第5話「※音と、気持ちの行き先(後編)」
夏休みの学校は、静かだった。
廊下を歩く生徒はまばらで、
教室からは部活の声が遠く聞こえてくる。
吹奏楽部の練習は、午前が基礎練、午後が合奏。
美鈴は今日も、誰よりも早く音楽室に来て、誰よりも遅く残っていた。
ただ——音は、まだ戻りきっていなかった。
技術的には問題ない。
音は出る。リズムも崩れない。
でも、何かが足りなかった。
(野中くんに、聴かせたい)
そう思った瞬間に、指が止まる。
どこに向けて吹けばいいか分からなくなる。
クラリネットを膝に置いたまま、
美鈴は窓の外を見た。
夏の空は、どこまでも青かった。
──
音楽室の廊下を通り過ぎようとした人影が、
ドアの前で少しだけ立ち止まった。
東條玲央だった。
専科生の補習は午前中で終わる。
図書室で自習したのち、帰るつもりで廊下を
歩いていたはずだった。
(……また、音が止まってる)
昨日も、一昨日も。
練習の終わり際、必ず一度だけ音が消える時間があった。
玲央はドアをノックした。
「……入っていい?」
美鈴が顔を上げる。
少しだけ驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
玲央は椅子を一つ引いて、
美鈴から少し離れた場所に腰を下ろした。
「補習、終わったの?」
「午前で終わり。
去年の遅れをちょっと取り戻すだけだから、そんなに難しくない」
「そっか」
「……君は?」
「もう少し。明日には合奏がある」
しばらく、静かな時間が流れた。
玲央は問題集を開いたまま、ペンを走らせている。
美鈴はクラリネットを手に持ったまま、唇をマウスピースに当てていた。
音は、出なかった。
「……出ない?」
玲央がペンを止めずに聞く。
「出るよ。ただ……」
「ただ?」
美鈴は少し考えてから、ぽつりと言った。
「どこに向けて吹けばいいか、分からなくなることがある」
玲央は、それに何も言わなかった。
ペンの音だけが、静かに続く。
しばらくして、玲央が口を開いた。
「……俺に吹いてみれば」
「え?」
「"向ける場所"がないなら、とりあえず俺でいい。
音楽のことは分からないけど、聴くくらいはできる」
美鈴は、少しだけ目を丸くした。
「……玲央くんって、たまに変なこと言うよね」
「変か?」
「変だよ。でも……」
でも、なぜか嫌じゃなかった。
美鈴はもう一度、マウスピースに唇を当てた。
今度は、音が出た。
細かったけれど、確かな音だった。
玲央は目を閉じて、ただ聴いていた。
曲でも、練習でもない。
ただの、音。
でも——その音には、少しだけ、「向かう先」があった。
それから、補習が終わった玲央が音楽室に顔を出すのが、
なんとなくの習慣になった。
玲央が問題集を広げる。
美鈴が練習を続ける。
特に会話はない。
でも、ふたりとも、それを「居心地が悪い」とは思っていなかった。
──
ある日の昼過ぎ。
「なぁ、屋上行かない?」
玲央が突然言った。
「屋上?」
「飯。一人で食うの飽きた」
「……専科の子たちと食べれば?」
「あいつらは話がつまらすぎて。滅入ってしまうよ」
美鈴は少し笑った。
「わたし、お弁当持ってきてるけど」
「それでいい。俺は購買で買う」
──
屋上は、思ったより風が通っていた。
フェンスの向こうに、夏の街が広がっている。
遠くで、サッカー部のかけ声が聞こえる。
ふたりはフェンス際のベンチに並んで座った。
玲央は購買のパンを二つ。
美鈴は、母が作ったのお弁当箱。
「……彩り、きれいだな」
玲央がお弁当を一瞥して言う。
「母が作ってくれたの。毎朝、早起きして」
「君は作らないの?」
「……作ってたよ。蓮くんに」
その言葉が、自然に出てきた。
玲央は、それを聞いて少しだけ黙った。
それから、パンを一口かじる。
「……うまそうだったのに、食べてもらえなかったんだな」
「うん」
「悔しい?」
「悔しいっていうか……」
美鈴は箸を止めて、空を見上げた。
「"おいしかった"って、言ってもらえなかったことが、
ずっと胸に残ってて」
「……そっか」
「変かな」
「変じゃない」
玲央は静かに言った。
「むしろ、それだけ本気だったってことだろ」
美鈴は何も言わなかった。
風が吹いて、お弁当箱の蓋が少しだけ揺れた。
「……玲央くんは、蓮くんのこと、どう思ってるの?
今は」
少し間があってから、玲央は答えた。
「……借りがある、と思ってる」
「借り?」
「あいつが俺を庇ったのは、俺のせいだ。
だから、返さなきゃいけない。
でも、どう返せばいいのか、まだ分からない」
「……返す、って?」
「あいつが戻ってきたとき、
"ちゃんとここにいた"って、言えるようにしておくことかな。
今は、そのくらいしか思いつかない」
美鈴は、それを聞いて少しだけ目を伏せた。
(蓮くんが戻ってくる場所を、守ろうとしてる)
玲央の言葉は、いつも不器用だった。
でも、その不器用さの中に、何か真剣なものがあった。
「……玲央くんって、やっぱり変だよね」
「だから変じゃないって」
「でも、嫌いじゃない」
玲央は少しだけ笑った。
自分に向けた笑い方じゃなく、今度は、ほんの少し外に向いた笑い方だった。
ふたりはそのまま、昼休みが終わるまで
夏の空の下に並んでいた。
夏休みの終わり頃。
補習も残り数日になった頃、
玲央は廊下で涼子とすれ違った。
パソコン部室から出た涼子は吹奏楽部の計測準備のために
音楽室へ向かっていた。
「……お疲れ」
玲央が短く言う。
涼子はそれに一瞬だけ立ち止まり、
視線を玲央に向けた。
「おつかれ……最近美鈴と、よく一緒にいるのね」
「まあ」
「どういうつもり?」
言葉は鋭かったが、声は静かだった。
玲央は少しだけ考えてから、まっすぐに答えた。
「隣にいるだけだよ。
それ以上のことは、まだしてない」
「そう…"まだ"なんだ」
涼子はそれを聞いて、少し目を細めた。
「……美鈴はね、今、自分がどこに向かってるか
分かってないと思う。
音も、気持ちも、全部迷子になってる」
「知ってる」
「それを、利用しないでよ」
玲央の眉が、少しだけ動いた。
「……利用するつもりはない」
「本当に?」
「本当に」
涼子はしばらく、玲央の目を見ていた。
嘘を言っている顔ではなかった。
でも、すべてを話している顔でもなかった。
「……信じるよ。今は」
そう言って、涼子は再び歩き出した。
背中を向けながら、小さく付け加える。
「でも、蓮が戻ってきたとき——
ちゃんと、答えを出してね。あんたも、美鈴も」
玲央はその背中を見送って、
廊下の窓から外を見た。
グラウンドでは、野球部が走っていた。
(答えか……)
まだ、分からなかった。
でも——考えていないわけでもなかった。
補習最終日。
午前の補習が終わった玲央が廊下に出ると、
ちょうど昼休みに入ったところだった。
スマホを見る。
特に予定はない。
音楽室の方向を見てから、
反対方向の階段を降りた。
──
購買前で、美鈴とすれ違った。
「あ、終わったの?」
「終わった。今日で最後」
「そっか……お疲れ様」
「……吹奏楽部の練習のあと、ちょっと付き合えないか?」
美鈴が首を傾ける。
「お疲れ様会ってやつ。
一人でやるのも寂しいから」
「誰かほかに友達いないの?」
「いるけど、今は君がいい」
美鈴は少しだけ目を丸くして、
それから苦笑した。
「……変なの」
「変じゃない」
「変だよ。でも、いいよ。
終わったら、連絡するね。」
──
ふたりは学校の近くの甘味処に入った。
玲央は抹茶がかかったかき氷。
美鈴はあたたかい抹茶と冷やしぜんざい。
「補習って、大変だった?」
「そんなでもない。
ただ、毎日同じ教室に座ってると、
外の音楽室の音が聞こえてきて」
「……聞こえてたの?」
「うん。だから、気になって顔出してた」
美鈴は抹茶を一口飲んで、窓の外を見た。
「気になる、か」
「何か変か?」
「変じゃない。
でも……あのとき、玲央くんが来てくれて、
なんか、少し楽になったから」
「それはよかった」
玲央はかき氷を一口食べて、
涼しい顔をした。
「……蓮くんに怒られそう」
美鈴がぽつりと言う。
「何が?」
「わたしが、こんなに楽しそうにしてること」
玲央はそれを聞いて、少しだけ考えた。
「……怒らないと思う」
「なんで?」
「あいつは、誰かが笑ってることに怒れるタイプじゃない。
むしろ、君が笑ってたら、喜ぶだろ」
美鈴は何も言わなかった。
でも、箸でわらびもちをつつきながら、
少しだけ口元が緩んでいた。
窓から差し込む夏の光が、
ふたりのテーブルを柔らかく照らしていた。
──
同じ時間。
学校の近くの道を、涼子と拓真が歩いていた。
パソコン部の活動を終えた涼子と、
自主練を終えた拓真が、たまたま同じ方向だった。
「……今日、計測の結果どうだった?」
「少しずつ戻ってきてる。
でも、まだ何かが足りない」
「美鈴のこと?」
「うん」
甘味処の前を通り過ぎようとしたとき、
涼子の足が、ぴたりと止まった。
窓の向こう。
ふたりの高校生が、並んで座っている。
片方は、かき氷。
片方は、ぜんざい。
特別なことは、何もない。
ただ——笑っていた。
美鈴が、笑っていた。
「……涼子?」
拓真が立ち止まる。
涼子は窓から目を離して、また歩き出した。
「なんでもない。拓真、フラペ奢るよ」
「急にどうした。怖っ」
その声は、いつも通りだった。
でも、ポケットの中で、
指先だけが、少しだけ固く握られていた。
(……行かなきゃ)
心の中で、あの封筒の感触が蘇った。
《防衛省 自衛隊中央病院》
涼子は前を向いたまま、歩き続けた。




