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小早川景の秘密

夕暮れの公園。


 ブランコが風に揺れる音だけが静かに響いていた。


 景はベンチに腰を下ろしたまま、しばらく何も話さなかった。


 俺も急かさない。


 彼女が自分から話そうとしている。


 それだけで十分だった。


「……春一くん。」


 小さく名前を呼ばれる。


「うん。」


「私ね。」


 景は膝の上で両手を重ね、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「中学二年生の時のこと、覚えてないの。」


 その一言で、俺の時間が止まった。


「……え?」


 思わず聞き返してしまう。


「正確にはね。」


「学校で過ごした記憶だけが、なくなっちゃったの。」


 景は空を見上げた。


「家族のことは覚えてる。」


「小学校の友達も。」


「でも、中学校で誰と何をしていたのかだけ、思い出せないの。」


 俺は黙って耳を傾ける。


「最初は私も分からなかった。」


「どうして思い出せないんだろうって。」


「でも、お母さんとお父さんが教えてくれたの。」


 景は一度目を閉じた。


「私はね。」


「中学で、いじめにあってたんだって。」


 胸が締め付けられる。


「ある日、体育倉庫に閉じ込められて。」


「逃げようとした時に、棚に積んであった器具が落ちてきて……。」


 景は自分の頭にそっと手を当てた。


「頭を強く打ったの。」


「命は助かった。」


「でも、その事故が原因で記憶障害になったって。」


 夕日が景の横顔を照らす。


 その表情は、どこか諦めたようにも見えた。


「退院して学校へ行った時ね。」


「みんなが私のことを知ってるの。」


「でも、私は誰のことも思い出せなかった。」


「先生も。」


「友達も。」


「教室も。」


「全部、初めて見る景色だった。」


 声が少し震える。


「怖かった。」


「本当に怖かった。」


「だから……。」


「嫌われないようにしようって思ったの。」


 景は苦笑する。


「笑って。」


「謝って。」


「相手が嫌な気持ちにならないようにして。」


「そうしてたらね。」


「距離感がおかしいって、また言われるようになっちゃって。」


 春一はようやく理解した。


 どうして景は誰にでも優しいのか。


 どうしてあんなに人との距離が近いのか。


 どうして嫌われることをあれほど恐れていたのか。


 全部、繋がった。


「……ごめんね。」


 景が小さく笑う。


「重い話しちゃった。」


「本当は誰にも話したくなかったんだけど。」


「春一くんになら話してもいいって思えたの。」


 その言葉が胸に響く。


 信頼してくれた。


 俺を。


 俺は景の隣へ歩み寄り、静かにベンチへ腰掛けた。


「景。」


 初めて、名前で呼んだ。


 景は驚いたように俺を見る。


「今まで、大変だったな。」


 それしか言えなかった。


 慰めの言葉なんて見つからない。


 軽々しく「頑張ったね」なんて言える話じゃない。


 だから、ただ受け止める。


 景は少しだけ目を潤ませながら笑った。


「うん。」


「でもね。」


「高校に入ってから、少しだけ変われた気がするの。」


「クラス委員になって。」


「春一くんと出会って。」


「毎日が少しだけ楽しくなった。」


 その笑顔は、どこか吹っ切れたようだった。


「ありがとう。」


 その一言だけで十分だった。


 俺は確信する。


 最初は、見た目に惹かれた。


 一目惚れだったのかもしれない。


 だけど今は違う。


 彼女の笑顔も。


 弱さも。


 怖さも。


 全部知った。


 それでも――。


 いや。


 だからこそ。


 俺はこの子を支えたいと思った。


 俺はこの子と、一緒に歩いていきたいと思った。


 そして、改めて確信する。


 俺は、やはりこの子のことが好きなのだ。

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