俺には彼女を愛する資格がない
嫌な予感というものは、不思議なくらい当たる。
あの日も、そうだった。
◇ ◇ ◇
放課後。
景は人気のない廊下で、一人立ち止まっていた。
「……夏目さん。」
少し先を歩くこころへ、静かに声を掛ける。
こころは肩を震わせ、ゆっくり振り返った。
「小早川さん……。」
「少しだけ、お話ししない?」
景の声は責めるようなものではない。
ただ、本気で向き合おうとしている優しい声だった。
「制服のことも。」
「最近のことも。」
「ちゃんと話したいの。」
こころは俯く。
言葉が出ない。
胸の奥で押し込めてきた感情が、今にも溢れそうだった。
「私は……。」
震える声で呟く。
「ごめんなさい……。」
その一言だけ残し、こころは勢いよく走り出した。
「夏目さん!」
景が追い掛けようとした、その瞬間。
「小早川さん!」
廊下の向こうから春一が走ってきた。
「どうした!?」
「夏目さんが……!」
景の表情を見た春一は状況を察する。
「俺が行く!」
そう言い残し、こころの後を追った。
◇ ◇ ◇
「夏目!」
春一の声が校舎に響く。
こころは涙を拭いながら走り続ける。
(止まりたくない。)
(今の顔を見られたくない。)
(こんな醜い自分を知られたくない。)
「待ってくれ!」
「話をしよう!」
「逃げなくていい!」
その声が苦しい。
優しいから。
だからこそ苦しい。
階段へ差しかかった、その時だった。
「あっ……!」
足元が滑る。
一瞬だけ身体が宙に浮く。
「夏目!!」
春一が手を伸ばす。
あと少し。
あと少し届けば。
しかし、その手は届かなかった。
鈍い音が静かな校舎に響く。
◇ ◇ ◇
「先生!」
「救急車を!」
教師たちが駆け寄る。
景も震える足で階段へ向かった。
「夏目さん!」
こころは階段の下で倒れていた。
返事はない。
「夏目!」
春一は駆け寄り、必死に名前を呼ぶ。
「頼む……。」
「目を開けてくれ……!」
景はその場に立ち尽くしていた。
「私……。」
「私が話しかけたから……。」
「違う!」
春一は振り返る。
「小早川さんのせいじゃない!」
その言葉は、景へ向けたものでもあり、自分自身へ言い聞かせるものでもあった。
◇ ◇ ◇
数時間後。
病院。
医師が静かに説明を始める。
「命に別状はありません。」
全員が小さく息を吐く。
しかし、その続きが重かった。
「頭を強く打っています。」
「現在も意識は戻っていません。」
春一は言葉を失った。
意識が戻っていない。
その現実だけが頭の中を何度も繰り返す。
◇ ◇ ◇
夜。
吉川家。
リビングには重苦しい空気が流れていた。
「春一。」
ひかりが静かに口を開く。
「……。」
「自分を責めているのね。」
「当たり前だろ。」
春一は俯いたまま答える。
「俺が追い掛けた。」
「俺があいつを追い詰めた。」
「だから……。」
「違う。」
ひかりの声が鋭く響いた。
「事故の責任を全部自分一人で背負うのは傲慢よ。」
春一は顔を上げる。
「でも。」
「あなたが向き合わなければいけないことは、そこじゃない。」
静かな声。
だけど一つ一つの言葉が重い。
「夏目さんは、ずっと苦しんでいた。」
「そのことに、あなたは気付けなかった。」
「……。」
「あなたは人を見る目がある。」
「だからこそ、見えているつもりになっていた。」
「それが一番危険なの。」
春一は何も言えなかった。
「景さんのことばかり考えていた。」
「恋をすることは悪いことじゃない。」
「でも、人を好きになるということは、その人だけを見ることじゃない。」
「その人を取り巻く人たちの心にも目を向けること。」
「それが、本当に誰かを大切にするということよ。」
拳を握る。
震えが止まらない。
「俺は……。」
「何も見えてなかった。」
景の不安も。
こころの苦しみも。
全部。
「俺には……。」
声が震える。
「彼女を愛する資格なんて、ない。」
静まり返るリビング。
ひかりは弟を真っ直ぐ見つめた。
「その答えを決めるのは、今のあなたじゃない。」
「これからのあなたよ。」
「逃げずに向き合える人間になりなさい。」
その言葉だけが、春一の胸に深く刻まれた。
◇ ◇ ◇
病室。
ガラス越しに見える夏目こころは、静かに眠り続けていた。
「ごめん。」
春一は小さく呟く。
「俺は……。」
「お前のことも。」
「景のことも。」
「何も知らなかった。」
返事はない。
静かな病室に、機械の電子音だけが響いていた。
この日、春一は初めて知る。
人を好きになるということは、想いを伝えることではない。
その人の痛みや苦しみにも向き合おうとすることなのだと。
そして、この後悔が――。
いつか夏目こころと向き合う、その日の始まりになることを、まだ誰も知らなかった。




