第7話「※少女が奏でる、静かな祈り」
──放課後、吹奏楽部・練習室。
コンクールまで、あと二週間を切っていた。
白く塗られた壁には、湿気と汗の匂いがほんのりと染みついていて、
カチリと鳴ったメトロノームの音が、空気を緊張させる。
「……通し、入ります」
部長の合図とともに、リハーサルが始まった。
クラリネットの1stパート——
そこにいたのは、1年生の部員だった。
緊張した面持ちで、譜面をにらんでいる。
もう10日。
西村美鈴は、学校にも部活にも顔を出していなかった。
理由は、誰も知らない。
ただ「涼子の彼女宣言から、ぴったり2日後から」ということだけが、
じわじわと広まっていた。
演奏が進む。
音程、リズム、全体バランス——すべては悪くない。
後方の計測席で、佐藤涼子は黙々と画面とにらめっこしていた。
(……数値はクリア。
クラリネットの調整も合ってる)
スコアリングAIが示すラインは、平均以上。
けれど——
("気持ち"が、ない)
耳に届く音には、確かに技術があった。
でも、その奥に何かが足りなかった。
「誰かがいた痕」が、音の底でまだ鳴っているのに、
その「誰か」が抜けている。
演奏が終わると、部長が軽く肩を回しながら言った。
「数値は良い。でも、なんかこう……"音楽"ってより"演奏のお仕事"って感じなんだよな」
パートごとの休憩に入ったタイミングで、
木管担当の男子のひとりがぼそっとつぶやく。
「……西村先輩、ほんとに戻ってこないんすかね。
てか、"玲央サマとグレた説"はガチっぽいっすよね」
周囲がクスクスと笑い始める。
「放課後一緒に帰ってたって話もあるし、
実はどっかで同棲始めてたりして……なーんて」
──その瞬間。
「……How dare」
それは、教室の隅から、ほとんど無意識に吐かれた英語だった。
涼子だった。
顔を上げもせず。
指の動きも止めず。
ただ、画面のスコアを見たまま、低く、淡々と。
「……え、なに今の?」
「グレタ……じゃね?」
「うわ、こわ。タイミング完璧すぎ……」
ざわり、と空気が揺れる。
数人が気まずそうに笑い、冗談を引っ込めた。
涼子はそれ以上何も言わなかった。
ただ、画面の数値を見ながら——
クラリネットパートのスコア欄を、もう一度だけ確認した。
70台。
(……早く戻ってきて)
それが部活への言葉なのか、美鈴への言葉なのか、
自分でも分からなかった。
休憩が終わり、部長が再び合図を出す。
「じゃ、もう一回いこうかー。あと一本」
誰かが欠けているリハーサル。
それでも、部は止まらない。
けれど、音の底には——
確かに「誰かがいた痕」が、まだ鳴っていた。
──午後3時すぎ。
カーテンを半分だけ閉めたままの部屋。
外はまだ少し明るいのに、空気だけが重く沈んでいる。
美鈴はベッドに横たわり、
サイドテーブルに置いたままのスマートフォンを、
じっと見つめていた。
10日ぶりだった。
学校の課題や提出物は、別端末から処理していた。
それまではスマホの電源はずっと切ったまま。
(……もう、逃げ続けるのは)
小さく息をついて、電源ボタンを長押しする。
数秒後。
ロック画面に、一気に表示される未読通知。
メッセージ:198件
美鈴は眉をひそめた。
開くと——
ほとんどが、玲央だった。
《おーい生きてるか》
《なんか音楽室すげー静かだってさ》
《無理して出なくてもいいけど》
《今日たい焼き2個分、君の分残した》
《西村美鈴へ:屋上で5分だけ。特等席用意してるぞ》
内容は、いつもの玲央らしい軽口と励まし。
既読すらついていなかったのに、毎日送られていた。
でも——
なぜか、何も響かなかった。
(東條くんって、こうやって……
いろんな子を、元気にしてきたんやろうな)
(でも、今のわたしには……届かない)
美鈴は短く「ありがとうね」とだけ打ち、
既読をつけて返信した。
そのまま、画面を閉じようとした——
そのときだった。
通知欄に、「蓮のお母さん」の名前があった。
《涼子さんから「美鈴ちゃんが学校に出ない」と聞いて、心配になりました。
蓮のことでも、何でもいいので。
わたしでよければ、ちからになれるかもしれません。
よかったら、お返事くださいね。》
美鈴の指先が、止まった。
胸の奥が——ぎゅっと、何かを掴まれたように締まる。
玲央の100件以上のメッセージは、響かなかった。
でも、この一文は——
不思議と、するりと胸の中に入ってきた。
(……なんで)
(蓮くんのお母さんの言葉は、届くんやろ)
答えは出なかった。
でも、指は動いていた。
《……今から、お家に行ってもいいですか?》
送信。
画面を見つめながら、
美鈴は少しだけ、息を吐いた。
外の空気が、カーテンの隙間から入ってきた。
夕方、野中家。
インターホンを押す指が、ほんの少し震えていた。
数秒後に開いた玄関から出てきたのは、
エプロン姿の蓮の母。
変わらない穏やかな笑顔で、しかしその目元は——
「気づいている」人の表情だった。
「いらっしゃい、美鈴ちゃん。
……来てくれて、ありがとう」
「……お邪魔します」
いつもの美鈴なら、きちんとお辞儀してから入る。
だが今日は、靴を脱ぐ手元すらぎこちない。
母に案内されて入ったリビングは、
前に来たときと変わらない風景だった。
けれど、どこか——空気だけが、静かすぎた。
「……蓮の部屋、見ていく?」
その一言に、美鈴は一瞬だけ躊躇って——
でも、うなずいた。
──
2階の蓮の部屋。
整頓された机、本棚、カーテン。
まるで時間が止まったように、すべてがそのままだった。
美鈴はそっと部屋の中に踏み込んだ。
机の上には、未完成のアニメグッズレビューのメモ。
クリアファイルには「選んだ特集番組」の企画プリント。
本棚には、ラノベと設定資料集が几帳面に並んでいる。
(……蓮くんの、「そのまま」だ)
ここにいる気がした。
今にも帰ってくる気がした。
でも——いない。
美鈴は、机の前に立ち止まった。
その端に、小さく立てられていた——
一枚のポストカード。
近づいて、見る。
表面には、文化祭のプログラム。
裏面に、癖のある小さな字で——
『西村さん 文化祭 よかった ほんとに』
それだけだった。
飾り気も、修飾も何もない。
ただ「ほんとに」という一言が、最後に添えられていた。
美鈴の喉の奥が、じわりと熱くなった。
「……文化祭のあと、こっそり印刷してたのよ。
"音が、変わった気がする"って言いながら」
背後から、蓮の母の声が聞こえた。
美鈴はポストカードを見たまま、動けなかった。
「……音なんて、もう、出せてないのに」
「……"出ない"んじゃなくて」
母の声が、静かに続いた。
「"届かないかもしれない"って思ってるだけじゃない?」
その言葉に、美鈴は黙った。
「わたしね。涼子さんから"美鈴ちゃんが止まってる"って聞いたとき、
"ああ、あの子が何かを選ばなかったんだな"って、すぐ分かったの」
「選ば……なかった、ですか?」
「うん。"あの子の隣に立つ"って誰かが言ったとき、
"音を届けるだけの子"でいようとしたまま、美鈴ちゃんは立ち止まった」
美鈴の目に、ふっと涙がにじむ。
「……こわかったんです。
言葉にしたら、壊れそうで。
"音"は、守ってくれる気がしてたのに……」
「じゃあ、今度は"言葉"で伝えてみたらどう?」
「……言葉、ですか?」
「うん。音は風に流れるけど——
言葉は、誰かの中に残るものよ」
蓮の母は微笑んで、
机の端のポストカードを、そっと指先で示した。
「この子だって、言葉は不器用だけど——
ちゃんと、残してってくれるでしょ」
美鈴は、ポストカードをもう一度見た。
『ほんとに』
その二文字が、ぐっと目に染みた。
ぎゅっと、唇を噛んだ。
そして、初めて——
静かに、「言葉で返そう」と思った。
「……あの」
しばらくして、美鈴はゆっくりと口を開いた。
「今日……ここに、泊まらせてもらえませんか?」
蓮の母は、一瞬だけ目を丸くして——
すぐに、やわらかく笑った。
「もちろん、いいけどね。
でも、その前に——ご両親の許可、ちゃんと取りなさいね?」
「……え?」
美鈴は、不意を突かれたように目を瞬かせる。
「そ、その、私……もう高校生ですし、
別に変なことしようとか、そんなんじゃなくて、
ただ、ちょっとだけ、蓮くんの……」
焦って言い訳を重ねる美鈴を見て、
蓮の母はふっと優しく笑った。
「分かってるよ、美鈴ちゃん。
……でもね、それと"大人に伝えること"は、別なの」
美鈴の言葉が止まる。
「たとえばね。もし、今日あなたがここで眠って、
夜中にひどく落ち込んで、泣き出してしまったとする。
……そのとき、"わたしが母親代わりでいられる"って、
ちゃんと"あなたのお母さんが思えるかどうか"が、大事なの」
「……」
「何かあったとき、"誰が責任を持つか"じゃなくて——
"誰が、あなたを一番想ってるか"を、
あなたの親御さんに確認させてあげるための許可なのよ」
その言葉に、美鈴はゆっくりと息を呑んだ。
そして——素直に、うなずいた。
「……分かりました」
スマホを取り出し、母のオーディオ通話にかける。
「お母さん、美鈴です。今友達の家にいて…」
美鈴は事情を語るにつれ、次第に不安な顔が出始める。
『……美鈴、ちゃんとご迷惑かけてない?』
母の声が、電話口から聞こえた。
「……かけてます」
「正直だね。じゃあ、そちらのお母様に代わって」
スマホを受け取った蓮の母は、
軽く咳払いして、言葉を整えた。
「もしもし、美鈴さんのお母さま?
お世話になっております、野中の母です。
……ええ、はい、実はですね——」
しばらくして、蓮の母の声が続く。
「ええ、蓮は今、別の病院にいまして。
部屋はそのままにしてあるんですが……
美鈴ちゃんが"ここにいたい"って言ってくれて」
少しの間。
「……はい。"空白の場所"に触れてくれる子が、
久しぶりで、嬉しかったんです」
また少しの間。
「いえいえ、こちらこそ。
美鈴ちゃん、すごくしっかりされてますよ。
ただ……"音楽に真剣すぎて、言葉が後回しになってる"だけだと思いますよ」
電話越しに、美鈴の母の笑い声が聞こえた。
「ええ、もちろん責任を持って見ます。
安心してください——こちらのご飯、食べさせますから」
柔らかな笑い声が、電話の両端で重なった。
やがてスマホを切った蓮の母は、
美鈴の方へ振り返り、スマホを返しながら少しだけおどけて言った。
「──OKだって。
お母さん、笑いながら"よろしくお願いします"って」
「……なんか、すみません」
「いいのよ。
でも——"覚悟してね?"
蓮が戻ってきたとき、"彼の部屋を見られた女の子"として、責任重大よ?」
美鈴は一瞬だけ目を丸くして——
それから、小さく、けれど確かな笑顔で答えた。
「……望むところです」
その言葉に、蓮の母もふっと笑った。
ふたりの笑い声が、静かな部屋に重なった。
夜は、まだ少しだけ明るかった。
──日も暮れ始めた午後6時半すぎ。
野中家の台所には、静かに煮立つ鍋の音と、
くすぐったいような笑い声が混ざっていた。
「……じゃあ、次は"あさり"ね。砂抜きはもう終わってるから」
「はいっ」
エプロンを借りて、髪をひとつにまとめた美鈴は、
どこか新鮮な表情でまな板の前に立っていた。
「……蓮くんって、あさりのお味噌汁が好きなんですね」
「うん。あの子、小さい頃から"貝の出汁"の味が分かるっていう、
ちょっと渋めの舌しててね。
"あさりの酒蒸し"も好きだけど、味噌汁がいちばん落ち着くらしいのよ」
「……ちょっと意外です。
アニメ見ながらカップ麺とか食べてそうなイメージなのに」
「もちろんそれもやるけど、あの子の"おふくろの味"は、
"アニメグッズの横に置かれた、熱い味噌汁"なの」
その言葉に、美鈴は思わず吹き出した。
「なんですかそれ……でも、なんか分かる気がします」
小鍋であさりがパチパチと開いていく。
蓮の母が小皿を取りながら、さりげなく言う。
「美鈴ちゃん、味噌の種類、分かる?」
「えっと……合わせ味噌、ですか?」
「正解。蓮はね、"白味噌だと落ち着かない、赤だと強すぎる"って言ってて。
うちでは"白8:赤2"がベスト比率って決まってるのよ」
「そんな細かい……」
「面倒くさい男でしょ?」
「……ちょっとだけ、思いました」
ふたりの笑いが重なった。
"蓮の話"をしているのに、
それがまるで"今、そこにいる誰か"のように聞こえる。
そうしてちょうど最後の小鉢を並べ終えたころ——
玄関から、カチャリと鍵の音がした。
「ただいまー……って、うわ」
入ってきたのは、スーツ姿の蓮の父。
美鈴を見るなり、目を丸くし、すぐにニヤリとした。
「おやおや。今度は"嫁候補"ですか、うちの台所に?」
「あなた、そういうの軽く言うと、美鈴ちゃん困るでしょ」
蓮の母が苦笑しながらたしなめた、その瞬間——
「……そうです」
美鈴が笑顔ではっきりと口にした。
「っ……」
蓮の父が、まるでビンタを食らったように固まる。
数秒後。
「……お、おう。
それは、うん……えーと、よろしくお願いしまっす……?」
ぎこちなく頭を下げる父。
その横で、美鈴の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
蓮の母は、それを見てふふっと笑い、
台所の明かりが少しだけあたたかく感じられた。
──
「いただきます」
三人の声が重なる。
蓮の父は、味噌汁をひと口すすった直後、箸を止めてうなった。
「……おお。これは……これは、うまい。
まさに"野中家標準仕様"……いや、改良型だな」
「えっ!? そ、そんな大げさな……」
頬を赤らめる美鈴に、父はさらに腕を組んで真面目な顔になる。
「いやいや、違うんだ。
この"あさりの出汁"に"合わせ8:赤2"のバランス……
刻みネギをあえて後乗せにしてるあたり、
味の仕上がりを最後まで変化させる工夫がある」
「うわ、出た出た。"味噌汁評論家ごっこ"」
母が苦笑しながら割って入るが、父はめげない。
「おいしいものを、正しく称賛するのが礼儀なんだよ。
……で、だ」
「え?」
美鈴が顔を上げると、父の目がきらりと光った。
「さっきから思ってたんだけどね、美鈴さん……
君、ちょっと"シンデレラバスター"のキャラに似てないか?」
「……シンデレラバスター、ですか?」
「知ってる? 蓮がずっとやってるスマホゲーム」
「あ……はい、名前は聞いたことあります」
美鈴は少しだけ目を丸くした。
(蓮くんが好きなゲーム……)
「その中に、"星野まり"っていうキャラがいてね。
黒髪で、笑ったときの目元がそっくりで」
「わたしも、それ思ってた。
特に笑ったときの口元とか……」
母のフォローに、美鈴はますます困惑。
「ちょ、ちょっと待ってください……」
「画像出すよ」
父はスマホを取り出し、素早くアプリを立ち上げた。
画面に映し出されたのは、
淡い水色を基調にしたドレスを着た、
穏やかな表情の少女キャラクター。
黒髪を揺らし、微笑むその名は——
「星野まり」。
「……っ」
美鈴は、数秒の沈黙のあと、
みるみる顔を赤くして、俯いた。
「……に、似てませんよ……そんな……」
「いやいや、そっくり。
キャラ紹介読むぞ?
『清廉な笑顔の裏に、秘めた情熱を持つ令嬢キャラ』だってさ」
「……それ、わたしのどこが……」
「"令嬢"は言い過ぎだけど、笑ったときの雰囲気はそっくりよ」
「か、からかわないで……!」
両手で顔を隠す美鈴を見て、母はくすくすと笑い、
父は真顔で続けた。
「ちなみに、蓮のお気に入りキャラは"みさき"ちゃんで、
まりは"崇める存在"カテゴリらしい」
「……えっ、わたし……崇められてるんですか」
「うん」
「……余計恥ずかしいです……」
美鈴の顔が、湯上がりの頬よりさらに赤く染まっていく。
けれど、笑い声が重なったその瞬間——
蓮の不在で空いたはずの食卓が、
少しだけ、"満ちた"ような気がした。
──午後10時過ぎ。
蓮の部屋。
ベッドに入った西村美鈴は、
部屋の明かりを消す前に、もう一度ゆっくりとその空間を見渡していた。
整えられた本棚。
デスクの上には、並べられたノートとアニメグッズ。
その中に、中学時代のサッカー部集合写真が、
クリアスタンドに入って立てかけられていた。
パジャマ姿のまま、そっとそれを手に取る。
真っ黒に日焼けした笑顔の蓮、拓真、そしてサブメンバーたち。
中央でポーズを決めている蓮の姿は、
今よりほんの少しだけ幼くて、
けれど、目の奥は今よりずっと真っすぐだった。
(……あの頃、もし同じ中学にいたら)
(もっと早く、気づけてたのかな)
そんなことを思いながら、写真を元の位置に戻した。
──
寝よう、と思った。
でも、なかなか目が閉じなかった。
(蓮くんって、本棚に何を入れてるんだろう)
ラノベ、設定資料集、アニメの公式ガイド。
几帳面に揃えられた背表紙を、視線だけで追っていた。
ふと、下の段に目が止まった。
(……あれ?)
一角だけ、本の並びが微妙に乱れていた。
他の段はきっちり揃っているのに、そこだけ——
少し奥に押し込まれた薄めの本の群れ。
(……なんか、隠してる?)
無意識の好奇心が、手を伸ばした。
1冊抜き取った、その瞬間——
表紙に描かれたのは、見覚えのある黒髪の少女。
淡い水色のドレス。
微笑む表情。
「星野まり」だった。
「…………えっ」
硬直。
沈黙。
鼓動が、うるさいほど響いてくる。
(これって……「同人誌」と言われている本……?
しかも、18き…ん…!?)
ページをめくる手が、明らかに震えていた。
(やばい……これは、ダメ……)
ピシャッと本を閉じる。
(……でも、どんな内容か……ちょっとだけ、気になる)
もう一度、そっと開く。
読み進める。
(~~~~っっ)
閉じる。
開く。
閉じる。
読み進める。
(なんで……こんなの……
こんな、蓮くんのばか……っ!)
顔から火が出そうだった。
布団に飛び込みたくても、手元の本が離れない。
(しかも……表紙の裏に、蓮くんの字で「購入日」が書いてある……!)
寝返りを打つたびに、
顔に残る熱がじんじんと疼く。
気づけば、深夜1時を回っていた。
「……なにしてるんやろ、わたし……」
布団をかぶって目を閉じる。
でも、しばらくの間——
頭の中で「星野まり」と「蓮くんの声」が交互に現れては消えていった。
眠りは、なかなかやってこなかった。
──翌朝、午前6時半。
野中家の2階、東側の窓から差し込む光が、
ゆっくりと室内を照らし始めていた。
布団の中で身じろぎした美鈴は、
ぼんやりと天井を見つめながら、目を覚ました。
「……うそ、もう朝……」
体は軽いけど、頭はぼんやりしている。
寝不足の証拠だった。
頬にほんのり残る熱と、
脳裏をよぎる昨夜の記憶。
(……あれは、夢じゃ……ないよね)
視線の先、ベッド脇の本棚には、
あの本たちが、静かに——きれいに元の位置に戻されていた。
(……たぶん、もう触らない)
気まずさと軽い羞恥を飲み込んで、
ベッドから起き上がる。
リュックの中には、最低限のものしかなかった。
着替え。
洗顔シート。
簡単なメモ帳と、筆記用具。
(本当は、クラリネットも持ってきたかった……)
そう思った瞬間——
部屋の隅に置かれている、ひとつのハードケースが目に留まった。
「……え?」
そっと近づいて、タグを確認する。
『R.N』
(……蓮くんの、イニシャル)
ケースを、ゆっくりと開いた。
中には、丁寧に整備されたクラリネットが収められていた。
美鈴は、しばらく動けなかった。
(なんで、蓮くんが……クラリネットを)
ケースの横に、小さく貼られたメモ用紙があった。
癖のある字で、こう書かれていた。
『弾きもしないのに勢いで買った。
いつか笑ってくれ』
それだけだった。
飾り気も、説明も何もない。
ただ「いつか笑ってくれ」という一言が、そこにあった。
美鈴の胸の奥が、じわりと熱くなる。
(……借りても、いいですか。蓮くん)
そう心の中で問いかけながら、
ゆっくりとクラリネットを取り出した。
マウスピースに唇を当てて——
息を入れた。
一音だけ、鳴った。
細かったけれど。
震えていたけれど。
確かな音だった。
美鈴はそのまま、しばらく動かなかった。
窓の外で、雀が鳴いていた。
(……出た)
それだけだった。
それだけで、十分だった。
──
階段を降りると、台所から味噌汁の匂いがしていた。
「おはよう」
蓮の母が、振り返らずに言った。
「……おはようございます」
「よく眠れた?」
「……あんまり、ねむれませんでした」
「そうよね」
母は笑いながら、鍋をかき混ぜ続けた。
「でも、顔が昨日と違うわよ」
美鈴は、少しだけ目を丸くした。
「……そうですか?」
「うん。なんか——"音がある顔"になってる」
その言葉に、美鈴はうまく返せなかった。
代わりに、小さく笑った。
──
朝食の食卓。
和食を中心に、あさりの味噌汁に焼き鮭、だし巻き卵。
湯気と香りに包まれて、会話はどこかゆるやかだった。
「……クラリネット、去年の秋頃に買ったのよ」
母が、さりげなく言った。
「急に"クラリネット、どこで買えるか知ってる?"って聞いてきてね。
なんで?って聞いたら——」
少しだけ間があった。
「"好きな人が吹いてるから"って。それだけ」
美鈴の箸が、止まった。
「あの子らしいでしょ。
理由はそれだけで、あとは何も言わなかった」
「……蓮くんって」
美鈴は、湯呑みを両手で包みながら、
小さく笑った。
「……すごく、不器用ですね」
「うん。でも——」
母が、美鈴の顔を見た。
「一途なの。昔から」
父が箸を置きながらうなった。
「そうそう。ゲームでもアニメでも、好きなキャラ一筋でな。
中学のときも——自分に自信がなくなったからって、
夜中の2時にサッカー部員全員に"ありがとう"ってメール送ってたくらいで」
「メール……!?」
「しかも、"自分はグースだったと思います"って書いてあってね。
翌朝、拓真から"バカ、何時だと思ってんだ"って返信が来て——
その下に、"でも、ありがとな"って」
「……うわ、それ」
美鈴は思わず、胸元に手をあてた。
「……それ、すごく、蓮くんらしいですね」
その笑いが、朝の空気をさらにやさしくしていた。
しばらくして、美鈴は、ふと少しだけ姿勢を正した。
「……あの」
「うん?」
「一曲だけ……演奏しても、いいですか?」
父も母も、瞬時に顔を見合わせてから、すぐに頷いた。
「もちろん。
聴かせてもらえるの、すごく嬉しいわ」
──
数分後。
リビングの窓を開けて、朝の風が通り抜ける。
美鈴は、静かにクラリネットのケースを開き、
丁寧にセッティングする。
蓮の手が触れた楽器。
蓮が「いつか笑ってくれ」と書いた楽器。
(今度は、わたしが)
一呼吸おいて、唇をマウスピースに添える。
そして——
アヴェ・マリアの旋律が、
静かに、清らかに、部屋に流れはじめた。
「ありがとう」
「ごめんね」
「もう一度、届けたい」
そんな想いが、言葉にならないまま、
音に姿を変えて、ゆっくりと天井へと上っていく。
父も母も、声を出さずに聴いていた。
演奏が終わったとき、
蓮の父がそっと眼鏡を外して言った。
「……すごいな。
あの部屋で一夜明けて、こんな音が出せるんだな」
「……あの子が惹かれたの、分かる気がするわ」
母の目にも、わずかに涙がにじんでいた。
美鈴は、静かに深呼吸して、
照れ笑いを浮かべた。
「……蓮くんが戻ってきたら、今度は"言葉"でも、伝えてみます」
その言葉が、今朝いちばん強い音だった。




