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第6話「※そして、彼女になると決めた」

静寂。

モニターの電子音だけが、生命のリズムを刻んでいる。


ここは、自衛隊中央病院。

厳重な面会制限のかかった集中治療室の一区画。


使い捨てのガウンとマスクに身を包み、

その中で、佐藤涼子ひとりが立っていた。


面会許可は「1分以内、会話制限あり」。


だが、彼女は話しかけなかった。

ただじっと、眠る野中蓮の姿を見つめていた。


(……なんで、あなたはこんな場所にいるの)


そこまで考えて、涼子は気づいた。


自分がずっと、この問いから逃げていたことに。


(あの日以来、君のことが"好き"だって、認めたくなかったんだ)


心の中で、言葉が静かに形になった。


何でも分析するのは得意だった。

人の感情も、状況も、データとして読める。

でも、自分の感情だけは——ずっと、見て見ぬふりをしてきた。


(あなたが倒れるまで、気づかないふりをしてた)


(馬鹿みたい)


でも、だからこそ。


(だから——わたし、変わるよ)

(あなたの隣に立てる、そういう人になるって、決めたから)


やがて看護師に促され、涼子は一礼してICUを出た。


ICU前の隔離エリア。

防護ガウンを脱いだ彼女を、

ひとりの少女が待っていた。


紺色のスカートに白色の半袖のポロシャツ、腕を組んで壁にもたれる姿。

金髪でも少しの髪乱れも許さない、完璧な立ち姿。


山本結衣だった。


「……もしここに西村さんが来てたらどうしようと思ってたけど。

 まさかの"冷徹様"だったとはね」


涼子は驚いた様子も見せず、

無言で手を消毒する。


「で、どこから聞いたの?

 野中くんの転院先。こっちは完璧に封じたつもりだったんだけど」


「……言えないわ。

 こっちにも"守秘義務"ってものがあるの」


結衣の目が、わずかに細まる。


「……なるほど。探るわね、あなた」


「必要だから動いただけよ。……それとも、会っちゃダメだった?」


「ううん。そんなことないよ」


結衣は腕をほどき、数歩近づいた。


「それで、その後どうするの?

 "会いに来ただけ"って顔には、見えないんだけど」


涼子は、ガウンの袋を折り畳みながら、

静かに、しかしはっきりと答えた。


「──蓮の、彼女になります」


その言葉に、結衣のまつ毛がピクリと揺れた。


数秒の沈黙。


やがて、口元に浮かんだのは——評価とも、皮肉ともとれる微笑だった。


「ふふっ……なるほど。

 このタイミングで"占有宣言"ってわけね。

 さすが、戦略家」


「戦略じゃないわ。これは、選択よ」


「それ、蓮が選ばなかったら?」


涼子は、少しだけ間を置いた。


「……それでもいい。

 でも、"選ばれるだけの私"には、なっておく」


一瞬、ICUの扉の向こうでモニターの音がひとつ跳ねたような気がした。


結衣はそれを見もせず、

スカートの裾を整えながら背を向ける。


「──了解。じゃあ、ライバルとして扱うわ。

 "彼を守るのは、わたし"っていう旗は……もう立てたってことで、いいのね?」


「ええ、でもその旗は、譲らないわ」


背中合わせのふたり。

冷たい廊下。

だけど、その場だけは、戦場だった。


午後8時すぎ。

住宅街から少し離れた小さな公園。

すでに遊具には誰もおらず、街灯の光が砂地をぼんやりと照らしていた。


ブランコが、風に揺れて微かにきしむ。


そこに、ひとりの少年が姿を見せた。

拓真だった。


手には缶コーヒーが2本。

すでにベンチには、佐藤涼子の姿があった。


「……悪ぃ、待たせた」


「ううん、ちょうど来たところ」


拓真は缶をひとつ差し出し、自分も隣に腰を下ろす。


しばらく無言。

そして、涼子がゆっくりと切り出した。


「……行ってきた」


「自衛隊病院、か」


「うん。

 時間は短かったけど、ちゃんと顔を見てきた」


「どうだった?」


拓真の声は、静かだけどどこか強ばっていた。


涼子は一呼吸おいて、微笑む。


「心拍も、呼吸も安定してる。

 頭部への影響も軽度で済んでるって。

 でも、目を覚ますまでは……まだ少しかかるみたい」


「……でも、"戻れる"んだよな?」


「ええ。

 時間はかかっても、ちゃんと"戻ってこられる"って。

 ドクターの口ぶりからして、楽観的だった」


拓真は、缶コーヒーを一口飲んで、肩をすっと落とした。


「そっか……よかった」


その言葉には、いろんな感情が混ざっていた。


しばらくふたりは、黙って夜空を見上げていた。


「……ありがとうな、涼子。

 あいつの代わりに、ちゃんと見てくれて」


「違うよ。代わりなんかじゃない」


涼子は小さく笑って、夜空を見上げた。


「わたしが、勝手に見に行っただけ。

 でもね——ちゃんと、伝えてきたよ。

 "蓮、あなたの席はまだ空いてる"って」


拓真はそれを聞いて、静かに頷いた。


ベンチの背に寄りかかりながら、涼子がふいに呟いた。


「……美鈴ちゃん、ね。最近よく、玲央と一緒にいるの」


「……ああ。なんとなく聞いた」


「たぶん、本人は気づいてないと思う。

 音からも、人からも、そして……自分からも、逃げてるって事に」


拓真は黙って聞いていた。

涼子の声は、どこか自分自身にも言い聞かせるような響きだった。


「わたしね。

 最初は"支えよう"って思ってたの。

 でも……たぶん、それは違ったのかもしれない」


夜風が吹いた。

涼子のハーフアップが少し揺れる。


「わたしの"選択"が、誰かを傷つけるかもしれない。

 でも、やらなかったら、ずっと後悔する気がして」


拓真は、缶を膝の上に置いて、静かに問う。


「それで……どうしたいんだ?」


涼子は、膝の上に手を重ねたまま、小さく息をついた。


「――しばらく、別れてほしい」


その言葉は、少し震えていた。

けれど、濁りはなかった。


「拓真のことが"好き"とか、"一緒にいたい"とか、そういうのは本当。

 でも、わたし、今は"蓮を選ぶ"って決めたから」


拓真は、すぐには何も返さなかった。


ただ、横を向いて、涼子の顔をじっと見た。


その瞳は赤く、けれど迷いはなかった。

涙をこらえていることも、すべて分かった。


でも——拓真は何も言わなかった。


十秒。

二十秒。


風が、もう一度吹いた。


「──そっか」


それは、了承でも拒絶でもない。

ただ、"受け止める"という意思だった。


しばらくふたりは、無言のままベンチに座っていた。


遠くで、電車の通過する音だけが響いていた。


涼子は、星のない空を見上げたまま、

小さく、でもはっきりと口を開いた。


「……全部、片付いたら。

 ちゃんと蓮が戻ってきて、

 わたしの"選択"が終わったら——そのときは、戻るから」


長い沈黙が、また流れた。


そして拓真が、口の端を上げた。


「……そのとき、俺に彼女いたらどうすんの?」


「えっ……」


涼子が一瞬だけ固まる。


でも次の瞬間、彼女はふっと笑った。


「……なに言ってんの。

 "名実ともに熟年夫婦"って言われてた関係だよ?

 今さら浮気とか、許さないから」


「こっわ……! 絶対に敵に回したくないタイプだ、それ」


ふたりの間に、ようやく笑いが戻った。


何かが終わるわけじゃない。

けれど確かに、"何かが変わる夜"だった。


拓真は、立ち上がった涼子の肩を、軽く叩く。


「お前は、やれるよ。

 ……言葉にしたなら、もう迷うなよ」


「うん」


涼子も立ち上がり、背筋を伸ばす。


「行ってくる。"彼の隣に立てる私"になりに」


「──いってらっしゃい、"相棒"」


夜風が吹いた。

別れの言葉じゃない。

ただの、静かな"見送り"だった。


そして涼子は、夜道を一人歩いていった。

背中は揺れず、まっすぐに。



2学期が始まる9月に入っても、まだ残暑の匂いが残る朝。


いつもなら、一緒に登校してくるはずのふたりが——

今日は、別々に校門をくぐっていた。


先に着いたのは涼子。

髪をきっちり結い、制服もいつも通り。

けれど、その歩き方はどこかキビキビしていて、

"話しかける隙"すら感じさせないほどだった。


その約5分後に到着したのは拓真。

部活バッグを肩に引っかけ、寝ぐせを適当に撫でながら、

いつもの笑顔で友人たちに軽く手を振っていた。


ふたりが顔を合わせることはなかった。

それは誰が見ても"自然ではない違和感"だった。


──1時間目直前。


クラスのざわつきは、文化祭前よりも騒がしかった。


「え、マジで!? 涼子ちゃんが!? フリーに!?」


「拓真も"フリーになった"って言ってたんだって!」


「これって……別れたってこと……?」


「そしたら俺にもチャンスあるんじゃ——」


「無理だよ、お前には」


「ですよねー」


噂は静かに、でも確実に校内へ広がっていった。


──昼休み。


屋上の片隅、日差しの届かないコンクリートの陰。

美鈴と玲央が、いつものように向かい合って弁当を広げていた。


「……拓真と涼子、別れたらしいじゃん」


玲央が箸を動かしながら言う。


「……うん。聞いた」


美鈴はたまご焼きを口に運びながら、少し間を置いた。


「なんか、ぽっかりした感じがして」


「ふうん」


「あのふたり、あの主張の告白以降いるのが当たり前すぎて……

 "特別"って気づかなかったのかもね」


玲央は何も言わなかった。

パンを一口かじって、空を見上げた。


そして——そのふたりの姿を、

たまたま2年生の誰かが、屋上の階段から見ていた。


「……え、あれって西村さんと、専科の東條玲央……?」


シャッター音。

SNSの投稿。


《【速報】佐藤涼子と藤井拓真、別れたっぽい。西村美鈴はすでに東條玲央と親展中か?》


午後の授業が始まるころには、

この投稿が校内限定SNSで20件以上のリツイートを記録していた。


──放課後、パソコン部室。


蛍光灯の白い光の下、

涼子はひとりでキーボードを叩いていた。


画面には、課題曲のフィードバック資料。

今年度の演奏データ、音程ズレの傾向、各パートの改善推移——

篠原先生と部長に今日中に提出する分だ。


(……クラリネット、やっと安定してきた)


スコアの折れ線グラフが、右肩上がりになっている。


数字は嘘をつかない。

美鈴ちゃんが戻ってきてから、全体の底上げが始まっている。


ファイルを保存して、次のウィンドウを開く。


自由曲の各パート確認。

タイトルは部外秘——提出書類にも「Ce-10」と伏せたまま記載する。


木管の音域チェック。

金管のバランス調整メモ。

打楽器のタイミング修正案。


淡々と、手を動かす。


そのとき——スマホが震えた。


校内SNSの通知だった。


《佐藤涼子と藤井拓真、別れたっぽい。西村美鈴はすでに東條玲央と親密中か?》


涼子は画面を一瞥して、そっと伏せた。


(……ま、そうなるよね)


想定内だった。

でも、「想定内」と思うのと、「平気」は別の話だと、

この瞬間だけ、少しだけ認めた。


(拓真、今日どんな顔してたんだろ)


廊下ですれ違ったとき、

いつも通りの笑顔で友達に手を振っていた。


あの笑顔が、強がりなのか本心なのか——

付き合っていた時間が長いほど、分からなくなる。


(……でも、あの人は大丈夫だよ)


根拠はなかった。

でも、確信はあった。


拓真はいつだって、自分より誰かの背中を先に押す人間だ。

だから、泣くとしても——誰も見ていないところでだけ泣く。


(……ごめん。少しだけ、先に行くね)


心の中で、小さく呟いた。


謝罪ではなかった。

お礼でもなかった。


ただ、「行ってきます」に一番近い言葉だった。


——


スマホをカバンにしまって、

涼子は画面に向き直した。


自由曲のパート確認の続き。


クラリネットのソロ部分で、指が止まった。


(……この曲、やっぱりあの子に似合う)


涼子が編曲のベースを作ったとき、

頭の中にあったのは美鈴の音だった。


押し付けがましくなくて、

でも確かに芯があって——

「誰かのために鳴っている」感じのする音。


(ちゃんと届けてよ、美鈴ちゃん)


(わたしが選んだ曲で、あなたが選んだ音で——

 ちゃんと、蓮のところまで)


資料を閉じて、USBに書き出す。


提出用のフォルダに格納して、

ファイル名を確認する。


「吹奏楽部_課題曲フィードバック_最終版.pdf」

「吹奏楽部_自由曲パート確認_Ce-10_確定稿.pdf」


送信ボタンを押した。


部室の外、廊下から——

吹奏楽部の誰かが練習している音が、かすかに聞こえてきた。


涼子は少しだけ耳を傾けて、

それから静かに立ち上がった。


音楽室。

今日も計測日だった。


涼子は操作席に座り、

全体映像、木管ライン、クラリネットのパートを個別モニタで確認していた。


演奏は、全体として安定している。

テンポもリズムも、ここ数日で大きく持ち直していた。


だが——


(やっぱり、美鈴ちゃんのパートだけ……まだ揺れてる)


音は出ている。

でも、その奥にあるべき"芯"が、どこか足りない。


AIの判定も、それを無言で示すように、

クラリネットの数値はまだ70台に届かない。


それでも。

スコアは、前回より少しだけ上がっていた。


部活終了後、部員たちがぞろぞろと退出していく。


クラリネットを拭きながら、ひとり残っていた美鈴のところへ、

涼子が歩み寄った。


「……美鈴ちゃん」


美鈴は、顔を上げると、少しはにかんだように言った。


「……前は、ごめん。

 あのとき、わたし……すごく、追い詰められてて」


涼子は軽く首を振る。


「ううん、わたしこそ。言いすぎた。

 それに、ちゃんとスコア……上がってたよ」


「……うん」


「彼氏効果かな?」


「っ……!」


美鈴がわずかに肩を跳ねさせ

それを聞いた部員たちは少しざわついた。


「──え、なにそれ?」「そういえば最近、二人で公園とかで誰かとよく食べてたし」

「夏祭りの時なんか西村さん、浴衣デートしてたっぽいし」


部員たちの噂を聴きながら涼子は続けた…


「だってさ。最近、専科の東條くんとよく一緒にいるでしょ?」


「……ち、違う! たまたま同じ時間に——」


「ふうん。でも、お祭りの時「楽しそう」だったよ」


涼子の口元には、どこまでが本音か分からない笑みが浮かんでいた。


「でも、そっちが楽しそうなら、まあ……よかったって思ってるよ」


----------

「はい、クロ確オメ」

「レオ様と西村さんなら、お似合いだと思うし」

「いっそうのこと、付き合っちゃいなよ」


部員たちの祝福の言葉を言われながら去り、涼子と二人になった。


美鈴は何も言い返せず、クラリネットの拭き取りに視線を落としたまま。


「……でも、わたし……音、まだ出せてないよ」


美鈴は、譜面の隅を見つめたまま、小さく呟いた。

言い訳ではなかった。

自分に向けた、痛みの告白だった。


その言葉を聞いて、涼子はふっと笑う。


「"蓮くんに聴かせるため"とか、言いそうだったからさ。

 ……もう、その役目、終わりにしていいよ」


「……え?」


涼子は、かすかに目を細めた。


「もう"蓮に何かを届ける役"は、わたしが引き継ぐから」


「……どういう、意味?」


「だって、わたし——蓮の"彼女"だから」


音楽室の空気が、止まった。


涼子の顔は、普段のクールな表情とは少しだけ違っていた。

照れていた。

でも、誇らしげだった。

そして——決意が、滲んでいた。


美鈴は、絶句した。


「……ど、うして……」


「どうしてって……ちゃんと"選びに行った"から、かな。

 そうそう。拓真とは、噂通りとっくに別れたよ。

 "このタイミング"がよかったから」


そこまで言ったとき、ガチャリと扉の開く音がした。


クラリネットパートの1年生部員が入ってきて、

目の前の光景に、バッグを取り落とした。


「あっ……す、すみません、何も聞いてません!」


そのまま、そそくさと棚からハンカチを取って逃げるように退出していく。


美鈴はその間も、何も言えなかった。

握った手が、かすかに震えていた。


涼子は、そんな美鈴の様子を一瞥し、

鞄を持ち、軽やかに音楽室を出ていった。


まるで、"役割を終えた譜面を閉じるように"。


──数時間後。

SNSのタイムラインに、新しい投稿が流れた。


《佐藤涼子、藤井拓真と破局→まさかの野中蓮"彼女宣言"!?》

《吹奏楽部で宣言→関係者絶句》

《西村美鈴、立ち尽くす現場の目撃談も》


翌朝には、"校内一面トップの話題"になっていた。


涼子はキーボードを打ちながら、SNSの通知を横目に見てつぶやいた。


「……誤算だけど、まぁいっか」


その顔は、照れと確信の入り混じった——

どこか、満更でもない表情だった。


────────────────────


自室のベッドに倒れ込んで、

美鈴はしばらく天井を見ていた。


クラリネットケースが、部屋の隅に置いてある。

いつもと同じ場所に。


でも、今夜だけは——

そこから目を逸らしたかった。


("蓮に何かを届ける役"は、わたしが引き継ぐから)


涼子の声が、耳の奥で繰り返された。


(だって、わたし——蓮の"彼女"だから)


美鈴は、枕に顔を押しつけた。


悔しい、という感情じゃなかった。


もっと、根元に近いところが——

ぽっかりと、空いていた。


(わたし、ずっと)


(蓮くんに、聴いてもらいたくて、吹いてたのに)


音楽室で吹いても、部活で吹いても、

どこかに「届け先」があった。


意識していなかった。

でも、確かにあった。


蓮が「聴く」と言ってくれた日から、

ずっと、その人に向けて吹いていた。


(それが、なくなった)


なくなったんじゃない。

「奪われた」という感覚の方が、近かった。


涼子は悪くない。

涼子が選んだことで、涼子が動いたことで——

美鈴には、何も責める権利がない。


でも。


(わたしの音の、届け先が)


(どこにも、なくなった)


美鈴は膝を抱えて、小さくなった。


クラリネットケースの、黒い表面が見えた。


(吹けない)


一生、絶対に吹けない気がした。


──


しばらくして、スマホが光った。


玲央からのメッセージアプリだった。


《今日の佐藤の件、大丈夫か》


たった一行。


美鈴はそれを見て、少しだけ笑った。

笑えた自分に、少し驚いた。


(……玲央くん)


返信しようとして、指が止まった。


(そうだ)


(玲央くんなら)


その考えが、どこから来たのか分からなかった。

でも、一度浮かんだら、消えなかった。


蓮への気持ちの置き場が、なくなった。

音楽の届け先も、奪われた気がした。


だったら——


(玲央くんに、向けたら)


(少しだけ、楽になれるかな)


それが逃げ場だと、

どこかでは分かっていた。


でも今夜の美鈴には、

それを止める力が、残っていなかった。


スマホを伏せて、目を閉じた。


明日、言おう。


そう決めたら、

少しだけ——呼吸が楽になった気がした。


────────────────────


──翌朝


キッチンから、味噌汁の匂いがしていた。


美鈴が階段を降りると、

母がエプロン姿で鍋をかき混ぜていた。


「おはよう。……なんか、顔色悪かよ?」


母の博多弁が、朝の台所に柔らかく響く。


「……おはようございます。大丈夫でs」


「大丈夫って顔じゃなかけど」


美鈴は椅子を引いて、テーブルに座った。


ご飯と味噌汁と、卵焼き。

いつも通りの朝ごはん。


でも、今朝は——お弁当箱が、テーブルの端にない。


(ああ、作らなかった)


毎朝、誰かのために作っていたお弁当。

今日は、作る気が起きなかった。


「……お弁当、今日はいらんと?」


母が、背中を向けたまま聞いた。


「……うん。今日は、いい」


「そっか」


それだけだった。

母は何も追いかけてこなかった。


美鈴は、味噌汁を一口飲んだ。


温かかった。


「……お母さん」


「ん?」


「好きな人がいたとして、さ」


母の手が、少しだけ止まった。


「その人の、"届け先"みたいなのが——なくなったら、どけんする?」


しばらく沈黙が流れた。


母が振り返って、美鈴の顔を見た。


「……難しかこと聞くね」


「うん」


母は、エプロンで手を拭きながら、向かいの椅子に腰を下ろした。


「届け先がなくなったんじゃなくて、

 見えんくなっただけじゃないとかな」


「……見えなくなっただけ?」


「音楽でも、気持ちでも——

 本当に届けたいなら、"届け先がどこにいるか"より先に、

 "ちゃんと届く音"になってるか、の方が大事やろ」


美鈴は、箸を止めた。


「……届く音」


「届け先が見えなくなっても、

 音が本物なら——ちゃんと届くけんね。

 どこにいても」


母は、それだけ言って、立ち上がった。


「ご飯、ちゃんと食べてきんしゃい」


美鈴は、しばらく味噌汁を見つめていた。


(届く音)


(わたしの音、今、届く音になってるのかな)


答えは、出なかった。


でも——何かが、少しだけ胸に残った。


────────────────────


夏の終わりの空は、どこまでも青かった。


美鈴はクラリネットケースを肩にかけて、

いつもより少しだけ早く家を出た。


(今日、言おう)


昨夜決めたことを、

朝になっても——変えなかった。


玲央くんに告白する。


本気かどうかは、自分でも分からなかった。

でも、どこかに「向かう先」が欲しかった。


音楽の届け先を失って、

蓮くんへの気持ちの置き場もなくなって——


このまま何もしなかったら、

全部、どこにも向かわないまま消えてしまう気がした。


(だから、玲央くんに)


(玲央くんなら、受け取ってくれる気がして)


でも——


(本当に、そうかな)


母の言葉が、ふと蘇った。


「届け先が見えなくなっても、

 音が本物なら——ちゃんと届くけんね」


美鈴は、歩きながら空を見上げた。


(わたしの気持ちは、本物かな)


(玲央くんへの気持ちは——本物?)


答えは、出なかった。


でも、足は止まらなかった。


校門をくぐったとき、

玲央の姿が見えた。


目が合った。


玲央が、少し首を傾けた。

「どうした」という顔だった。


美鈴は、深呼吸した。


(言おう)


(たとえ逃げ場でも——今は、これしかない)


「……ねえ、玲央くん。

 今日の昼、屋上来れる?」


玲央は少しだけ間を置いて、

静かに頷いた。


「……ああ」


その目は、何かを——分かっているような目だった。


でも美鈴は、それに気づかないふりをした。


夏の終わりの風が、

ふたりの間を、静かに通り過ぎた。


────────────────────


美鈴は屋上の片隅にいた。

向かいには、涼しい顔をした玲央。


ふたりは無言で弁当を広げていた。


「……食べないの?」


玲央が気だるげに聞くと、

美鈴は少し間をおいて、ぽつりと言った。


「……ねぇ、玲央くん。

 わたしと……付き合ってみる?」


玲央は、一瞬だけ手を止めた。


涼子の宣言を聞いたときから、

美鈴がこう動くだろうとは——分かっていた。


でも、だからこそ。


「……それ、今言う?」


「……うん。今じゃないと、たぶん言えないから」


「ふうん」


玲央は、美鈴の目を見た。

その目は、どこか虚で曖昧。なんとも言えない目だった。


「じゃあ俺からもひとつ言わせてもらうけど——」


玲央は、美鈴の目を見たまま、言い放った。


「ヤケクソで言うなよ、そんなセリフ」


美鈴の表情が凍る。


「……わたし、本気で……!」


「それは嘘だよ。

 "涼子に負けたくない"だけの目してる。

 それじゃ、俺じゃなくてもいいって言ってるようなもんじゃん」


玲央は笑っていた。

けれど、その瞳は鋭かった。


「俺、そういう"逃げ道"の扱い、うまくないんだ」


一呼吸置いて、玲央は続けた。


「お前が本気でそう思ったとき——

 その目で、もう一回言え。

 ……そのときは、ちゃんと答える」


それは、拒絶ではなかった。

でも、"今じゃない"という、はっきりした意思だった。


風が吹いた。

美鈴は何も言えず、箸を置いたまま黙っていた。


(なんで)


(なんで、玲央くんは、わたしの目を見てそんな顔ができるの)


玲央もそれ以上は言わず、静かに缶コーヒーを開けた。


ふたりの間に、夏の終わりの風だけが流れた。


──放課後。


サッカー部のグラウンド脇。

練習後のボールを片付けながら、藤井拓真が空を見上げていた。


「……動いたな」


カラカラと転がるボールをネットに放り込み、

静かに息をついた。


「頼んだよ、涼子。

 "お前が選んだ戦場"なら——

 俺は、背中だけは支える」


彼の手の中にあるのは、

かつてふたりで拾った、土埃が被ったボール。


それをそっと置いて、拓真はゆっくり部室へと歩いていった。


夕陽が、彼の背中を長く引き伸ばしていた。

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