夏目こころ
人には、忘れられない人がいる。
それが初恋なら、なおさらだ。
◇ ◇ ◇
朝の教室。
「おはよう、春一くん!」
元気よく手を振る声に、春一は振り返る。
「おはよう。」
「今日も眠そうだね。」
「朝は苦手なんだ。」
「中学の頃から変わらないね。」
こころはくすっと笑う。
その笑顔は自然だった。
まるで何年も前から、こうして朝の挨拶を交わしていたように。
「そういえば。」
春一が首を傾げる。
「夏目って、何組だっけ。」
「一年C組!」
「結構近いんだな。」
「そうだよ。」
「だから会おうと思えばいつでも会えるよ?」
「……そうだな。」
春一は特に深く考えず頷く。
その何気ない返事だけで、こころは嬉しそうに微笑んだ。
(変わってない。)
(やっぱり春一くんは、優しい。)
中学の頃からそうだった。
誰かに優しくすることを特別だとは思っていない。
だからこそ。
勘違いしてしまう。
優しくされた人は、自分だけが特別なんじゃないかと。
――そして、その優しさは。
今はもう、自分だけに向いていない。
(……ずるいよ。)
(春一くん。)
◇ ◇ ◇
昼休み。
こころは購買でパンを買い、廊下を歩いていた。
すると、前方から見慣れた二人が歩いてくる。
「春一くん!」
「資料これで全部かな?」
「ああ、多分。」
中央委員の仕事を終えた春一と景だった。
二人は肩を並べて歩きながら、楽しそうに話している。
「ありがとう!」
「今日も助かったよ!」
「大したことしてないって。」
「そんなことないもん!」
景は笑う。
その笑顔に、春一も少しだけ口元を緩めた。
(……。)
こころは立ち止まる。
胸が少しだけ痛い。
知っている。
あんな表情。
中学三年間、一度も見たことがない。
春一は昔から、人と距離を取る人だった。
誰とも深く関わらず、教室の隅で本を読んでいた。
それなのに今は違う。
景の隣では、自然に笑っている。
(私じゃ……。)
(足りなかったのかな。)
そう思った瞬間。
胸の奥に、じわりと黒いものが滲んだ。
悔しい。
悲しい。
そして少しだけ――腹が立つ。
(なんで。)
(あの子なの。)
こころはすぐに目を伏せた。
誰にも見せないように。
感情を押し込めるように。
「こころ?」
友人に肩を叩かれる。
「ぼーっとしてるよ?」
「あっ、ごめん。」
「何かあった?」
「ううん。」
こころはいつもの笑顔を作った。
「ちょっと考え事。」
そう言って笑った顔は、誰が見ても普段通りだった。
けれど胸の中では、小さな棘が抜けずに残っていた。
◇ ◇ ◇
放課後。
春一は昇降口で景を待っていた。
「ごめん、お待たせ!」
「今日は早かったな。」
「先生に呼ばれなかったから!」
「それは良かった。」
二人が笑いながら校門へ向かう。
その姿を、校舎の陰から見つめる人影があった。
夏目こころ。
誰にも気付かれない場所で、静かに二人を見送る。
(やっぱり。)
(春一くんは……。)
(あの子の方を見てる。)
胸が締め付けられる。
苦しい。
痛い。
それでも目を逸らせない。
目を逸らしたら、全部終わってしまう気がした。
「……負けたくない。」
ぽつりと漏れた声は、少しだけ震えていた。
その言葉には、まだ優しさが残っている。
けれど同時に。
確かに“執着”の色も混ざり始めていた。
◇ ◇ ◇
夕方。
誰もいない校舎。
こころは一人、女子更衣室の前に立っていた。
昨日の出来事を思い出す。
濡れた制服。
困ったように笑う景。
そして。
景を守るように立っていた春一。
「……最低だよね。」
誰に言うでもなく呟く。
「こんなことしても。」
「春一くんが私を見てくれるわけじゃないのに。」
分かっている。
ちゃんと分かっている。
それでも。
やめられなかった。
景が春一の隣にいるだけで。
春一が景にだけ優しくするだけで。
胸の奥が、どうしようもなくざわつく。
「ごめんね。」
その謝罪は、景へ向けたものなのか。
自分自身へ向けたものなのか。
こころにも分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
春一を諦めることだけは、まだできない。
そしてもし。
このまま何も変わらないのなら――。
(……次は、もっとちゃんと見てくれる方法を考えないと。)
その思考に気付いた瞬間。
こころは小さく息を呑んだ。
(違う。)
(私は、そんなこと考えたくない。)
そう思いながらも。
心の奥ではもう、止められない感情が芽を出し始めていた。
初恋は、とても優しくて。
そして、とても残酷だった。




