※第3.5話「それでも、連れて行くと決めたから」
蓮が事故に遭ってから、2週間が経った
平日の午後。
病院の応接室は、どこまでも無機質だった。
観葉植物のひとつもない四角い空間に、革張りのソファとテーブル。
時計の針だけが、妙に大きな音を立てていた。
ソファの一方には、蓮の父と母が座っていた。
父はポロシャツ姿。
髪は少しボサついていた。
母は淡いブルーのブラウスに身を包み、静かに目を伏せていた。
正面の椅子に座るのは、白衣を着た四十代後半の男性医師。
この病院の集中治療担当医であり、
今朝の時点で"ある判断"を下した人物だった。
「……現状、蓮くんの意識は安定しておらず、
呼吸・循環は人工的に維持されている状態です」
「それは、今まで通りってことでしょうか」
母が問い返す。
「はい。ただ……」
医師は、わずかに口ごもった。
「当院のICUは、今月中旬から新規搬送の増加が見込まれており、
リソースの再調整が必要となりました。
現時点での"長期管理前提の患者"については、
高次病院もしくは専門機関への転院協議が進められています」
「つまり……"うちの子を、出したい"ということですか?」
父がやや声を低くして尋ねた。
医師は、それには答えずに、目線を合わせたまま静かに続ける。
「ご家族としては、突然のことかと存じます。
しかし、面会頻度や接触数の増加が、
一部の医療スタッフにとって"リスク"と認識されはじめています」
その言葉に、母がわずかに眉を寄せる。
「……美鈴ちゃんのこと、ですか?」
「いえ、特定の個人を名指しすることはありません」
「でも、間違いなく、そうですね?」
室内が沈黙する。
「彼女は、何も悪くないんです。
毎日祈るような気持ちで、蓮に会いに来てくれているだけ。
それを、リスクだなんて……」
母が声を震わせながらも、まっすぐに言い切る。
父はそれを聞きながら、何も言わなかった。
拳を、ぐっと握る。
「……それでも、どこかに移らなきゃいけないのだな」
医師は、ゆっくりと頷いた。
「ご理解いただき、感謝いたします。
本来であれば、受け入れ先の選定に時間がかかるのですが……」
そのときだった。
「受け入れ先、もう確保してあります」
柔らかくも、どこか場違いな声が部屋に届いた。
全員が、扉の方を振り向く。
そこには――山本 結衣が立っていた。
制服のまま。整った姿勢。
だけど、その目だけが、どこまでも真剣だった。
応接室の扉が自動的に閉まり、
結衣が、一礼して室内に歩を進める。
白衣の医師は、驚きを隠さぬまま立ち上がる。
「ど、どういったご用件で……? まだ面会時間は終了して――」
「突然押しかけてしまい、申し訳ございません。
野中 蓮くんの関係者として伺いました」
言葉一つひとつを区切るように、はっきりと。
けれど、その声は柔らかく、
病院という場の空気を乱さぬよう、計算されていた。
「わたしは、県立・七星学園高等部、生徒会長を務めております。
山本 結衣と申します」
父と母が目を見合わせた。
「おふたりには、以前の学校行事で、少しだけお目にかかっています。
去年の文化祭では、野中くんにはお世話になりました。」
その言葉に、母がかすかに記憶をたどるような仕草をする。
「ああ……あのとき、校門前の挨拶で立っていた……」
「はい。そのとき、私は確信しました。
野中くんは、"このまま終わっていい人じゃない"って」
医師が言葉を挟む。
「申し訳ありませんが、病院の判断としては――」
「承知しています。
そこで、わたしから"別の選択肢"をお持ちしました」
結衣は、バッグから書類の封筒を取り出す。
「こちらは、自衛隊中央病院・集中治療科への転院申請書類です。
すでに受け入れ担当医と搬送ルートは調整済み。
必要な推薦文と、知り合いの『先生』を通じた処理も進行中です」
一瞬、部屋の空気が止まる。
「ちょ、ちょっと待ってください……自衛隊中央病院!?
そちらは政府や要人クラスの医療処置を扱う機関なのでは――」
「承知の上です」
結衣の目は、まっすぐだった。
「先日の事故以降、さまざまな憶測が飛び交い、
そして"正義"の暴走と思われる事件もありました。
このままここに留めておくのは、野中くん自身にとっても、
貴院にとっても、得策ではありません」
「……どうして、そこまで?」
母が絞るように声を出す。
結衣は、迷わず応えた。
「野中くんは、私たちの"希望"なんです。
だから、守らなきゃいけない。
そう思って、ここに来ました」
そして――
「……わたしは、彼の"生徒会後見人"です。
正式な親族ではないかもしれませんが、
責任を持って、安全な場所に連れて行きます」
父が、静かに息を吐いた。
少しだけ笑って、言った。
「……なんだよ、うちのバカ息子。
いい仲間、持っていんじゃねえか」
結衣の瞳が、ほんのわずかだけ潤んだ。
けれど、声は変わらなかった。
「ありがとうございます。
では、日程などをご相談してもよろしいでしょうか。」
医師が、小さく頷いた。
搬送当日、午後10時すぎ。
救急車のサイレンは鳴らなかった。
病院の裏口に、エンジンをかけたまま停められた
一台の医療搬送車があった。
車両の両側面には大きな赤十字マーク。
前後に貼られた6桁のナンバープレートが、
近づくことを拒むような静かな威圧感を醸し出していた。
医療スタッフと搬送チームが淡々と動く中、
白いガウンに身を包んだ結衣が、病棟の自動扉の前に立っていた。
夜風が、彼女の髪を揺らす。
彼女の視線の先では、ストレッチャーに乗せられた野中蓮が、
静かに運び出されていく。
機械の音は最小限。
誰も叫ばない。
ただ、無言の"別れ"だけがそこにあった。
──
エレベーターから降りてきた蓮の両親が、手を止める。
母は一歩だけ進み、
そっとストレッチャーの端に触れた。
「……行ってらっしゃい」
短いその言葉に、どれだけの願いが込められていたかは、
母自身しか知らない。
蓮の父は、黙って後ろから見守る。
ポケットの中には、小さなアニメキーホルダーを握っていた。
ふざけたようなキャラ。
蓮が小学生の頃にくれたものだった。
「……ちゃんと、帰ってこいよ。バカ息子」
ぽつりと、それだけ。
──
結衣は、搬送車の脇で待っていた。
ストレッチャーが収まり、ドアが閉まる。
「準備、整いました」
搬送スタッフが告げると、結衣は一礼して車両に乗り込む。
誰よりも小柄で、
誰よりも冷静なその背中は、
今夜だけは、大人の誰よりも"責任"という名の重さを背負っていた。
車内に静かに灯るLEDの光が、
蓮の額の包帯と結衣の瞳を、同じ色に染めた。
やがてスライドドアが閉まり、
ゆっくりと搬送車は発進した。
病院の裏口は、音ひとつなく自動で閉じられた。
そこに、"彼"がいた痕跡は、
もうどこにも残っていなかった。
野中 蓮が「いなくなった」世界で
それぞれの物語が、いま始まろうとしていた。




