ep16:青い薔薇の着火剤
血の匂いだけが、辺りを漂う。
そんな静寂の空間で、白衣の老人は、口を開く。
「どうか儂を、助けてはくれないか?」
顔をこちらへ向けた老人は、酷く矮小な存在に見えた。
可哀想で、弱くて、助けてあげるべき存在。
──ただ、だから、なんだと言うのだ。
この意志は、思考は、ボクだけのモノで、常識的な道徳だとか、善悪の区別だとか、そんなモノはゴミに等しい。
ただでさえ、こんな世界なんだから。
遠くに聞こえるのは、人と獣が入り交じった、そんな鳴き声。
だから、ボクは──
「──嫌、かな。嫌だ、と拒否しておこうか。それは、ボクがやるには、あまりにもつまらないよ」
薄っすらと宙を舞う粉塵。
床に広がった血液が、ゆっくりと煙へ変わっていく。
所々陽光が差した、薄暗いそこで、老人の顔を正面から捉えて、そう言い放つ。
視界が、黒を増す。
◇◆◇
真っ黒な、視界の中。
白衣の老人が、笑いを浮かべたような気がした。
「そうじゃよなぁ、お主のようなクソガキが、偽善者になれるとは思っていなかった」
黒く塗り潰された顔が、こちらを向く。
声色には、落胆も、絶望も、何も無い。
ただ、そうなるのであろうという、予定調和のような、平坦な声色だった。
風すらも吹かないこの空間は、まるで、時が止まったかのように感じられる。
「だからのぉ……愚道戯楽」
名前……。
デバイスから抜き取られたのか。
まぁ、ただそれだけだ。
老骨は、名前など些事の如く、言葉を続ける。
「これは──契約じゃ」
気狂いの狂人は、ニヤリと、血の気が引いていく顔色の中、獰猛な笑みを浮かべて、発した。
黒い濁りが、老害との会話を邪魔しないように、退く。
ボクは、そこら辺の瓦礫を椅子に、話を聞く事にした。
イカれた老害の、戯れ言に等しい、そんな話を。
◆◆◆
脚が潰され、動けずにいるその姿は、断頭台に嵌められた罪人のような、そんな姿。
白衣の老人は、それを意に介さず、ただボクの顔だけを見て、口を開く。
「愚道戯楽、貴様が、先ず儂を──」
ボクは、口を動かす老人の、瞳すら見えない糸目を、ただジッと、見続ける。
表情も、身体も、目も、瞼すらも。
微動だにせず、静止したように、ただ老人の目を、見続ける。
老人は、何故か言葉を止めて、喉を鳴らす。
ククッ、と笑う姿には、少しの諦念が混じっているようにも見えた。
「儂を……いいや、違うな」
白衣の老人は、手を、自ら喉にかける。
力を入れて掴んだのか、ゴホゴホと息を吐き、軽く血を吐き出した。
微風が、白色の長髪を、揺らしている。
ゆらゆらと、後ろから一纏めにした長い髪が、毛先から。
老人は、何かを思い返すように、糸目を彷徨わせ、頭を軽く揺らし、一瞬のようにも感じられた時間の後、やがて、ボクの方へ顔を向ける。
震えるように、ゆっくりと息を吐き出し、そして吸い込み、口を三日月形にして。
その瞬間、何かが変わった。
老いさらばえた老人の気配が、ほんの少し、剥がれ落ちる。
糸のように閉じられた瞼が、微かに震える。
──そうして、彼は、目を開いて
「私を、テオール・インサニアを助けろ。報酬は、この私に、"貸一つ"だ。この私に、貸しを一つ作れるんだ、これ以上ない程に、最上級の報酬だろう?」
老いぼれた老骨の声ではなく、不思議と聞き入ってしまうような、年齢、性別すら判別し難い、そんな声。
あの、取って付けたような老人の面影は、消え去っていた。
濁りが、薄まる。
契約は、ただの口約束に過ぎず。
報酬は、ただ一人の人間に、貸しを作るだけ。
そんな、戯れ言。
彼、テオール・インサニアの黄金に輝く瞳は、それが本当に最良の報酬だと、疑わない。
一点の曇りも無い、清々しい程に澄んだ、狂気の眼だ。
…………。
「ふ、ふふハ、ふはハハッ、フハハハハァ♪ いいね、イイねェ。良い、イいよォ。それは、とても面白いよォ」
胸の奥で、水を被り、凍えきった薪が、燃え上がるように、熱く、高揚する。
興奮が冷めない、鼓動が早くなる。
口端が、裂けんばかりに広がっていくのを感じる。
気づけば、テオール・インサニア、彼の目の前まで歩を進めて、そしてしゃがみこみ、彼の顔面を顎下から手のひらで包み込み、目を合わせていた。
「……」
「……」
指の隙間から覗く目玉に、焦点を合わせる。
沈黙に、先程のような冷たさはない。
彼の目に、怯えなどない。
くぐもった声で、彼は言う。
「それで、どうする、愚道戯楽。私を、助けてはくれるのかい?」
片手で、彼の顔面を持ち上げて
「うん、いいよ。もちろん。フハハハ♪ ちゃんと助けるよ、"契約"に則って、しっかりとね。テオール、君に一つ、貸しを作れるんだろう?」
「あぁ、この私に、貸しを一つも作れるんだ。幸運だったな、愚道戯楽」
傲岸不遜、そう捉えられても仕方の無い態度だ。
貸しを一つ、が助けるに値する価値を持つ、などという、狂気の沙汰とも言える理論を発言する彼は、自らの言葉に、なんの躊躇いも、疑いも持っていなかった。
「この私に貸しを作った人間は、お前が初めてだよ、愚道戯楽」
濁りのない、金色。
まるで宝石のように、陽光を跳ね返している。
「なに、安心しろ。私は恩義を忘れない主義だ。借りは必ず返す。何倍にもしてな」
陽光に晒された彼の瞳は、黄金の炎のように、揺らいでいた。
一つ、訂正しよう。
燃えカスでも、火は、着くそうだ。
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ep16:青い薔薇の着火剤
青い薔薇の花言葉は、1度変わったそうですね。
前のも、今のも、素敵ですよね。




