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第4話「※あなたがいない間に、私たちは」

終業式の放課後。

チャイムが鳴っても、西村美鈴の姿は吹奏楽部の部室にはなかった。


楽譜を配る部員たちが、口々に言う。


「今日もまたですか、西村先輩……?」


「クラリネット、登校の持ってきてたのはみたけど」


「でも、もう一週間以上……まともに音、出してないよね」


その空気を聞きながら、部室でもある音楽室の隅に

佐藤涼子は制服の裾を握っていた。


知っていた。

練習中、何度も姿を見失っていたこと。

美鈴が、音を出すたびに、何かを失っているような目をしていたこと。


「探してくる」


涼子が言うと、同じクラパートの子が小さく頷いた。


(……たぶん、あそこだと思う。第二音楽室。

 あの子、静かなピアノ、たまに弾いてることも知ってるから)


──


校舎の隅にある、使われていない第二音楽室。

吹奏楽部用の広い空間ではなく、

アップライトピアノと数脚の譜面台が並ぶだけの、ひっそりした部屋。


扉をそっと開けると――


「……っ、ぅ……うう……」


声が、聞こえた。


小さな、けれど確かにこらえきれない嗚咽。


夕陽が差し込む窓際に、

クラリネットを抱えて座る美鈴の姿があった。


ハンカチで何度も目元を拭いているが、

涙は止まらない。


「美鈴ちゃん……」


涼子がそっと名を呼ぶと、

美鈴は驚いたように顔を上げた。


「……ご、ごめん。

 誰にも言っちゃだめって言われてるから……野中くんのこと……」


「蓮が?どしたの?」


「もう、いないの。……あの病院に」


涼子の表情が一変する。


「転院したの?」


「うん。でも、行き先も分からなくて……

 先生も、看護師さんも、教えてくれなかった」


美鈴の手には、

少し型崩れしたお弁当包みが握られていた。


「まだ、"おいしかった"って言ってもらってないのに……

 なのに、置いてきた場所に、もう、いなかったの……!」


涼子は、隣に腰を下ろし、

何も言わずに肩を貸した。


その肩に、美鈴が顔を預ける。


「……音も、出ないの。

 出そうとしても、胸が詰まって、苦しくて……

 クラリネットまで、野中くんの声みたいに聞こえちゃって……」


涼子は、何も責めなかった。


ただ、寄り添って、

しばらくそのまま、静かに夕焼けに溶けていた。


美鈴が声を押し殺して泣く間、

涼子は一言も発しなかった。


ただ静かに背中をさすり、涙が落ち着くのを待った。


やがて、美鈴の呼吸が少しずつ整ってきたころ。


「……美鈴ちゃん」


「……ん」


「わたしね、正直……今すぐ走ってでも探しに行きたいよ。

 でもね、それじゃだめだって、分かってる。

 蓮に、笑って"またね"って言える自分でいたいから」


美鈴がゆっくり顔を上げる。

涼子の目は、少し赤く濡れていた。けれど、まっすぐだった。


「吹奏楽部の顧問には、わたしから話つけておくよ。

 "西村美鈴は、今は音を溜めて休んでもらってます"って」


「……涼子ちゃん……」


「ちゃんと、戻ってきて。

 そのときはまた一緒に吹こう。

 美鈴のクラ、あたし、横で聴いていたいから」


涼子の笑顔は、泣きたいのを無理やり隠した、

それでも、あたたかな"仲間"の顔だった。


美鈴は、深く深く頷いて、

第二音楽室をあとにした。


──


帰り道。

駅へ向かう角を曲がったところで、

公園のベンチで見慣れた影を見た。


「あ……」


「……西村」


制服の襟元をやや乱したまま、

街灯の下に佇んでいたのは東條玲央だった。


その目は、どこか探るような、けれど柔らかな光を帯びていた。


「……こんな時間に、公園?」


「こっちに寄り道してから帰るのが、最近のルートでさ。

 ……ちょっとだけ、付き合ってくれない?」


玲央が指差したのは、近くの小さなベンチ。


誰もいないその場所で、

ふたりは並んで座った。


ひぐらしの声はもうなく、夜風が葉を鳴らしている。


「蓮くんってさ……変わったよね」


美鈴がぽつりと呟く。


「昔から優しかったけど、

 この前は、本当に……すごく、まっすぐだった」


玲央は少しだけ目を細めて、前を向いた。


「……そうだな。

 俺より、ずっと前に進んでる。

 "自分が倒れるより先に、誰かを助ける"やつだ。

 それが野中 蓮だって、俺は分かってたつもりだったのに……」


美鈴がゆっくり、膝の上で指を組む。


「野中くんに、悲しい顔なんて見せたくなかった。

 でも、無理だった……わたし、全然、強くなかったよ」


その言葉に、玲央はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。


「……君の、そういう姿をさ」


「……?」


「俺は、野中には見せたくないんだ。

 あいつが守りたいものを、壊すわけにはいかない。

 ……だから、なんかあったら、頼ってくれ」


「東條くん……」


「別に、気を使ってるわけじゃないよ。

 あいつのためっていうのは表向きでさ――

 ……ほんとは、俺が見たくないだけなんだ。

 "悲しんでいる君"を」


美鈴は何も言わなかった。

風が吹いて、落ち葉が一枚、ベンチの足元を滑っていった。


そのままふたりは、しばらく無言で夜の風に身を預けていた。



夏休み期間中。

吹奏楽部・音楽室。


練習のチューニングが、順調に進んでいた。

金管の伸び、木管の和音、打楽器のシンクロ。

コンクールまであと1ヶ月を切った。


そして、数日ぶりにその扉を開いた少女がいた。


「……失礼します」


美鈴だった。


部室内の空気が、一瞬だけ揺れた。

けれど、誰も咎めなかった。


代わりに、部長が譜面を手に振り返る。


「西村さん、来てくれたんですね。

 今日のセッション、一緒にやってみましょうか」


「はい。……お願いします」


軽く頭を下げて、美鈴は自分の席に座る。

クラリネットのケースを開き、ゆっくりと組み立てながら息を整える。


──今日は、大丈夫。

昨日より、ほんの少しだけ呼吸が整ってる。

そう信じたかった。


曲が始まる。

部長のスティックが振り下ろされ、セクションが動く。

木管も、打楽器も、息を合わせる。


だが――


部長の眉がわずかに動く。


クラリネットセクションが、妙にズレていた。

しかも、美鈴のパートが。


ソロじゃない。重要な伴奏だ。

でも、だからこそズレが目立つ。


2回目。

3回目。


「ちょっと一旦止めようか!」


スティックの動きとともに音が止まり、空気が張り詰めた。


顧問の篠原先生が譜面をパタンと閉じる。


「西村さん、今日はどうしたの?

 体調……あまりよくない?」


「いえ、大丈夫です。……少し、久しぶりなので……」


部長が、困ったように篠原先生と目を合わせた。


「ブランクのせいだとは思うんですが……

 コンクールまで、もう時間が……」


隅のコンソール席で、涼子がスコアを見たまま微かに眉をひそめた。

数値は、出ていた。でも、それを今ここで言うべきではないと判断した。


篠原先生が、静かに立ち上がる。


「……西村さん、少し外で話しましょうか。

 それと部長、悪いけど他のパートを先に進めておいて」


部員たちがざわつく前に、

篠原先生が美鈴を廊下へ促した。


廊下。人気のない窓際。


「……正直に言うね。

 このままのペースだと、当日のソロが心配なの。

 他の子に振り分けることも、選択肢として考えてほしい」


美鈴の唇が、かすかに動いた。


「……交代、ということですか」


「強制じゃない。でも、部全体のことを考えると……ね」


一瞬だけ、廊下に沈黙が流れた。


「……やらせてください」


美鈴の声は、震えていなかった。


「頑張りますから。……やらせてください」


篠原先生は、しばらく美鈴の目を見ていた。

そして、小さく頷いた。


「……分かった。でも、次の計測日までに結果を出して」


「はい」


それは懇願というより、意地だった。


涙ではない。

感情ではない。

ただ、"ここに立たせて"という、美鈴の最後の一線だった。



別の日。


「じゃあ今日の通し、始めます」


部長の声が音楽室に響いたとき、

隅のコンソール席では佐藤涼子がヘッドホンを装着していた。


彼女の目の前には、3つのモニターが映っている。

1台は全体映像、もう1台は各パートの拡大映像、

最後の1台は、部員たちにつけているピンマイク信号とスコアデータ。


──今日は、「計測日」だった。


月に2回、パソコン部の涼子が吹奏楽部に持ち込む演奏支援AIが、

演奏の安定性・正確さ・感情曲線を評価する日。


いつもより空気が、少しだけ硬くなる。


課題曲の演奏が始まった。


冒頭のホルンが柔らかく旋律を繋ぎ、

中盤、クラリネットセクションが入ってくる。


(……美鈴ちゃん)


涼子の視線が、無意識にそこに留まる。


外から見れば、何の問題もなかった。


音は出ている。リズムもずれていない。

音程の強弱も、譜面通り。


でも――システムは、そう判断しなかった。


モニターに、緑・黄色・赤の点が走る。

他パートが平均80〜90点を推移する中、

クラリネットパートだけ、65点前後を上下していた。


(やっぱり……揺れてる)


呼吸の迷い、音の立ち上がりの不安定さ。

"感情が芯まで届いていない"音。


AIは冷静に、それを「不安定」として評価した。


「クラ、もう一回だけ個別でやってみよっか」


通し演奏を終え、部長が立ち上がろうとした、その瞬間。


「……ストップ」


涼子がモニターから顔を上げた。


「ごめんなさい、今日は通し優先だったはずです。

 サンプルがぶれるから、セッションごとのグループ練習に

 切り替えてほしいのですが…」


部長は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに理解した。


「……そっか。そうだったな。

 じゃあもう一回通し終えたら、各セッションを分けて練習にしよう」


誰も"クラリネットの名"は出さなかった。


でも、その場にいたほとんどが、

"誰かを守るための変更"だと、なんとなく分かっていた。


美鈴は、誰にも顔を見せないように、譜面の裏に視線を落としていた。


自分の音が、

"ちゃんと出ているのに、どこか違う"ということを、

いちばん知っていたのは、美鈴自身だった。


──


部活終了のチャイムが鳴り、音楽室の片付けが始まる。


片付けが終わった瞬間、美鈴は真っ先にケースを閉じた。


いつも通りの動作で。

いつも通りの速さで。

いつも通りのやりとりで。

笑顔の準備だけは、ちゃんとできていた。


(大丈夫。ちゃんとやれてる。見せたいものだけ、見せればいい)


2回目の通し演奏を終え、セッション別練習前の小休憩に

モニターでクラリネットパートの数値が視界に一瞬映った。


62点。


笑顔が、一瞬だけ固まった。

「パート平均」ということもあり、自分が足を引っ張ったと

感じていた。


けど早く出てしまえば、何も言われない。

ケースを抱えて、出口へ向かう。


「……ねえ、美鈴ちゃん」


出口まであと数歩のところで、涼子の声が背中に届いた。


美鈴は立ち止まった。


「ん?どうしたの?」


振り返る前に、笑顔を作った。

いつも通りの、西村美鈴の笑顔。


「心配しなくても……もう、感覚戻ってきてるから

 大丈夫だよ。」


涼子はその笑顔を、ほんのわずかだけ見た。


「……ううん」


それだけで、全部分かってしまうのが、

涼子という人間だった。


「今日のあの音——どうしても、"美鈴ちゃんじゃない"って思えて」


笑顔が、少しだけ揺れた。


「それって、どういう…いみで?」


「AIのスコアもそうだったけど——それ以上に」


涼子は、一拍だけ置いた。

言うべきか、迷った。でも、言わなければならないと思った。


「"音の中に、美鈴ちゃんがいなかった"の」


その瞬間、笑顔が——崩れた。


「何もわかってないくせに――分かったみたいなこと、言わないでよ!」


振り返った美鈴の顔は、もういつも通りではなかった。


「"美鈴ちゃんじゃない"って、なにそれ。

 わたしはちゃんと吹いてる。ちゃんと出してる。」

「…」

 「ねえ、見てた? 全部ちゃんとやってたよね?

 なのに——なんで、イヤホンで塞いで数値でしか見てない涼子(あなた)

 そんなふうに言われなければいけないワケ!」


涼子は、その言葉を全部受け止めた。


目を逸らさなかった。

反論もしなかった。


ただ、少しだけ——痛そうな顔をした。


「……ええ。そうよ。わたしが見てるのは「ただの数値」よ」


「じゃあ——」


「でも」


涼子の声が、一段低くなった。


「"蓮に聴かせるなら、この音じゃない"って、

 そう思ったの」


美鈴の息が、止まった。


笑顔を作る余裕も、怒鳴り返す力も、

全部、どこかに消えた。


(分かってる)

(分かってるよ、そんなこと)

(だから、無理してでも笑ってたんじゃない)


ケースをぎゅっと抱きしめた。

まるで、そこに逃げ場があるみたいに。


「……ほっといてよ」


声は、思ったより小さく出た。


そのまま、ドアを押して出ていった。

廊下の空気が、音楽室より少しだけ冷たかった。


──


足音が、遠ざかる。


涼子はそれを追いかけようとはせず、

彼女の機材を片付けた。


(ごめん、美鈴ちゃん。

 でも——あなたが笑顔で誤魔化す前に、言わなきゃいけなかった)


涼子の指先が、すでにケースに収めていたノートPCの縁をなぞる。


(蓮に届けたいなら——本物の音じゃないと、届かないから)



夕暮れが、街の角を赤く染めていた。


下校時間を過ぎて、人通りもまばらになった駅前の坂道。

制服のスカートを揺らしながら、美鈴は歩いていた。


どこか、足元が重い。


感情をぶつけてしまったことへの後悔。

自分でも気づいている、"音が出ていない"現実。

そして、なにより――"蓮のいない世界"の寒さ。


「……はあ」


小さなため息とともに、風に髪が流された。


「おつかれ」


不意に、斜め前から声がかかった。

顔を上げると、東條玲央が立っていた。


「……え?」


「涼子とケンカしたらしいじゃん。

 部活の子から聞いた。ま、珍しいよね。君が声を荒げるなんて」


「……誰にも言わないでよ」


「言わないよ。

 でも、隠しごとはたい焼きと交換が原則って、うちの地元では決まってるからさ」


玲央が、あんことカスタードのたい焼きの紙袋を差し出す。

もう一方の手には、つめたいペットボトルのお茶。


「……なんで、そんな用意周到なの?」


「前に見たんだよ、君がたい焼きの屋台で悩んでいたとこ。

 あんこかカスタードか、三分くらい迷ってたよね」


「……見てたの?」


「たまたまな」


美鈴は紙袋を受け取って、ベンチに腰を下ろした。

玲央も隣に、少し間を空けて座る。


しばらく、ふたりは黙っていた。


たい焼きを一口かじると、

あんこの甘さが、思ったより胸に沁みた。


「……ねえ、玲央くん」


「ん」


「なんで、来てくれたの?」


玲央は少し間を置いてから、前を向いたまま言った。


「……なんとなく、だよ。

 放課後、部活棟の前を通ったら、君の声が聞こえた。

 いつもと違う声だったから」


「……気づいてたんだ」


「そりゃ、まあ。

 君、普段そんな声出さないじゃん。

 "いつも通り"を一生懸命やってるタイプだから」


美鈴は、たい焼きを見つめたまま、小さく笑った。

でも、涙も少しこぼれた。


「……ほんとはね。

 なんで吹けないのか、わかってる」


玲央は黙って聞いていた。


「野中くんに、聴かせたいと思って吹いてた。

 なのに、いなくなっちゃったから——

 どこに向けて吹けばいいか、分からなくなったの」


「……うん」


「涼子ちゃんの言ったこと、正しいのは分かってる。

 "蓮に聴かせるなら、この音じゃない"って……

 自分でも、そう思ってるから。

 だから余計に、悔しくて、認めたくなかった」


玲央はそれに何も言わなかった。

代わりに、カスタードのたい焼きを一口かじる。


しばらく、夕暮れの風だけが流れた。


「……俺さ」


玲央が、ぽつりと口を開いた。


「野中のこと、嫌いだったよ。ずっと」


美鈴が、横目でそっと見る。


「昔の話だけど。

 あいつがいると、なんか、俺が小さくなる気がして。

 俺の方が何でも持ってるはずなのに、

 なんであいつの方が"まっすぐ立ってる"んだろうって」


「……玲央くん」


「でも、あの日さ——あいつが俺を庇ったとき、

 俺、初めて思ったんだよ。

 こいつのこと、嫌いじゃなかったんだって」


玲央が笑う。

自分に向けた、苦い笑い方だった。


「だから俺、今、隣にいたいんだよ。

 蓮のためっていうのは、半分本当で——

 でも、もう半分は……俺のためでもある」


「……俺のため?」


「君が泣いてる顔、見たくない。

 それって、俺の話だから」


美鈴は、しばらく黙って夕暮れを見ていた。


(蓮くんのこと、好きなんだ)


言葉にはしなかった。

でも、玲央のその笑い方が、

蓮くんとは全然違う温度を持っていることは、分かった。


「……ありがとう」


「礼はたい焼きでいいよ。

 次はクリームチーズ買ってきてくれ」


「なにそれ」


ふたりは、小さく笑った。


やがて立ち上がって、駅への坂道を並んで歩く。


特に約束したわけじゃない。

でも、その日から、ふたりでいる時間が、なんとなく増えていった。


──


数日後。

吹奏楽部のミーティングが終わった夕方。


資料整理をしていた涼子は、

クラリネットケースを抱えて廊下を歩く美鈴と玲央の姿を見かけた。


ふたりは何か話しながら笑っていた。


誰かが笑っていることは、悪いことじゃない。

それでも。


涼子はその場で立ち止まり、

静かにひとつ、呟いた。


「……それが答えなのね。美鈴」


手元に持っていた封筒には、

白地に紺のロゴ。


《防衛省 自衛隊中央病院》


その文字が、重く静かに主張していた。


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