第6話「※そして、彼女になると決めた」
静寂。
モニターの電子音だけが、生命のリズムを刻んでいる。
ここは、自衛隊中央病院。
厳重な面会制限のかかった集中治療室の一区画。
使い捨てのガウンとマスクに身を包み、
その中で、佐藤涼子ひとりが立っていた。
面会許可は「1分以内、会話制限あり」。
だが、彼女は話しかけなかった。
ただじっと、眠る野中蓮の姿を見つめていた。
(……なんで、あなたはこんな場所にいるの)
そこまで考えて、涼子は気づいた。
自分がずっと、この問いから逃げていたことに。
(あの日以来、君のことが"好き"だって、認めたくなかったんだ)
心の中で、言葉が静かに形になった。
何でも分析するのは得意だった。
人の感情も、状況も、データとして読める。
でも、自分の感情だけは——ずっと、見て見ぬふりをしてきた。
(あなたが倒れるまで、気づかないふりをしてた)
(馬鹿みたい)
でも、だからこそ。
(だから——わたし、変わるよ)
(あなたの隣に立てる、そういう人になるって、決めたから)
やがて看護師に促され、涼子は一礼してICUを出た。
ICU前の隔離エリア。
防護ガウンを脱いだ彼女を、
ひとりの少女が待っていた。
紺色のスカートに白色の半袖のポロシャツ、腕を組んで壁にもたれる姿。
金髪でも少しの髪乱れも許さない、完璧な立ち姿。
山本結衣だった。
「……もしここに西村さんが来てたらどうしようと思ってたけど。
まさかの"冷徹様"だったとはね」
涼子は驚いた様子も見せず、
無言で手を消毒する。
「で、どこから聞いたの?
野中くんの転院先。こっちは完璧に封じたつもりだったんだけど」
「……言えないわ。
こっちにも"守秘義務"ってものがあるの」
結衣の目が、わずかに細まる。
「……なるほど。探るわね、あなた」
「必要だから動いただけよ。……それとも、会っちゃダメだった?」
「ううん。そんなことないよ」
結衣は腕をほどき、数歩近づいた。
「それで、その後どうするの?
"会いに来ただけ"って顔には、見えないんだけど」
涼子は、ガウンの袋を折り畳みながら、
静かに、しかしはっきりと答えた。
「──蓮の、彼女になります」
その言葉に、結衣のまつ毛がピクリと揺れた。
数秒の沈黙。
やがて、口元に浮かんだのは——評価とも、皮肉ともとれる微笑だった。
「ふふっ……なるほど。
このタイミングで"占有宣言"ってわけね。
さすが、戦略家」
「戦略じゃないわ。これは、選択よ」
「それ、蓮が選ばなかったら?」
涼子は、少しだけ間を置いた。
「……それでもいい。
でも、"選ばれるだけの私"には、なっておく」
一瞬、ICUの扉の向こうでモニターの音がひとつ跳ねたような気がした。
結衣はそれを見もせず、
スカートの裾を整えながら背を向ける。
「──了解。じゃあ、ライバルとして扱うわ。
"彼を守るのは、わたし"っていう旗は……もう立てたってことで、いいのね?」
「ええ、でもその旗は、譲らないわ」
背中合わせのふたり。
冷たい廊下。
だけど、その場だけは、戦場だった。
午後8時すぎ。
住宅街から少し離れた小さな公園。
すでに遊具には誰もおらず、街灯の光が砂地をぼんやりと照らしていた。
ブランコが、風に揺れて微かにきしむ。
そこに、ひとりの少年が姿を見せた。
拓真だった。
手には缶コーヒーが2本。
すでにベンチには、佐藤涼子の姿があった。
「……悪ぃ、待たせた」
「ううん、ちょうど来たところ」
拓真は缶をひとつ差し出し、自分も隣に腰を下ろす。
しばらく無言。
そして、涼子がゆっくりと切り出した。
「……行ってきた」
「自衛隊病院、か」
「うん。
時間は短かったけど、ちゃんと顔を見てきた」
「どうだった?」
拓真の声は、静かだけどどこか強ばっていた。
涼子は一呼吸おいて、微笑む。
「心拍も、呼吸も安定してる。
頭部への影響も軽度で済んでるって。
でも、目を覚ますまでは……まだ少しかかるみたい」
「……でも、"戻れる"んだよな?」
「ええ。
時間はかかっても、ちゃんと"戻ってこられる"って。
ドクターの口ぶりからして、楽観的だった」
拓真は、缶コーヒーを一口飲んで、肩をすっと落とした。
「そっか……よかった」
その言葉には、いろんな感情が混ざっていた。
しばらくふたりは、黙って夜空を見上げていた。
「……ありがとうな、涼子。
あいつの代わりに、ちゃんと見てくれて」
「違うよ。代わりなんかじゃない」
涼子は小さく笑って、夜空を見上げた。
「わたしが、勝手に見に行っただけ。
でもね——ちゃんと、伝えてきたよ。
"蓮、あなたの席はまだ空いてる"って」
拓真はそれを聞いて、静かに頷いた。
ベンチの背に寄りかかりながら、涼子がふいに呟いた。
「……美鈴ちゃん、ね。最近よく、玲央と一緒にいるの」
「……ああ。なんとなく聞いた」
「たぶん、本人は気づいてないと思う。
音からも、人からも、そして……自分からも、逃げてるって事に」
拓真は黙って聞いていた。
涼子の声は、どこか自分自身にも言い聞かせるような響きだった。
「わたしね。
最初は"支えよう"って思ってたの。
でも……たぶん、それは違ったのかもしれない」
夜風が吹いた。
涼子のハーフアップが少し揺れる。
「わたしの"選択"が、誰かを傷つけるかもしれない。
でも、やらなかったら、ずっと後悔する気がして」
拓真は、缶を膝の上に置いて、静かに問う。
「それで……どうしたいんだ?」
涼子は、膝の上に手を重ねたまま、小さく息をついた。
「――しばらく、別れてほしい」
その言葉は、少し震えていた。
けれど、濁りはなかった。
「拓真のことが"好き"とか、"一緒にいたい"とか、そういうのは本当。
でも、わたし、今は"蓮を選ぶ"って決めたから」
拓真は、すぐには何も返さなかった。
ただ、横を向いて、涼子の顔をじっと見た。
その瞳は赤く、けれど迷いはなかった。
涙をこらえていることも、すべて分かった。
でも——拓真は何も言わなかった。
十秒。
二十秒。
風が、もう一度吹いた。
「──そっか」
それは、了承でも拒絶でもない。
ただ、"受け止める"という意思だった。
しばらくふたりは、無言のままベンチに座っていた。
遠くで、電車の通過する音だけが響いていた。
涼子は、星のない空を見上げたまま、
小さく、でもはっきりと口を開いた。
「……全部、片付いたら。
ちゃんと蓮が戻ってきて、
わたしの"選択"が終わったら——そのときは、戻るから」
長い沈黙が、また流れた。
そして拓真が、口の端を上げた。
「……そのとき、俺に彼女いたらどうすんの?」
「えっ……」
涼子が一瞬だけ固まる。
でも次の瞬間、彼女はふっと笑った。
「……なに言ってんの。
"名実ともに熟年夫婦"って言われてた関係だよ?
今さら浮気とか、許さないから」
「こっわ……! 絶対に敵に回したくないタイプだ、それ」
ふたりの間に、ようやく笑いが戻った。
何かが終わるわけじゃない。
けれど確かに、"何かが変わる夜"だった。
拓真は、立ち上がった涼子の肩を、軽く叩く。
「お前は、やれるよ。
……言葉にしたなら、もう迷うなよ」
「うん」
涼子も立ち上がり、背筋を伸ばす。
「行ってくる。"彼の隣に立てる私"になりに」
「──いってらっしゃい、"相棒"」
夜風が吹いた。
別れの言葉じゃない。
ただの、静かな"見送り"だった。
そして涼子は、夜道を一人歩いていった。
背中は揺れず、まっすぐに。
2学期が始まる9月に入っても、まだ残暑の匂いが残る朝。
いつもなら、一緒に登校してくるはずのふたりが——
今日は、別々に校門をくぐっていた。
先に着いたのは涼子。
髪をきっちり結い、制服もいつも通り。
けれど、その歩き方はどこかキビキビしていて、
"話しかける隙"すら感じさせないほどだった。
その約5分後に到着したのは拓真。
部活バッグを肩に引っかけ、寝ぐせを適当に撫でながら、
いつもの笑顔で友人たちに軽く手を振っていた。
ふたりが顔を合わせることはなかった。
それは誰が見ても"自然ではない違和感"だった。
──1時間目直前。
クラスのざわつきは、文化祭前よりも騒がしかった。
「え、マジで!? 涼子ちゃんが!? フリーに!?」
「拓真も"フリーになった"って言ってたんだって!」
「これって……別れたってこと……?」
「そしたら俺にもチャンスあるんじゃ——」
「無理だよ、お前には」
「ですよねー」
噂は静かに、でも確実に校内へ広がっていった。
──昼休み。
屋上の片隅、日差しの届かないコンクリートの陰。
美鈴と玲央が、いつものように向かい合って弁当を広げていた。
「……拓真と涼子、別れたらしいじゃん」
玲央が箸を動かしながら言う。
「……うん。聞いた」
美鈴はたまご焼きを口に運びながら、少し間を置いた。
「なんか、ぽっかりした感じがして」
「ふうん」
「あのふたり、あの主張の告白以降いるのが当たり前すぎて……
"特別"って気づかなかったのかもね」
玲央は何も言わなかった。
パンを一口かじって、空を見上げた。
そして——そのふたりの姿を、
たまたま2年生の誰かが、屋上の階段から見ていた。
「……え、あれって西村さんと、専科の東條玲央……?」
シャッター音。
SNSの投稿。
《【速報】佐藤涼子と藤井拓真、別れたっぽい。西村美鈴はすでに東條玲央と親展中か?》
午後の授業が始まるころには、
この投稿が校内限定SNSで20件以上のリツイートを記録していた。
──放課後、パソコン部室。
蛍光灯の白い光の下、
涼子はひとりでキーボードを叩いていた。
画面には、課題曲のフィードバック資料。
今年度の演奏データ、音程ズレの傾向、各パートの改善推移——
篠原先生と部長に今日中に提出する分だ。
(……クラリネット、やっと安定してきた)
スコアの折れ線グラフが、右肩上がりになっている。
数字は嘘をつかない。
美鈴ちゃんが戻ってきてから、全体の底上げが始まっている。
ファイルを保存して、次のウィンドウを開く。
自由曲の各パート確認。
タイトルは部外秘——提出書類にも「Ce-10」と伏せたまま記載する。
木管の音域チェック。
金管のバランス調整メモ。
打楽器のタイミング修正案。
淡々と、手を動かす。
そのとき——スマホが震えた。
校内SNSの通知だった。
《佐藤涼子と藤井拓真、別れたっぽい。西村美鈴はすでに東條玲央と親密中か?》
涼子は画面を一瞥して、そっと伏せた。
(……ま、そうなるよね)
想定内だった。
でも、「想定内」と思うのと、「平気」は別の話だと、
この瞬間だけ、少しだけ認めた。
(拓真、今日どんな顔してたんだろ)
廊下ですれ違ったとき、
いつも通りの笑顔で友達に手を振っていた。
あの笑顔が、強がりなのか本心なのか——
付き合っていた時間が長いほど、分からなくなる。
(……でも、あの人は大丈夫だよ)
根拠はなかった。
でも、確信はあった。
拓真はいつだって、自分より誰かの背中を先に押す人間だ。
だから、泣くとしても——誰も見ていないところでだけ泣く。
(……ごめん。少しだけ、先に行くね)
心の中で、小さく呟いた。
謝罪ではなかった。
お礼でもなかった。
ただ、「行ってきます」に一番近い言葉だった。
——
スマホをカバンにしまって、
涼子は画面に向き直した。
自由曲のパート確認の続き。
クラリネットのソロ部分で、指が止まった。
(……この曲、やっぱりあの子に似合う)
涼子が編曲のベースを作ったとき、
頭の中にあったのは美鈴の音だった。
押し付けがましくなくて、
でも確かに芯があって——
「誰かのために鳴っている」感じのする音。
(ちゃんと届けてよ、美鈴ちゃん)
(わたしが選んだ曲で、あなたが選んだ音で——
ちゃんと、蓮のところまで)
資料を閉じて、USBに書き出す。
提出用のフォルダに格納して、
ファイル名を確認する。
「吹奏楽部_課題曲フィードバック_最終版.pdf」
「吹奏楽部_自由曲パート確認_Ce-10_確定稿.pdf」
送信ボタンを押した。
部室の外、廊下から——
吹奏楽部の誰かが練習している音が、かすかに聞こえてきた。
涼子は少しだけ耳を傾けて、
それから静かに立ち上がった。
音楽室。
今日も計測日だった。
涼子は操作席に座り、
全体映像、木管ライン、クラリネットのパートを個別モニタで確認していた。
演奏は、全体として安定している。
テンポもリズムも、ここ数日で大きく持ち直していた。
だが——
(やっぱり、美鈴ちゃんのパートだけ……まだ揺れてる)
音は出ている。
でも、その奥にあるべき"芯"が、どこか足りない。
AIの判定も、それを無言で示すように、
クラリネットの数値はまだ70台に届かない。
それでも。
スコアは、前回より少しだけ上がっていた。
部活終了後、部員たちがぞろぞろと退出していく。
クラリネットを拭きながら、ひとり残っていた美鈴のところへ、
涼子が歩み寄った。
「……美鈴ちゃん」
美鈴は、顔を上げると、少しはにかんだように言った。
「……前は、ごめん。
あのとき、わたし……すごく、追い詰められてて」
涼子は軽く首を振る。
「ううん、わたしこそ。言いすぎた。
それに、ちゃんとスコア……上がってたよ」
「……うん」
「彼氏効果かな?」
「っ……!」
美鈴がわずかに肩を跳ねさせ
それを聞いた部員たちは少しざわついた。
「──え、なにそれ?」「そういえば最近、二人で公園とかで誰かとよく食べてたし」
「夏祭りの時なんか西村さん、浴衣デートしてたっぽいし」
部員たちの噂を聴きながら涼子は続けた…
「だってさ。最近、専科の東條くんとよく一緒にいるでしょ?」
「……ち、違う! たまたま同じ時間に——」
「ふうん。でも、お祭りの時「楽しそう」だったよ」
涼子の口元には、どこまでが本音か分からない笑みが浮かんでいた。
「でも、そっちが楽しそうなら、まあ……よかったって思ってるよ」
----------
「はい、クロ確オメ」
「レオ様と西村さんなら、お似合いだと思うし」
「いっそうのこと、付き合っちゃいなよ」
部員たちの祝福の言葉を言われながら去り、涼子と二人になった。
美鈴は何も言い返せず、クラリネットの拭き取りに視線を落としたまま。
「……でも、わたし……音、まだ出せてないよ」
美鈴は、譜面の隅を見つめたまま、小さく呟いた。
言い訳ではなかった。
自分に向けた、痛みの告白だった。
その言葉を聞いて、涼子はふっと笑う。
「"蓮くんに聴かせるため"とか、言いそうだったからさ。
……もう、その役目、終わりにしていいよ」
「……え?」
涼子は、かすかに目を細めた。
「もう"蓮に何かを届ける役"は、わたしが引き継ぐから」
「……どういう、意味?」
「だって、わたし——蓮の"彼女"だから」
音楽室の空気が、止まった。
涼子の顔は、普段のクールな表情とは少しだけ違っていた。
照れていた。
でも、誇らしげだった。
そして——決意が、滲んでいた。
美鈴は、絶句した。
「……ど、うして……」
「どうしてって……ちゃんと"選びに行った"から、かな。
そうそう。拓真とは、噂通りとっくに別れたよ。
"このタイミング"がよかったから」
そこまで言ったとき、ガチャリと扉の開く音がした。
クラリネットパートの1年生部員が入ってきて、
目の前の光景に、バッグを取り落とした。
「あっ……す、すみません、何も聞いてません!」
そのまま、そそくさと棚からハンカチを取って逃げるように退出していく。
美鈴はその間も、何も言えなかった。
握った手が、かすかに震えていた。
涼子は、そんな美鈴の様子を一瞥し、
鞄を持ち、軽やかに音楽室を出ていった。
まるで、"役割を終えた譜面を閉じるように"。
──数時間後。
SNSのタイムラインに、新しい投稿が流れた。
《佐藤涼子、藤井拓真と破局→まさかの野中蓮"彼女宣言"!?》
《吹奏楽部で宣言→関係者絶句》
《西村美鈴、立ち尽くす現場の目撃談も》
翌朝には、"校内一面トップの話題"になっていた。
涼子はキーボードを打ちながら、SNSの通知を横目に見てつぶやいた。
「……誤算だけど、まぁいっか」
その顔は、照れと確信の入り混じった——
どこか、満更でもない表情だった。
────────────────────
自室のベッドに倒れ込んで、
美鈴はしばらく天井を見ていた。
クラリネットケースが、部屋の隅に置いてある。
いつもと同じ場所に。
でも、今夜だけは——
そこから目を逸らしたかった。
("蓮に何かを届ける役"は、わたしが引き継ぐから)
涼子の声が、耳の奥で繰り返された。
(だって、わたし——蓮の"彼女"だから)
美鈴は、枕に顔を押しつけた。
悔しい、という感情じゃなかった。
もっと、根元に近いところが——
ぽっかりと、空いていた。
(わたし、ずっと)
(蓮くんに、聴いてもらいたくて、吹いてたのに)
音楽室で吹いても、部活で吹いても、
どこかに「届け先」があった。
意識していなかった。
でも、確かにあった。
蓮が「聴く」と言ってくれた日から、
ずっと、その人に向けて吹いていた。
(それが、なくなった)
なくなったんじゃない。
「奪われた」という感覚の方が、近かった。
涼子は悪くない。
涼子が選んだことで、涼子が動いたことで——
美鈴には、何も責める権利がない。
でも。
(わたしの音の、届け先が)
(どこにも、なくなった)
美鈴は膝を抱えて、小さくなった。
クラリネットケースの、黒い表面が見えた。
(吹けない)
一生、絶対に吹けない気がした。
──
しばらくして、スマホが光った。
玲央からのメッセージアプリだった。
《今日の佐藤の件、大丈夫か》
たった一行。
美鈴はそれを見て、少しだけ笑った。
笑えた自分に、少し驚いた。
(……玲央くん)
返信しようとして、指が止まった。
(そうだ)
(玲央くんなら)
その考えが、どこから来たのか分からなかった。
でも、一度浮かんだら、消えなかった。
蓮への気持ちの置き場が、なくなった。
音楽の届け先も、奪われた気がした。
だったら——
(玲央くんに、向けたら)
(少しだけ、楽になれるかな)
それが逃げ場だと、
どこかでは分かっていた。
でも今夜の美鈴には、
それを止める力が、残っていなかった。
スマホを伏せて、目を閉じた。
明日、言おう。
そう決めたら、
少しだけ——呼吸が楽になった気がした。
────────────────────
──翌朝
キッチンから、味噌汁の匂いがしていた。
美鈴が階段を降りると、
母がエプロン姿で鍋をかき混ぜていた。
「おはよう。……なんか、顔色悪かよ?」
母の博多弁が、朝の台所に柔らかく響く。
「……おはようございます。大丈夫でs」
「大丈夫って顔じゃなかけど」
美鈴は椅子を引いて、テーブルに座った。
ご飯と味噌汁と、卵焼き。
いつも通りの朝ごはん。
でも、今朝は——お弁当箱が、テーブルの端にない。
(ああ、作らなかった)
毎朝、誰かのために作っていたお弁当。
今日は、作る気が起きなかった。
「……お弁当、今日はいらんと?」
母が、背中を向けたまま聞いた。
「……うん。今日は、いい」
「そっか」
それだけだった。
母は何も追いかけてこなかった。
美鈴は、味噌汁を一口飲んだ。
温かかった。
「……お母さん」
「ん?」
「好きな人がいたとして、さ」
母の手が、少しだけ止まった。
「その人の、"届け先"みたいなのが——なくなったら、どけんする?」
しばらく沈黙が流れた。
母が振り返って、美鈴の顔を見た。
「……難しかこと聞くね」
「うん」
母は、エプロンで手を拭きながら、向かいの椅子に腰を下ろした。
「届け先がなくなったんじゃなくて、
見えんくなっただけじゃないとかな」
「……見えなくなっただけ?」
「音楽でも、気持ちでも——
本当に届けたいなら、"届け先がどこにいるか"より先に、
"ちゃんと届く音"になってるか、の方が大事やろ」
美鈴は、箸を止めた。
「……届く音」
「届け先が見えなくなっても、
音が本物なら——ちゃんと届くけんね。
どこにいても」
母は、それだけ言って、立ち上がった。
「ご飯、ちゃんと食べてきんしゃい」
美鈴は、しばらく味噌汁を見つめていた。
(届く音)
(わたしの音、今、届く音になってるのかな)
答えは、出なかった。
でも——何かが、少しだけ胸に残った。
────────────────────
夏の終わりの空は、どこまでも青かった。
美鈴はクラリネットケースを肩にかけて、
いつもより少しだけ早く家を出た。
(今日、言おう)
昨夜決めたことを、
朝になっても——変えなかった。
玲央くんに告白する。
本気かどうかは、自分でも分からなかった。
でも、どこかに「向かう先」が欲しかった。
音楽の届け先を失って、
蓮くんへの気持ちの置き場もなくなって——
このまま何もしなかったら、
全部、どこにも向かわないまま消えてしまう気がした。
(だから、玲央くんに)
(玲央くんなら、受け取ってくれる気がして)
でも——
(本当に、そうかな)
母の言葉が、ふと蘇った。
「届け先が見えなくなっても、
音が本物なら——ちゃんと届くけんね」
美鈴は、歩きながら空を見上げた。
(わたしの気持ちは、本物かな)
(玲央くんへの気持ちは——本物?)
答えは、出なかった。
でも、足は止まらなかった。
校門をくぐったとき、
玲央の姿が見えた。
目が合った。
玲央が、少し首を傾けた。
「どうした」という顔だった。
美鈴は、深呼吸した。
(言おう)
(たとえ逃げ場でも——今は、これしかない)
「……ねえ、玲央くん。
今日の昼、屋上来れる?」
玲央は少しだけ間を置いて、
静かに頷いた。
「……ああ」
その目は、何かを——分かっているような目だった。
でも美鈴は、それに気づかないふりをした。
夏の終わりの風が、
ふたりの間を、静かに通り過ぎた。
────────────────────
美鈴は屋上の片隅にいた。
向かいには、涼しい顔をした玲央。
ふたりは無言で弁当を広げていた。
「……食べないの?」
玲央が気だるげに聞くと、
美鈴は少し間をおいて、ぽつりと言った。
「……ねぇ、玲央くん。
わたしと……付き合ってみる?」
玲央は、一瞬だけ手を止めた。
涼子の宣言を聞いたときから、
美鈴がこう動くだろうとは——分かっていた。
でも、だからこそ。
「……それ、今言う?」
「……うん。今じゃないと、たぶん言えないから」
「ふうん」
玲央は、美鈴の目を見た。
その目は、どこか虚で曖昧。なんとも言えない目だった。
「じゃあ俺からもひとつ言わせてもらうけど——」
玲央は、美鈴の目を見たまま、言い放った。
「ヤケクソで言うなよ、そんなセリフ」
美鈴の表情が凍る。
「……わたし、本気で……!」
「それは嘘だよ。
"涼子に負けたくない"だけの目してる。
それじゃ、俺じゃなくてもいいって言ってるようなもんじゃん」
玲央は笑っていた。
けれど、その瞳は鋭かった。
「俺、そういう"逃げ道"の扱い、うまくないんだ」
一呼吸置いて、玲央は続けた。
「お前が本気でそう思ったとき——
その目で、もう一回言え。
……そのときは、ちゃんと答える」
それは、拒絶ではなかった。
でも、"今じゃない"という、はっきりした意思だった。
風が吹いた。
美鈴は何も言えず、箸を置いたまま黙っていた。
(なんで)
(なんで、玲央くんは、わたしの目を見てそんな顔ができるの)
玲央もそれ以上は言わず、静かに缶コーヒーを開けた。
ふたりの間に、夏の終わりの風だけが流れた。
──放課後。
サッカー部のグラウンド脇。
練習後のボールを片付けながら、藤井拓真が空を見上げていた。
「……動いたな」
カラカラと転がるボールをネットに放り込み、
静かに息をついた。
「頼んだよ、涼子。
"お前が選んだ戦場"なら——
俺は、背中だけは支える」
彼の手の中にあるのは、
かつてふたりで拾った、土埃が被ったボール。
それをそっと置いて、拓真はゆっくり部室へと歩いていった。
夕陽が、彼の背中を長く引き伸ばしていた。




