第3話「※わたしの知らない、きみへ」
蓮の事故から一夜明けた。
天気は快晴。
前日の夜に降った激しい雨が嘘のように晴れ、蝉の声すらもまだ遠い。
まるで、"何もなかったかのような"空だった。
「今日、やけに静かじゃない?」
涼子がポツリと口にする。
その隣で拓真が欠伸を噛み殺しながら、首を軽く回す。
「俺、家出るのギリだったからな。情報ナシ」
「ま、事件がないなら、それで良し……」
学校へ向かう道、そんな会話を交わすふたりの後ろから、
少し遅れて美鈴が歩いてきた。
「美鈴ちゃんおはよー」
「おはよー。あれ、野中くんは?」
「そういえば、見かけないな…生徒会のお仕事で
早めに来たんじゃないか」
3人が雑談している間、通りすがる七星の生徒集団が、なにやら騒いでいた。
「うちの学校の生徒らしいよ」「マジで?」
「駅前で事故ったって、昨日の夕方」
「しかも、専科の子を庇って、って話だよ?」
美鈴、拓真、涼子——
三人の歩調が同時にゆっくりになった。
目を見合わせるわけでもなく、それぞれがそれぞれの思考に沈む。
(そんな、まさか。まさか、ね)
「野中くんが……?」
「いや、アイツはそういうの、避ける側でしょ。
自分が傷ついてまで、なんて……」
拓真がそう呟き、涼子も頷く。
「だよね……?」
美鈴は言葉を挟まなかった。
代わりに、手提げカバンの取手を少し強く握る。
そこには、同じ形のお弁当箱が入っていた。
──
教室に着くなり、美鈴は1組の教室へと向かった。
窓側、後ろから2番目の席。
いつも、彼が座っているはずの場所。
「……あれ?」
席は空だった。
しばらく待ってみるが、蓮は一向に来ない。
そこに、声がかかる。
「あー、西村さん? 野中なら、今日は来てないよ」
声をかけてきたのは、城島だった。
変わらぬ調子で、けれどどこか、ぽっかり穴が開いたような口調だった。
「……そう、なんだ。ありがとう」
短く礼を言って、美鈴は踵を返す。
自分の教室へ戻る途中、足音がいつもより重たく感じた。
(……なんでだろう)
カバンのチャックを開けて、
そっとお弁当箱をしまい込む。
それだけの動作が、妙に切なかった。
──
始業のチャイム。
教室が静まり返り、担任の先生が入ってくる。
プリントを配り終えるのを見計らい、重い口調で語り始める。
「連絡があります」
その声を聞いた瞬間、
美鈴は、なぜか予感してしまった。
「1組の野中蓮くんが、昨日、交通事故に遭いました
現在病院で手当を受けているとのことです…」
クラスがざわつく。
美鈴の心の中に、何かが崩れたような音が聞こえた。
──蓮がいない世界が、
今、現実になった。
黒板に書かれた数学の公式も、先生の声も、ノートの余白も、
美鈴の目にはまるで"透けて"見えていた。
気づけばページをめくるタイミングを失い、
クラスメートの動きだけが、妙に遅れて映る。
授業が、何一つ入ってこない。
少し離れた拓真も、疲れた顔で肘をつき、
何度も時計を気にしていた。
涼子もペンを持ったまま、手元のプリントに視線を落としたまま動かない。
誰もが、それぞれの"現実"に追いつけていなかった。
──
昼休み。
屋上のベンチに、3人は自然と集まっていた。
拓真はおにぎりを一つ取り出し、無理やり口に運ぶようにかじった。
涼子は保温容器のにあるおかずを食べながら、ちらと美鈴の方を見る。
美鈴は、カバンからお弁当箱を取り出したまま、
開けようとせず、じっと見つめていた。
「……なあ、美鈴」
沈黙を破ったのは、拓真だった。
いつもより低くて、ためらいが混ざっていた。
「ムリすんなよ。今日は、……休んだら?」
「うん。わたしも、ちょっと気になるぐらいだったよ。
美鈴ちゃん、さっきの授業も、見ててつらそうだった」
涼子の声は柔らかかったが、真剣だった。
風が少しだけ、葉を揺らす。
美鈴は俯いたまま、小さく呟く。
「……心配してくれて、ありがと。大丈夫だから」
口元は、いつも通りだった。けれど目は、笑っていなかった。
そう言って、美鈴はゆっくり立ち上がる。
「家庭科室に、課題出さなきゃ。行ってくるね」
「……わかった。でも無理すんなよ」
拓真がそう言いかけたとき、美鈴はすでに背を向けていた。
──
廊下の角を曲がった瞬間だった。
視界がぐらりと傾き、膝が抜けた。
「……っ」
何かを掴もうとした指先は空を切り、
軽い音とともに、制服のスカートが床に広がった。
意識が、すとん、と落ちた。
──
次に目を開けたとき、
柔らかな天井の白が視界を覆っていた。
「……ここ、保健室?」
「やっと起きた」
ベッドの脇にいたのは、涼子だった。
うちわで顔を仰いでいる。
だけど、手の動きは止まりかけていた。
「……寝顔、割と普通だった」
「……それ、褒めてる?」
「たぶん」
会話は、ぎこちなく始まったけれど、
美鈴はどこか、安心していた。
「……先生が言ってた。
熱はないけど、貧血ぎみだって。
お弁当……、この調子だと朝から何も食べてないでしょ?」
「……うん。遅刻ギリギリだったから忘れてた。
お昼は食べようとしたけど、野中くんの顔、浮かんじゃって」
涼子は何も言わずに、そっと紙パックのりんごジュースを差し出した。
「とりあえず、これ。飲んだら、また少しだけ寝て。ノートはあとでスクショして送るから」
「……うん。ありがと」
蓮のいない教室。
蓮のいない昼休み。
でも、美鈴の隣には、"ちゃんと気づいてくれる誰か"がいた。
目を閉じながら、美鈴は思う。
(わたし、蓮くんのこと、こんなに考えてたんだ……)
──
放課後、サッカー部グラウンド。
「……藤井先輩、今日シュートゆるくないっすか?」
「……ん。あー、すまん」
ボールがゴール横へ大きく逸れる。
自分でも分かっていた。
身体は動いてるのに、心がどこか遠くにあった。
「藤井、今日は軽く回すぞー。調子悪いのか?」
顧問の声が飛ぶ。
拓真は頷きながら、ピッチ脇にボールを蹴り出した。
「……「グース」、バカだな」
誰にも聞こえないような声で呟き、
ベンチに腰を下ろす。
チームメイトが笑いながらボールを蹴っている。
その中に、あいつがいないという現実が、今もまだ信じられなかった。
──
部活を早退した拓真は、駅前のファストフード店で涼子と落ち合った。
店内の窓際。
炭酸飲料の入ったの氷がカラカラと音を立てる。
「……結局、さ。蓮って、なんでああなるんだろうね」
「"ああ"って?」
「自分のこと、いつも一番後回しにするっていうか。
誰かのためってなると、一瞬で"ヒーローモード"入るの。
昔っから、そういうとこある」
「うん。中学のときも、部活やめる直前、
後輩が泣いてるの見て、フォローして……
あのときも、自分だけ責められるって知ってたのに」
ふたりの会話は、不思議と穏やかだった。
過去をなぞるたびに、どこかくすぐったくて、あたたかい。
「……ほんと、バカだよな」
拓真が笑う。
涼子も、同じように笑った。
「でも、かっこいいよ」
「なにそれ。蓮の彼女気取り?」
「違うよ。……だからこそ、もう、逃げないって決めたの」
そう言った涼子の目は、どこか澄んでいて、強かった。
──
その頃。
美鈴は、自分の部屋でクラリネットを膝の上に置いていた。
手入れも済んで、音を出すだけの状態。
でも、唇はマウスピースに触れなかった。
代わりに、指だけが音をなぞる。
ドレミファソ、ラ、シ——
ソの音で止まった。
そこから先が、どうしても出てこなかった。
(……もう一度、吹けるかな)
目を閉じると、蓮の顔が浮かんだ。
笑っていたとき。
からかってきたとき。
そして——"また明日"と言ってくれたとき。
気づけば、指先が震えていた。
「……蓮くん、ずるいよ」
涙が、ポタリとクラリネットの管に落ちた。
美鈴はそのまま、小さく嗚咽を漏らしながら、
そっと抱えるようにして、クラリネットを抱きしめた。
静かに、静かに——
"彼のいない日常"が、各々の中で形を変えていった。
翌週、月曜日のことだった。
帰りのホームルームを終えた直後。
——LINE通知。
送り主は、東條 玲央。
《放課後、正門前》
《来れるやつだけでいい》
たったそれだけの、無機質なメッセージ。
けれど、その名を見た瞬間、美鈴、拓真、涼子の三人の胸に、
妙な"ざわつき"が広がった。
──
放課後、正門前。
生徒たちの帰宅ラッシュがひと段落した頃。
制服のネクタイをゆるめた玲央が、校門の影に立っていた。
目元に薄くクマがある。
いつもより細身に見えるのは、気のせいじゃない。
だけど——背筋は、変わらずまっすぐだった。
「来たか」
ぽつりと、ひと言。
彼の前に、美鈴・拓真・涼子の3人が揃って立っていた。
誰も口を開かない時間が、ほんの数秒だけあった。
最初に話しかけたのは、意外にも涼子だった。
「……玲央、大丈夫?
先週、学校……来てなかったよね」
玲央は少し驚いたような顔をして、
すぐに目を伏せた。
「平気。筋肉痛で寝てただけ」
「筋肉痛って、事故の時に?」
「……ああ。庇われたせいで、全身がビリビリだった」
嘘ではなかった。
でも、それがすべてでもなかった。
拓真が口を開く。
「で? 呼び出したってことは、用があるんだろ」
玲央は頷き、そして、真正面を見据えた。
「——蓮の、入院先。知ってる」
空気が、一瞬で変わった。
「は……?」
「救急車、一緒だったから。
隊員や先生たちから"誰にも言うな"って言われたけど……
このまま"知らないふり普段の生活しろ"っていうのは、俺は流石に無理だった」
玲央の声は、妙に淡々としていた。
「来るか? 教えるけど、場所はあんまり近くない」
拓真と涼子が一瞬だけ視線を交わす。
涼子が口を開く。
「……行く。行こう、美鈴ちゃん」
「……うん」
──蓮に会える。
それは、ただの"情報"ではなく、
胸の奥に静かにくすぶっていた火を、再び灯す言葉だった。
4人は、校門を後にした。
雲が流れ、夕焼けが街を照らし始めていた。
学校から少し離れた丘の上に建つ、市立第三総合医療センター。
受付で名前を伝えると、書類が差し出された。
感染予防のための使い捨てガウン・マスク・キャップ・シューズカバーを渡される。
「面会時間は3分以内でお願いします。
意識はありませんが、お声がけは可能です」
淡々とした案内の言葉が、かえって心を締め付ける。
制服の上から白いガウンを纏う。
マスクの内側で、息が熱を帯びる。
扉が、開いた。
無音。
それが、最初の印象だった。
機械のモニターが小さく点滅している。
だが、その音すら、心には届かなかった。
蓮は、そこにいた。
額から頬にかけて包帯が巻かれ、鼻には酸素チューブ。
胸元には電極、腕には数本の点滴ルート。
機械に囲まれているのに、彼だけが静かだった。
「……っ」
美鈴の指先が、小刻みに震える。
心の中が、重く感じた。
拓真は一歩踏み出し、ベッドの足元に立った。
「おい、グース。
なにベッドで休憩してんだよ。
勝手にエンジン切ってんじゃねえぞ」
そう言って、ふっと笑った。
「……マーベリックは、お前がいなきゃ、ただのバカだぞ」
拳を握った。
涙は出なかった。代わりに、奥歯がきしむほど噛み締めた。
「……"ベイルアウト"前に、ちゃんと戻ってこいよ。
お前だけ、空の向こうに行くなよ」
隣で涼子が、柵に手を添えていた。
「……なんで、笑ってる夢でも見てそうな顔してんのよ。
ほんとにバカ……」
その手が、ほんのわずかだけ蓮の手元に伸びる。
でも、触れはしない。触れてしまったら、壊れてしまいそうに思えた。
「わたし……ちゃんと伝えてない。
言えてないこと、いっぱいあるのに」
涼子の声は、かすかにかすれていた。
そして、美鈴。
蓮のそばまで行き、
静かに、お弁当を包んでいたハンカチを取り出す。
ベッドの横に置いて、両手で持った。
「……野中くん、
また"おいしかった"って、言ってよ……」
それだけが、言葉になった。
看護師が声をかけてくるまで、誰も一言も発さなかった。
帰り際、スライドドアが閉まる直前。
蓮の心電図モニターのピッ、ピッという音が
妙に強く耳に残った。
それはまるで、"まだ終わってない"と
彼が言っているような音だった。
あの日から、日常は再び動き出した。
登校して、授業を受けて、昼休みにはお弁当を食べて——
そんな"いつもの生活"。
ただひとつ、変わったものがあるとすれば。
美鈴が、放課後に学校を出る時間が早くなったこと。
帰りのホームルームが終わる頃には、もう彼女の姿はない。
部活ではなんとかこなしていたが、どこかぎこちない。
部長や顧問が咎めることはなかったが、
"気づいている者"は、いた。
——涼子だった。
その日も、美鈴はクラリネットケースだけを持って昇降口を出ようとしていた。
涼子がそっと声をかける。
「ねえ、美鈴ちゃん……
最近、ちょっと急ぎすぎじゃない?」
美鈴は、一瞬だけ立ち止まり、
でも振り返らなかった。
「……ごめんね。ちゃんと練習はしてるから」
「それはわかってる。でも……
あたしじゃダメ?」
その言葉に、美鈴の肩が一瞬だけ、かすかに揺れた。
だけど、答えはなかった。
ただ、小さく頭を下げて、美鈴はそのまま玄関を出た。
──
その日、病院のICUフロアで。
美鈴は、いつものように防護ガウンを着て、
折り畳まれた楽譜を持っていた。
「……今日も、"まだ"ですよね」
看護師は、優しい顔で頷いた。
毎日のように訪れるこの少女の存在は、
ICUスタッフの間でも知られるようになっていた。
誰も責めなかった。
ただ、静かに見守っていた。
──
そして、夏休み直前のある午後。
いつもと同じようにガウンを手に取り、名前を告げたとき。
「……あの。
野中 蓮さんは、今朝、別の病院に転院されました」
担当看護師の知らせで美鈴の手が止まった。
耳に入ったはずの言葉が、
心に届くまで、数秒かかった。
「……え、なんで……?」
「すみません、詳しいことは私たちには……
でも、付き添いの方と病院側でお話し合いがあったと聞いています」
美鈴の中で、何かがすっと抜けたような感覚。
「……行き先は?」
「申し訳ありません。
個人情報扱いですので、なんとも。
それに…この件は職員も知らされていないんです」
何も言えなかった。
ICUを出て、
病院のロビーの長椅子にしばら座るくことしかできなかった。
それは、"彼がいた場所から、消えた"という
ただそれだけの事実。
でも、美鈴にとっては、
世界の音がまたひとつ、消えたような出来事だった。




