと偉いに違いない。
「どうして聞かなきゃダメなの?」
母は言う。
「そうしてあげたら、おばあちゃんは極楽に行く前に、夏可にご挨拶ができるのよ。だから、ね、ちゃんと挨拶してあげて。」
夏可は死を知る。おばあちゃんにはもう会えない。だから、死んでも挨拶させてくれるお坊さんには本当に感謝しかないのではないだろうか。そんな感謝を夏可は父に向けている。
父への、こう言った感謝は、まるで家父長制への信仰である。しかし、そんなことが、少女にいったい、どんな意味を持つのだろうか。
「またね。」
こうして、夏可は目を覚ました。母と父が離婚したと言うことを、その時知った。元々父とは暮らしていなかったので、なんとなく予測できた様でもある。
だが、こう言ったことが、実際に自分自身の現実になってしまうことを、一体どうやって想像をすれば良いのだろうか。一体、こんな夏可を、夏可は考えられたのだろうか。あんまり、無茶なことを言うもんじゃない。
父の後ろ姿が印象的であった。どこかでみたことがある逆光であった。夕焼けの逆光が父の顔を隠すのだ。この逆光を、私はどこかでみた気がする。そんな思いを、夏可はすると共に、どこかもう、父に会うことはないんだろうなという気がしてしまった。
涙が出ていた。あくまで少女の涙が。可憐無垢な、発情していないような稀有な涙が。泣き疲れたからだろうか。夏可は色んな夢をみた。両親が仲良くしていた記憶、若い先生に恋をしていた小学校の記憶、鮮やかな花びらが宙を舞って、それはそれは綺麗な花園のお姫様の夢。舞台は一変する。
鏡と歯車が周りを蠢いている。この光景を私はどこかでみなかったろうか。無数の鏡が相互に乱反射を起こす、その全てに夏可の記憶が写り込む。両親の喧嘩が、撤去された私の秘密の花園が、それと、春実と総士のまとわりつくようなキスが。
夏可はこの景色を、きっとどこかで見ているはずだ。でも、いったいどこで?




