夏目こころと俺の関係(前編)
病院の廊下は、不思議なくらい静かだった。
白い壁。
消毒液の匂い。
時折聞こえる電子音だけが、この場所に時間が流れていることを教えてくれる。
俺は病室の前に置かれた長椅子へ腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げていた。
「……。」
何も考えたくない。
そう思えば思うほど、頭の中には夏目こころの顔が浮かんでくる。
泣きそうな顔。
笑った顔。
そして、階段から落ちる瞬間の表情。
「くそ……。」
拳を握り締める。
あの時、もっと早く追い付けていたら。
もっと違う言葉を掛けられていたら。
そんな「もしも」が何度も頭をよぎる。
「……春一くん?」
顔を上げると、景が立っていた。
制服姿のまま、小さく頭を下げる。
「今日も来てたんだ。」
「あぁ。」
景も俺の隣へ腰を下ろした。
二人とも病室の扉を見つめたまま、しばらく言葉はなかった。
「ねぇ。」
景が静かに口を開く。
「春一くんは、夏目さんと前から知り合いだった?」
「……え?」
思わず景を見る。
「そんな風に見えた?」
「うん。」
景は少し困ったように笑った。
「事故の時ね。」
「春一くん、すごく必死だった。」
「普通のクラスメイトを追い掛けるようには見えなくて。」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
「まぁ……。」
春一は苦笑する。
「知り合いっていうほどじゃないけど。」
「昔、一度だけ会ったことがある。」
「え?」
景が目を丸くした。
「小学校の頃。」
「まだ四年生くらいだったかな。」
自然と昔の景色が頭に浮かぶ。
◇ ◇ ◇
あの日も雨だった。
傘なんて持っていなかった俺は、公園の東屋で雨宿りをしていた。
「……。」
そこには、もう一人。
小さな女の子が座っていた。
髪は肩くらいまで。
制服ではなく、黄色いレインコートを着ている。
俯いたまま、何も話さない。
(気まずい……。)
子どもの頃の俺は、今以上に人付き合いが苦手だった。
話し掛けようか迷っていると——。
ぐぅぅぅ。
静かな東屋に、お腹の音が響いた。
「……。」
「……。」
女の子は真っ赤になって俯く。
俺はランドセルを開き、おやつに持っていたチョコレートを取り出した。
「食べる?」
女の子は驚いたように顔を上げる。
「……いいの?」
「うん。」
それだけ言って差し出すと、彼女は少しだけ笑った。
「ありがとう。」
その笑顔は、小さな太陽みたいだった。
雨が止むまでの三十分。
たわいもない話をした。
好きな教科。
嫌いな野菜。
好きなゲーム。
たったそれだけ。
でも、不思議と居心地が良かった。
「私ね。」
帰る前、女の子が言った。
「また会えたらいいね。」
「あぁ。」
「またな。」
その時は、それで終わりだと思っていた。
名前も聞かなかった。
また会うこともないと思っていた。
◇ ◇ ◇
「それだけ?」
景が少し意外そうな顔をする。
「うん。」
「本当にそれだけ。」
春一は苦笑した。
「だから、最初は気付かなかった。」
「でも……。」
病室の扉を見つめる。
「あの日、夏目が笑った時。」
「どこか懐かしい気がしたんだ。」
「まさかとは思ったけど。」
「今なら分かる。」
「あの時、公園で会った女の子。」
「たぶん、夏目こころだった。」
景は静かにその話を聞いていた。
そして、小さく微笑む。
「それなら。」
「夏目さんが春一くんを好きになった理由も、少しだけ分かる気がする。」
「……え?」
「優しくされたことってね。」
「本人が思っているより、ずっと心に残るものだから。」
その言葉に、春一は何も返せなかった。
自分は忘れていた。
でも、こころは忘れていなかったのかもしれない。
そんな予感だけが、胸に静かに広がっていった。




