小早川景について(後編)
恐る恐る通話ボタンを押す。
「……もしもし。」
『春一?』
聞き慣れた声。
姉――ひかりだった。
『今日、生徒会の仕事が長引くわ。帰りは遅くなる。』
「へぇ。」
『母さんも今日は店だから帰らないそうよ。』
「そうなんだ。」
『みちるは友達の家に泊まるらしいわ。』
「へぇ。あ、アイツ明日振替で休みだったな。」
『だから夕飯は適当に済ませておいて。』
「了解。」
『以上よ。』
プツッ。
電話は一方的に切れた。
「……相変わらず電話切るの早ぇ。」
俺が苦笑いしていると、彩香さんが優しく微笑んだ。
「じゃあ決まりね。」
「え?」
「夕飯、食べていくでしょう?」
「い、いやいや!」
「さすがに初対面でご馳走になるのは悪いですし!」
慌てて両手を振る。
すると彩香さんは困ったように笑った。
「そんなに遠慮しなくても大丈夫よ。」
「作りすぎちゃったし、食べてくれる人が増えると助かるの。」
「でも……。」
ちらっと景を見る。
景もどこか期待するような、それでいて遠慮するような表情を浮かべていた。
「春一くん。」
「無理には言わないけど……学校での景のこと、おばさん聞いてみたいな。」
「一緒に食べられたら、私は嬉しい。」
(はい、終了。)
(その言い方は反則です。)
(断れる男子高校生、この世に存在する?)
しかも――。
横を見ると、景がこちらをじっと見ている。
その目はまるで、
『来てくれるよね?』
そう言っているようだった。
(ずるい。)
(親子そろって、ずるい。)
「……じゃあ、お言葉に甘えます。」
「えっ!? 本当!?」
景は目を丸くしたかと思うと、すぐに満面の笑みになった。
「うん! うん!」
「ゆっくりしていってよ! 春一くん!」
嬉しそうに何度も頷く姿を見ていると、断らなくて良かったと思えてしまう。
「ありがとう!」
(いや、お礼を言うのは俺なんだけど。)
◇ ◇ ◇
景の家は、駅から少し歩いた住宅街にあった。
二階建ての白い一軒家。
庭には季節の花が咲き、玄関先まできれいに手入れされている。
(いい家だな。)
「ただいまー。」
「お邪魔します。」
玄関へ入ると、リビングの方から元気な声が聞こえた。
「姉ちゃん、おかえ――」
勢いよく飛び出してきた小学生くらいの男の子は、俺を見るなりピタリと止まった。
「……誰?」
「お客さんだよ。」
景が優しく頭を撫でる。
「クラス委員の春一くん。」
「春一くん、この子は弟の隆。」
男の子は胸を張った。
「小学五年生!」
「小早川隆です!」
「吉川春一。」
「よろしく。」
握手すると、隆は目を輝かせる。
「お兄ちゃん、彼氏?」
「違うっ!!」
景が食い気味に否定した。
「違うから!」
「ただの同級生!」
「えー?」
隆は首を傾げる。
「でも姉ちゃんが男の子連れてくるの初めてだよ?」
「……っ!」
景の顔が一瞬で真っ赤になる。
「りゅ、隆!」
「変なこと言わないの!」
「いてっ!」
軽く頭を小突かれた隆は笑いながら頭を押さえた。
「ごめーん!」
(いや……。)
(ごめんで済む爆弾発言じゃないんだけど。)
その様子を見て、彩香さんはクスクスと笑っている。
「ふふっ。」
「隆。」
「春一くん困ってるでしょう?」
「はーい。」
「でも本当なんだもん。」
「もう!」
景は恥ずかしそうに頬を膨らませる。
学校では真面目で落ち着いて見える景も、家ではちゃんと高校一年生なんだな。
そんな姿が少し新鮮だった。
◇ ◇ ◇
「春一くん。」
「遠慮しないでね。」
彩香さんが料理をテーブルへ並べていく。
「今日はカレーだけど。」
テーブルにはカレーだけではなく、唐揚げ、サラダ、スープまで並んでいた。
(これ……。)
(『作りすぎた』のレベルじゃなくない?)
「いただきます。」
席へ着くと、景が当たり前のように俺の隣へ座る。
(また隣!?)
(いや、家だから当然なんだけど!)
肩が触れそうな距離。
ふわっとシャンプーの香りがした。
(落ち着け俺。)
(カレーだ。)
(今日はカレーを食べに来ただけだ。)
「春一くん?」
「どうしたの?」
「いや!」
「何でもない!」
慌ててスプーンを持ち、一口食べる。
「……。」
「どう?」
彩香さんが少し不安そうに尋ねる。
「めちゃくちゃ美味しいです。」
本音だった。
「本当?」
「はい。」
「うちの母親も料理は上手なんですけど、それとはまた違う美味しさがあります。」
「まぁ。」
彩香さんは嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。」
「またいつでも食べに来てね。」
「え?」
思わず俺と景の声が重なる。
「お母さん!」
景が慌てる。
「さすがにそれは……。」
「ふふっ。」
「だって楽しそうなんだもの。」
彩香さんは優しく笑った。
その笑顔を見ていると、この家がどれだけ温かい場所なのかが伝わってくる。
気が付けば、俺も自然と笑っていた。
――この時の俺は、まだ知らなかった。
この温かい食卓の裏に。
景が誰にも話していない、小さな秘密が隠されていることを。




