波乱
人の恋愛事情というものは、なぜ当事者より周囲の方が盛り上がるのだろう。
俺は今、その疑問について真剣に考えていた。
「ねぇ、吉川くん。」
「何?」
「景のこと、本当に好きなの?」
朝のホームルーム前。
俺の机の前に立っているのは、渡辺ゆあだった。
明るい髪色。
小柄な体。
そして、いかにも面白い話を見つけましたと言いたげな笑顔。
俺は机に頬杖をつきながら答えた。
「……好きだけど。」
「えっ。」
ゆあの動きが止まった。
「そこ、否定しないんだ?」
「もう教室中にバレてるだろ。」
「それはそうだけど!」
昨日――いや、正確には今朝。
俺は小早川景へ向かって、
『俺は小早川さんに惚れてます』
と高らかに宣言してしまった。
本人の意思とは無関係に。
しかもクラスのほぼ全員が見ている前で。
今さら誤魔化したところで遅い。
「でもさ。」
ゆあは俺の机へ両手をつき、ぐっと顔を近付けてきた。
「吉川くんって、景のどこが好きなの?」
「どこって……。」
急に聞かれると困る。
顔が可愛い。
笑顔が可愛い。
距離が近い。
無自覚にとんでもないことを言う。
真面目なのに、少しズレている。
それから――。
「……全部?」
「えっ!?」
また口から出た。
(何で最近、俺の口は心の声と直結してんの?)
「全部って!」
「それ、めちゃくちゃ好きじゃん!」
「だから好きだって言ってるだろ。」
「うわぁ……。」
ゆあは何故か感心したように頷いた。
「吉川くんって、見た目よりずっと面白いね。」
「褒めてる?」
「褒めてる褒めてる!」
「今、一瞬迷っただろ。」
「気のせい!」
その時だった。
「……ゆあ。」
少し離れた場所から、低い声が聞こえた。
振り返る。
天野天が、自分の席に座ったままこちらを見ていた。
「何?」
「何で朝から、そいつと話してんの?」
「そいつって俺?」
「別にいいじゃん。」
ゆあは不思議そうに首を傾げる。
「吉川くんと話してただけだよ?」
「ふーん。」
天野は俺を見る。
次に、俺の隣にいる景を見る。
そして、もう一度ゆあへ視線を戻した。
「……まあ、いいけど。」
全然良くなさそうだった。
「天、何か機嫌悪い?」
「別に。」
「いや、悪いでしょ。」
「悪くない。」
「絶対悪いじゃん。」
「悪くないって!」
朝から女子二人の言い合いが始まった。
(女子同士って、本当に分からん。)
俺がそう思っていると、景がそっと近付いてきた。
「春一くん。」
「ん?」
「おはよう。」
「おはよう。」
「今日も一緒に中央委員の仕事、頑張ろうね!」
景はいつものように笑っていた。
その笑顔を見た瞬間。
俺は、さっきまでの会話を全部忘れた。
「……おう。」
「うん!」
(可愛い。)
(やっぱり全部好きだわ。)
どうやら俺は、もう完全に手遅れらしい。
◇ ◇ ◇
四時間目。
体育。
「今日はバスケットボールを行う。」
体育教師の声が体育館へ響いた。
「準備運動をして、男女それぞれでチームを作れ。」
「吉川!」
「はい。」
「ぼーっとするな!」
「してません!」
俺は慌てて返事をする。
その後ろで、毛利元基が笑った。
「吉川。」
「何?」
「中央委員長になったからって、急に偉くなったわけじゃないぞ。」
「分かってる。」
「それなら動け。」
「お前、バスケ部だろ。」
「だから何だよ。」
「初心者を狙うな。」
「別に狙ってねぇよ。」
体育館には笑い声が響いていた。
授業が終わる頃には、俺は完全に疲れ切っていた。
「……高校の体育って、こんなにキツかったっけ。」
「春一くん、大丈夫?」
景がタオルを持ちながら近付いてくる。
「大丈夫。」
「少し疲れただけ。」
「じゃあ、お水飲む?」
「ありがとう。」
景からペットボトルを受け取る。
それだけのことなのに、周囲から視線を感じた。
「……何?」
宍戸がニヤニヤしていた。
「いや。」
「お前ら、もう付き合ってんのかと思って。」
「付き合ってねぇ。」
「そうなの?」
景が首を傾げる。
「違うの?」
「何で俺に聞くんだよ。」
「だって春一くん、さっき……。」
「その話はもう終わり!」
俺は景の言葉を遮った。
宍戸と秋平が笑う。
毛利は肩をすくめた。
「吉川。」
「何だよ。」
「頑張れ。」
「何を?」
「色々。」
「意味分からん。」
そんなやり取りをしながら、俺たちは更衣室へ向かった。
◇ ◇ ◇
教室へ戻ると、景の席だけが空いていた。
「……小早川さん、遅いな。」
女子の更衣室は男子の更衣室より少し離れている。
とはいえ、もう十分以上経っている。
「何かあったんじゃない?」
ゆあが言った。
「さあ。」
俺は窓の外を見る。
「ちょっと見てくる。」
「え?」
「男子が女子更衣室の近くへ行くの?」
「中には入らない。」
「当たり前でしょ!」
「何で怒られた?」
教室を出る。
廊下を歩き、女子更衣室の近くまで来た。
「小早川さん?」
返事はない。
「景?」
少しだけ声を大きくする。
「……春一くん?」
扉の向こうから、小さな声が聞こえた。
「いるのか?」
「うん。」
「どうした?」
少し間があった。
「……入ってきちゃダメだよ?」
「入らない。」
「大丈夫?」
「……。」
返事がない。
俺は扉の前で立ち止まった。
「小早川さん。」
「何?」
「何かあったなら言え。」
「……制服が。」
「制服?」
「濡れてるの。」
一瞬、意味が分からなかった。
「どういうこと?」
「分からない。」
景の声が、少し震えていた。
「体育が終わって戻ってきたら……。」
「制服が、全部濡れてて。」
俺は言葉を失った。
「鞄も……。」
「中の教科書も、少し濡れてる。」
「誰かがやったのか?」
「分からない。」
景は小さく答えた。
「私、何かしたのかな。」
「……。」
「誰かに嫌われるようなこと。」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が嫌な形で締め付けられた。
以前。
隆から聞いた。
景は中学生の頃、学校で辛い経験をした。
その出来事が原因で、学校生活に関する記憶を失った。
だからなのか。
景は誰かに嫌われることを怖がっている。
何かが起きると。
まず自分を疑う。
「小早川さん。」
「うん。」
「何かしたかどうかは、俺には分からない。」
「……うん。」
「でも。」
俺は扉を見つめた。
「誰かに嫌われたとしても。」
「こんなことをされていい理由にはならない。」
景は黙っていた。
「大丈夫だよ。」
「私、気にしてないから。」
「俺は気にする。」
「……え?」
「小早川さんが気にしなくても。」
「俺は気にする。」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「春一くん。」
「制服、どうにかできるか?」
「……予備の体操服なら。」
「それで教室へ戻ろう。」
「でも……。」
「一人で戻らなくていい。」
「ここで待ってる。」
しばらくして。
更衣室の扉が少しだけ開いた。
景は学校指定の体操服を着ていた。
濡れた制服を、大きな袋へ入れて抱えている。
「……ごめんね。」
「何で謝る。」
「だって。」
「春一くんに心配かけちゃった。」
「心配したのは俺の勝手。」
「小早川さんが謝ることじゃない。」
景は驚いたように俺を見る。
そして。
少しだけ笑った。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
教室へ戻る途中。
俺は濡れた制服を見た。
偶然。
そんなわけがない。
誰かがやった。
誰が。
何のために。
そして――。
(……天野さん?)
真っ先に浮かんだのは、景と険悪な関係にある天野天だった。
でも。
朝の様子を思い出す。
天野は確かに不機嫌だった。
けれど。
こんなことをするようには見えなかった。
「春一くん?」
「いや。」
「何でもない。」
教室の扉を開ける。
全員の視線が景へ集まった。
「景!?」
ゆあが駆け寄る。
「何、その格好!」
「制服が濡れちゃって。」
「え?」
「どうして?」
「分からない。」
教室がざわつき始める。
天野も景を見ていた。
「……何それ。」
その声には。
いつもの苛立ちとは違う感情が混ざっていた。
驚き。
そして。
ほんの少しの心配。
「天野さん。」
俺が声を掛ける。
「何?」
「……いや。」
何も言えなかった。
証拠もない。
疑う理由だけで、誰かを責めるわけにはいかない。
「何よ。」
「別に。」
天野は怪訝そうに俺を見る。
その時。
教室の後ろから、控えめな声がした。
「あの……。」
振り返る。
そこには、一人の女子生徒が立っていた。
長い黒髪。
小柄で、どこかおとなしい雰囲気。
けれど、整った顔立ちをした女の子だった。
「春一くん……?」
俺は目を見開いた。
「……夏目?」
「やっぱり!」
彼女は嬉しそうに笑った。
「久しぶりだね!」
「同じ学校だったんだ。」
夏目こころ。
中学時代の同級生。
俺が「あ、いたの?系男子」と呼ばれていた頃から、なぜかよく話しかけてきた女の子だ。
「何でここに?」
「何でって。」
「私も一年生だよ?」
「そうだった。」
「忘れてたの?」
「いや、忘れてたわけじゃ……。」
少しだけ困ったように笑う。
こころは俺の隣にいる景を見た。
体操服。
濡れた制服。
周囲のざわめき。
「……どうしたの?」
「小早川さんの制服が濡れてた。」
「え?」
こころは驚いたように目を見開いた。
「そんなこと……。」
「誰が、そんなひどいこと。」
悲しそうな声だった。
景も少し安心したように笑う。
「大丈夫だよ。」
「みんな心配してくれてるから。」
「……そう。」
こころは微笑んだ。
「良かった。」
その笑顔を見て。
俺は何も疑わなかった。
ただ。
久しぶりに会った同級生が、景のことを心配してくれた。
そう思っただけだった。
◇ ◇ ◇
放課後。
誰もいない女子更衣室。
夏目こころは、一人で立っていた。
窓から差し込む夕日が、床を赤く染めている。
制服を濡らした時。
少しだけ迷った。
本当に、こんなことをしていいのかと。
でも。
今朝。
春一が景へ言った言葉を聞いた。
『俺は小早川さんに惚れてます』
その瞬間。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになった。
「……春一くん。」
中学生の頃。
誰とも話せなかった春一へ、何度も話し掛けた。
困っていたら助けた。
周りが春一を笑っていても。
こころだけは、ずっと見ていた。
なのに。
「私が話しかけても。」
「あんな顔、してくれなかったのに。」
景といる時の春一は、よく笑う。
景のためなら。
自分から知らない人へ話し掛ける。
中央委員長にまでなった。
「どうして……。」
「急に現れたあの子のために。」
こころは、誰もいない更衣室で小さく呟いた。
「……ごめんね。」
その声は。
誰にも届かなかった。
「小早川さん。」
夏目こころは、静かに笑った。
けれど。
その笑顔は。
教室で見せていたものとは、少しだけ違っていた。




