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第8話「※新しい音と、新しい恋」(前編)

──月曜の朝、午前7時55分。


晴れた空の下、校門へと続く並木道を、

西村美鈴はひとりで歩いていた。


これまでは、たいてい誰かといた。

特に玲央と一緒に、並んで登校する姿が多かった。


でも今日は、あえて“ひとり”を選んだ。


(……ひとりで、来たかった。

 ちゃんと、“わたし”として、戻ってきたかったから)


校門が見えてきたところで――

制服の裾をはためかせて、玲央が姿を現した。


「お、来た来た。

 ……連絡なしで登校って、心配するだろ普通」


「……ごめん。

 でも、今日はひとりで来ようって思ってたの」


「……そっか。まあ、君がそう言うなら」


玲央はそれ以上は何も言わなかった。

けれど、その瞳には微かに張り詰めたものがあった。


美鈴は少し立ち止まって、玲央の顔を見上げた。


「心配してくれて、ありがとう。

 でも、もう大丈夫だよ。」


その笑顔は、強がりじゃない。

“音”ではなく、“言葉”で生きようとする少女の決意だった。


玲央はわずかに目を伏せて、ふっと笑った。


「……了解、“西村さん”」


「また、“放課後”にね」


そう言って、ふたりは自然と別方向へ進んだ。


──3組の教室。午前8時10分。


ガララッと扉が開かれると、

教室の空気が、ピンと張り詰めた。


「おはようございます」


美鈴は、変わらない口調で挨拶し、

自分の席に向かって歩いた。


その途中。

教室のあちこちから、目線とひそひそ声が飛び交う。


「……来た」


「マジで来たんだ」


「2週間だよ、2週間」


「コンクール前にいなくなってさ、戻ってきたと思ったら佐藤さんの宣言の次の日だし」


「タイミングよすぎない?」


「てか、夏休みから玲央サマとずっと一緒にいたって話じゃん」


「で、涼子ちゃんに“彼女宣言”されて、今度は玲央サマに逃げたってこと?」


「……いや、でも普通に登校してくるとこが逆に」


「なんか計算してそうじゃない?」


「え、どういう意味?」


「だから、“わたしは傷ついてません”アピールってこと」


声は小さかった。

でも、教室という閉じた空間では——

全部、聞こえる。


美鈴は、前を向いたまま歩いた。


(……聞こえてる)


(全部、聞こえてる)


(でも——)


椅子を引いて、座った。


ひとりの女子が、そっと近寄ってくる。


「……あの、色々噂になってたけど……大丈夫なん?」


美鈴は、ふっと微笑んだ。


「うん、大丈夫。

 全部じゃないけど、自分でちゃんと選んできたから」


それだけの短い言葉だったのに――

教室の空気が、少しやわらいだ。


誰かが小さくつぶやいた。


「……美鈴さんらしいよね、そういうの」


「あはは…」


意味のない苦笑。

でも、それが“居場所”を形づくっていくのだと、美鈴は分かっていた。


──放課後、吹奏楽部 第二音楽室。

吹奏楽部の部長から、部室である音楽室に行く前に寄ってほしいとの連絡があった。


扉を開けた瞬間、懐かしい木の香りと譜面の残り香が鼻をかすめた。


(ただいま)


心の中で、小さくそう呟いて、

美鈴はゆっくりと中へ入り、一礼をする。


「ご迷惑をおかけして、すみませんでした。」


中には、部長と、譜面台を手にした佐藤涼子の姿。

涼子はタブレットを持っていなかった。

――きっと、今日だけは“スコアで測らない”つもりなのだと、美鈴はすぐに察した。


「おかえり、美鈴。

 ……早速だけど、今日は、君だけのテストだよ」


部長が穏やかに言った。


「準備できたら、どうぞ」


うなずいた美鈴は、蓮の部屋で感じた“あの音”を胸に抱いて、

そっとクラリネットを構える。


一音目。

空気がわずかに震えた。


(……届いて)


次のフレーズは、音が揺れた。

でも、それは“緊張”ではなく“感情”だった。


全ての音が完璧ではなかった。

けれど、その中には“伝えようとする意志”が確かにあった。


演奏が終わった後、静寂が数秒続いた。


部長は腕を組み、口元だけで苦笑した。


「……たぶんAIスコアなら“62点”ってとこかな。

 でもね――今のキミなら、その数値なんて、吹き飛ばせるはずだ」


「……はいっ」


「本番用の立ち位置はそのまま残しておいた。

 今日から、またよろしくな」


「…ありがとうございます…!」


そう言って、部長は楽譜を片付け、

「頑張れよ」と背中をポンと叩いて、音楽室をあとにした。


残されたのは、美鈴と涼子。


ふたりの間に、しばしの沈黙が流れる。


やがて涼子が、少しだけ口角を上げて言った。


「……やるじゃん…でも…

復帰できたからって、“勝った”と思わないでね?」


その言い方は、いつもの“嫌味”ではなかった。

むしろ――どこか、うれしそうですらあった。


美鈴は軽く目を細め、クラリネットを持ち直す。


「思ってませんよ。

 でも――蓮くんの“彼女権”、本気で取りに行くので。そのつもりで」


「……言うじゃない」


「言うようになったんです、わたしも」


ふたりは、同時にふっと笑った。


それは、勝ち負けを超えた“並び立つ者同士”の笑顔だった。


涼子は譜面台の裏から、一冊の楽譜をそっと取り出した。

そして、美鈴の前に差し出す。


「……あんたには、これが似合うと思ってさ。

 篠原先生と部長には話してあるし、少し前から本格的に

 練習入ってもらってる」


美鈴は表紙を見た瞬間、一瞬だけ目を見開いた。

すぐに、そっとスコアを受け取り、静かにページをめくる。


「……この曲を、自由曲に?」


「うん。

 ……ちょっとだけ、手を入れてあるけどね。

 ……そのままだと、たぶん“あんたには明るすぎた”から」


涼子は言葉を選ぶように、少しだけ視線を落とした。


「……これ、なんかさ。

 “誰かと二人三脚で走ってる”みたいな感じがするんだよね。

 ……歩幅、揃えながら進んでく感じ。……まるで、あんたと――」


一瞬だけ言いかけて、言葉を飲み込む。


「……ま、深読みかも。あくまで音の話」


美鈴は微笑みながら、譜面を閉じた。


「……ありがと。

 ちゃんと、響かせてみせる。……わたしの“歩幅”で」


ふたりの間に、静かな決意が流れた。

それは“戦い”ではなく、“選び取る音”の始まりだった。


「ふふ。ま、せいぜい頑張ってよ。“吹部のエース様”?」


「……後悔しても、知りませんよ?」


ふたりは、また少し笑った。

今度は――お互いを真正面から“音で認め合う”者同士として。


美鈴はクラリネットをしまい、涼子の後を追うように、吹奏楽部の仲間がいる音楽室へと戻った。

扉を開けると、一瞬だけ視線が集まったが、誰も何も言わなかった。


「……お騒がせしました」


そう言って、何人かの部員が小さく頷いた。

美鈴は静かに自分の位置に戻り、クラリネットケースを机に置く。

そして、そっと涼子から手渡されたスコアを開いた。


音楽室に響いた一音は、

“戦い”ではなく、“選び取った音”そのものだった。


部活を終え、クラリネットケースを肩にかけて校門を出た美鈴の前に、

いつもの制服の男が、電柱にもたれて立っていた。


「……ゴメン東條くん。待ってた?」


「……いや、ちょうど来たとこ」


「……そうなんだ」


「それと…俺のことは“玲央”でいいって、言っただろ?」


美鈴は少しだけ、口元を緩めた。


「うん。……玲央くん」


「ちょっと公園、歩かないか?」


「……うん」


──校門から徒歩5分。噴水のある小さな公園。

木漏れ日が差し込むベンチへ、ふたりは肩を並べて歩いた。


「学校、戻ってきたんだな。

 ちゃんと“ひとりで”」


「うん。……ちょっと怖かったけど、

 蓮くんの部屋で一晩過ごしたら、不思議と“言葉”が浮かんだの」


「野中の……部屋?」


「うん。お母さんと話して。

 “音じゃなくて、言葉で向き合ってもいい”って、そう思えたの」


玲央はそれを聞いて、しばし無言で歩いた。


そして、公園の中央――噴水広場の前に差しかかったところで、

足を止めた。


水はまだ出ていない。

時計を見ると、午後5時56分。


「……あのときの“告白”、断ってごめんな」


「え?」


美鈴は一瞬、立ち止まった。


玲央はポケットに手を入れ、少しだけ目を伏せた。


「“ヤケクソで言うな”って、あれ、

 本気でそう思って言ったんじゃない。

 あのときの君、目が死んでた。

 ……それが、なんか、俺には耐えられなかった」


「……玲央くん」


「でもさ。今日の君は……ちゃんと、自分の足で歩いてた。

 音も、言葉も、ちゃんと選んでた」


その言葉に、美鈴の心が、ほんの少しだけ熱を持つ。


(玲央くん……)


そして、次の瞬間。


玲央は深く息を吸い、

真正面から、美鈴を見つめた。


「だから今度は、俺から言う」


「……!」


「西村美鈴が、好きです。付き合ってください!」


その直後――


シュバァァァァァッ!!


噴水が、タイミングを見計らったように水を吹き上げた。


美鈴は、一瞬あっけに取られ、

続いて吹き出しそうになりながらも――

玲央の顔を、じっと見返した。

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