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第2話「※ジューディッシュ・マジョリティー」

※衝撃なシーンがあります。


「ねえ、玲央くん。

“良きサマリア人”って、知ってる?」


まだ小学五年生のある日。

玲央は、名前すら覚えていない“ちょっと不思議なクラスメート”にそう問いかけられた。


給食が終わったあとの、昼休み。

教室の隅っこで、そいつは分厚い絵本を膝に抱え、ページの間に指を挟んだまま話し出した。


「困ってる人がいたら、立場とか関係なく誰であっても助ける。という話なんだよ。」


玲央は曖昧に笑って、曖昧に頷いた。

正直、よくわからなかった。ただ、――なんだか変なやつだな、とは思った。


けれど、その数日後。

彼のなかで、その言葉は“異物”として残り続けることになる。


──


数週間後の帰り道、不自然に停っている乗用車と人だかりを見かけた。


近づくと、そこには「不思議くん」が倒れていた。

ランドセルと本はが事故の衝撃で道の端に転がり、シャツには泥と擦過傷の痕。

彼はまだ、意識があった。


「…けて…水、ほし……」


小さな声が聞こえた。

玲央は駆け寄ろうとした。けれど、通報を済ませた大人たちが、彼の肩をつかんで言った。


「触るな!下手に動かすと危険だ!」


玲央は立ち止まった。震える拳を握りしめた。

運転手の男は口元を引きつらせながら、何もしていなかった。

通報だけはして、“それ以上”は誰もしようとしなかった。


“良きサマリア人”は、どこにもいなかった。


──


その夜、母が言った。


「あの子、亡くなったんだって……」


玲央はテレビもスマホも見ず、ただ布団の中で拳を固く握りしめていた。

思い返すたびに、頭の中で“あの声”が繰り返される。


──水、ほしい──


泣かなかった。叫びもしなかった。

ただ、玲央の中に、消えない問いが芽生えた。


どうして、“助けられる人間”がそこにいたのに、

誰も、手を伸ばさなかったんだろう?


そして、それがずっと、玲央の心の奥に残り続けた。


帰りのクラス会。


「多分知っている人もいますが、ツムラさんは事故で亡くなりました

家族のお願いでお別れの会はありませんが、お手紙を送りたい人、

すこしでも気分悪い人は、先生に伝えてください。」


帰る直前に言われ、泣く子や気落ちをする子

中には「変な話が聞かずに済んだわ」と無鉄砲に言い放つ子もいた。


掃除と机の整理を終えた生徒達が教室を出たが

玲央はひとり自分の机に再び座った


しばらくして、引き戸が開いた。

「——あれ、東條くん。まだいたのか」

入ってきたのは担任だった。

出席簿を小脇に抱えたまま、少し驚いたように足を止める。


「……先生」

「どうした。忘れ物か?」


玲央は、首を振った。

担任は少し考えてから、教壇の端に出席簿を置いて、近くの椅子を引いた。

生徒の席に、そのまま腰を下ろす。


「……ツムラさんのことか…。」

静かに、言った。

「辛かったら、無理しなくていい。

 必要だったら、カウンセラーの先生にも、声かけてあるから」


玲央は、窓の外を見たまま答えなかった。

担任は急かさなかった。

ただ、そこにいた。

しばらくして、玲央が口を開いた。


「……先生」

「ん?」

「あの日のこと、覚えてますか」


担任は、すぐには答えなかった。

でも、目を逸らしもしなかった。

「……覚えてる。君、助けに行こうとしてたね」

「でも、止められました」

「そうだな」

「……助けちゃ、いけないんですか」


玲央の声は静かだった。

責めているのでも、泣いているのでもなく——ただ、本当に分からないという声だった。

担任は少しだけ息を吐いて、膝の上で手を組んだ。


「“餅は餅屋”って言葉、知ってるか」

「……知ってます」

「専門じゃない人間が触れて、悪化することもある。

 善意でやったことでも、結果が悪ければ訴えられる時代だ。

 玲央くんが動いて、もし何かあったら——

 “正義”じゃなくて”危険人物”として、ずっとそう呼ばれるかもしれない」

「……それでも、止まれなかったと思います」


担任は、玲央の顔をしばらく見ていた。

「そうだな」

否定しなかった。


「じゃあ、一つだけアドバイスをしよう。

 “助けても文句を言われない人間”に、なればいい」

「……それって」

「資格でも、肩書きでも、実績でも。

 何でもいい。

 “お前には止める権限はない”と言われないだけの何かを、自分で積み上げること。

 それが一番、遠回りに見えて、近いし、大体のオトナがそうしてる」


玲央は、その言葉を黙って聞いていた。

納得はしていなかった。

でも——反論もできなかった。

「……ありがとうございます

家に帰って、考えてみます。」


立ち上がって、カバンを肩にかける。

引き戸に手をかけたとき、担任が後ろから言った。


「東條」

「……はい」

「その気持ち、忘れないこと

そして、無理しないこと。いいね?」


玲央は振り返り、一礼してから、廊下に出た。

夕暮れの廊下は、オレンジと影が半分ずつだった。


──


それから玲央は、幼稚園から続けたサッカーを辞め、少年団に入った。

ボーイスカウトの集会では、ロープの結び方、応急処置、AEDの使い方、

……そして、助け合うことの“実践”を、繰り返し学んだ。


家に帰ると、図書室で借りた『小難しい医学書』を夢中で読み漁り、AIの力を借りては

ノートにまとめていた。


けれど――

卒業文集にある「将来の夢」の欄に書かれていたのは、


『お金持ちになって、かっこいい車に乗ること』


だった。


教師たちは「やっぱりなー」と笑った。

クラスメートたちは「玲央っぽい」「七星行くからそだろー」と茶化した。

玲央自身も、笑った。


だけど、誰にも見せなかった箇所がある。

そこには、ボールペンのインクが染みた細い文字で、こう書かれていた。


『医りょう従事者(救命士)。』


それから時は流れた。


今、彼は立っている。

“本当に助けたかった人間”を目の前にして。


ロータリーのアスファルトに横たわる、野中 蓮の身体。


周囲には、絶叫、悲鳴、そしてスマホを構える手。


玲央の手が震えた。呼吸が荒くなる。

それでも、身体が動く。


――この手で、今度こそ。



「──玲央、下がれッ!!」


その叫びと同時に、野中 蓮は身体を前に飛ばした。

大型トラックの死角から迫ってくる。

次の瞬間、蓮の手が玲央の肩を押し飛ばし――


「バンッ!!」


背中から軽バンのリアガラスに激突。

骨が砕ける音、ガラスが割れる音、誰かの叫び。

そのすべてを塗りつぶすような鈍い衝撃音。


蓮の身体が、無様に地面へと落ちる。


「……っ、のな…!!」


玲央は倒れ込みながら、その姿を見た。

血まみれの背中、かすかに揺れる胸。

そして、微かに開いた目。


「野中、野中ッ!! 返事しろ、聞こえてんのか!!」


玲央は声をかけながら、這うように蓮に近づく。


血が、頭から流れていた。

背中から落ちた形で、身体が斜めに止まっている。

(動かすな。脊椎があるかもしれない)


まず肩を軽く叩く。

「野中、聞こえるか。返事しろ」

反応なし。


頭を動かさないまま、指先だけで下顎を引き上げる。


気道を確保する。

胸元に顔を近づけた。

息の音。

かすかに、ある。

頸動脈に指を当てる。

脈——弱い。でも、ある。

(よし。止まってない)


呆然とするトラックの運転手は、ショックのあまり口を開けたまま降りられないでいた。

30代の軽バンの運転手が慌てて駆け寄る。


「おい大丈夫か!? あんたも吹き飛ばされてたぞ……」


「いいから、警察と救急! 今すぐ頼む!!」


「お、おう!!」


玲央はすぐに蓮のバッグを引き寄せ、

タオル、ハンカチ、筆箱、何でも使えるものを探す。


(骨折してる……! 胸郭が……!)


「おい、そこの人!AEDの場所をもってきてくれ!!

 あとそっちの人、こいつの体力を保持するために…水でもタオルでもなんでも

 いいから持ってきてくれ!!」


数人が周囲の施設へ駆け出す。

だが、多くは――


スマホを向けていた。


中でも、セミロングの30代女性がひとり、無表情で

一部始終を“撮り続けていた”。


カメラを止めない。

誰にも止められない。


(……やめろよ……こんな時に……っ)


ハンカチを傷口に当てたまま、もう一方の手で丸めた自分のネクタイを、

蓮の首の両脇にそっと置く。

動かさないための、簡易の壁だ。


胸が動いているか、確認する。

浅い。でも、動いている。

(胸には触るな。肋骨が逝ってたら、押したら終わる)


上着を脱いで、蓮の身体にかけた。


「おい、触るな! 下手に動かすと——」

後ろから声が飛んできた。


「頸椎の保護はしてます」

振り返らずに、玲央は答えた。

「出血の止血と気道確保だけやってます。

 胸と脊椎には触れていません」


声が、思ったより落ち着いていた。


自分でも驚いた。


「救急は来ますか」

「も、もう呼んだ」

「ありがとうございます」

それだけ言って、ハンカチを押し当て続けた。


「おい、野中! こんなトコで……

 くたばるんじゃねぇ!!」


玲央の叫びが、夕暮れの空気を裂く。


──5分後。

サイレンが近づく。

救急車が軽ワゴンの前にに滑り込み、隊員が飛び出してくる。


「被害者の状態は!?」

「頭部裂傷・出血あり、止血処置中。

 呼吸浅いですが継続してます、脈あり。

 頸椎損傷リスクがあるため頭部固定、胸部には触れていません

意識はなんとか保たせてます…」


玲央が叫ぶように報告する。

隊員は一瞬だけ玲央を見て、すぐに蓮へ手を伸ばした。


「よく抑えた。あとは引き継ぐ」

「……まだ続けさせてください!

 こいつの状態、呼吸、出血、全部追ってます!」


隊員が一瞬、迷いの表情を浮かべたときだった。


「待ってください!」


甲高い声。

声の主は、傍にいた大学生風の女性だった。


白いブラウス、リュックを背負い、震える手でスマホを握っていた。


「その子……最初からずっと処置してました!

 “自分も吹き飛ばされてた”のに、ずっと……

 あの人、逃げないで向き合ってたんです!」


隊員が視線を交わし、頷く。


「……処置継続中の補助者。

 君、搬送中は医療行為に介入しないと約束できるか?」


「……はい!!」


「よし、乗れ!」


玲央が蓮に添えるように救急車へ乗り込む。

ドアが閉まりかける、その瞬間――


あの女性が、わずかに震える声で言った。


「……かっこよかったよ。誰よりも」


玲央は、顔を背けるように、

その言葉だけを、静かに胸に刻んだ。


蓮はストレッチャーに固定され、酸素マスクを装着された状態で横たわっている。

脈は微弱ながら維持、呼吸も人工補助で安定へ向かっていた。


救急隊員のひとりが、玲央の制服の襟に目を留めた。


「……君、彼と同じ学校の生徒か?」


玲央は血のついた手を見下ろしながら、小さくうなずいた。


隊員は無線でどこかへ確認を入れた後、

玲央にスマホを手渡す。


「搬送先は「市立第三総合医療センター」になると思う。

 先生か保護者に、すぐ連絡してくれ」


「……はい」


玲央はスマホを握る手に力を込める。


緊張で手が震えていた。

でも、誰かがやらなければならない。

彼が救った命を、今度は“社会”へ引き渡すための責任。


スマホを開き、検索履歴の中から学校の電話番号をタップする。


──コール音。


「……はい。七星学園事務室です」


「高等部専科2年の東條玲央です。

 普通科2年の野中蓮が駅前のロータリーで交通事故に遭いました.

 搬送先は市立第三総合医療センターです。

 自分は今、野中と一緒に救急車の中にいます」


電話口の相手が息を呑む気配が伝わる。


「わかりました。すぐに教員へ連絡を回します」

「保護者にもお願いします……!」


玲央の声は、途中でわずかに掠れた。


けれど――

その声は、確かに“責任を持った人間の声”だった。


通話を終えたスマートフォンを、玲央は隊員に返した。


「……連絡、通じました」


「よくやった」


隊員が手を止めずに言った。


しばらくして——

「もしかしてだけど」


助手席側の隊員が振り返った。


「救命士、志望だったりするか?」

「……はい」


口にした瞬間、胸が苦しくなった。


自分はまだ、何者でもない。

“ただの生徒”で、“資格も何も持っていない”自覚がある。

それでも、言わずにはいられなかった。


手当を行った隊員は、ストレッチャーの上の蓮に視線を落とし、

そして玲央へ、はっきりと言った。


「──不合格。」


「……っ」


玲央の喉が詰まる。

思わず俯きそうになる――が、次の言葉が続いた。


「だけど、応急としては合格点だ。

 処置の優先順位も、判断も悪くない。

 パニックの中でこれだけ動けたなら、現場には向いてる。

 “今のまま”じゃダメだが、“これから”なら目はある」


言葉を選んだ、

でもその中にちゃんとした評価があった。


玲央は、わずかに目を見開き――そして、深くうなずいた。


「……ありがとうございます」


救急車が、市立第三総合医療センターに到着。


後部ドアが開き、隊員たちが素早くストレッチャーを押し出す。


「頭部外傷・裂傷、胸部への強衝撃あり、意識レベル低下!」


「ER入ります、ルート確保準備、CT優先して!」


白衣の医師たちが声をかけながら、

蓮の身体は非常扉の奥へと吸い込まれていった。


残された玲央は、

ひとり、救急車のステップから降り、

待合室の片隅のイスに、力なく腰を下ろした。


周囲には誰もいない。

まだ日が沈みきる前の、

夕暮れの“透明な時間”。


息を吐いた。

手を見る。

――血が、まだついている。


「……まだ、届いてない」


誰に言うでもない、

それでも確かな“痛み”を携えた独白だった。


壁の時計の針は、空気の重たさとは裏腹に正確に時を刻んでいた。

その時計の下――白い自動ドアの前の長椅子に、玲央がうなだれるように座っていた。


(……あいつ、まだICUには入ってないのか?)


医師も看護師も慌ただしく動き回るが、

蓮の容態については何も伝えられてこない。


そのとき、駆け足でドアが開き、蓮の母親が病院スタッフに付き添われて入ってきた。


「蓮っ……! 蓮は……!」


スタッフが制止するように彼女を支え、

玲央の近くのベンチに座った


その数分後――


「玲央!」


低く張った声が響く。

振り返ると、スーツ姿の男性が駆け寄ってきた。

玲央の父親だった。


「お前……大丈夫か?」


「……うん。俺は無傷。けど……」


目を伏せたまま、そう返す息子の肩に、

父は黙って手を置いた。


言葉にしなくても、父はそれで十分だった。


しばらくして、蓮の母の後を追うように、

会社から駆けつけた蓮の父親も到着する。

汗を拭うこともなく、まっすぐ受付へ走っていく。


──それから数分後。

白衣の医師がひとり、通路奥から現れた。


「……野中蓮さんのご家族の方、お話があります」


母と父が顔を見合わせる。

玲央と父も立ち上がった。


通されたのは、簡易診察室の一室。


医師は静かにカルテを伏せると、口を開いた。


「まず、ここまで搬送がスムーズに進んだのは、

 そちらにいる彼のおかげです」


玲央が僅かに頭を下げる。

医師は続けた。


「彼の応急処置は、素人としてはかなり適切でした。

 出血の抑制、胸部への衝撃緩和、

 口腔確保と、手持ちの道具でできる範囲のことを完璧にこなしています」


「ですが……」


蓮の母が口に手を当てる。

その問いを感じ取った医師は、静かに言葉を重ねた。


「――余談は許されません。

 現時点では“命はつないでいる”という段階です。

 意識は戻っておらず、現在ICUに移しています」


「っ……」


母の足元から力が抜け、

その場に崩れ落ちるように座り込む。


「蓮……っ……どうして……なんで……!」


父が肩を支え、医師に向き直る。


「ICUで……どれくらいでしょうか?」


「少なくとも、48時間は厳重な経過観察が必要です。

 脳へのダメージ、内臓損傷の有無も否定できません……

 CTの結果にもよりますが、それでも中長期的な昏睡もしくは

 植物状態という可能性もあります。」


その言葉に、室内の空気が重たく沈んだ。


診察室の空気は重く、

泣き崩れる蓮の母の嗚咽だけが、静かに響いていた。


玲央は、固く唇を噛み、

震える声で頭を下げた。


「……っ、俺のせいです。

 ごめんなさい……。

 俺が……あんなことを言わなければ、

 蓮は……俺を庇うことなんてしなかった……」


涙ではない。

でもその声には、“自分の口で背負おうとする痛み”が滲んでいた。


沈黙が落ちる。


やがて、蓮の父が深く息を吐き、

玲央の前に立った。


「……もし、君の立場が逆だったとしても、

 蓮はきっと――同じことをしたと思う」


玲央が顔を上げる。


「君を責めることは、俺にはできない。

 …けど…よくやった。

 本当に、よくやってくれたよ」


蓮の母は、何も言えず、ただ泣きながら、

“こくこく”と力なくうなずいていた。


彼女の瞳は、玲央を睨むものでも、責めるものでもなく、

ただ――命を救ってくれた少年に、ありがとうを告げる母の目だった。


──その場の空気を察し、

医師が少しだけ視線を外したあと、静かに言った。


「……通常は面会制限がありますが、

 ご家族の同意があれば、特例で“5分だけ”入れます。

 ここにいる2人まででお願いします…」


「…東條くんと、自分が行きます…」


蓮の父がうなずく。

玲央の肩を押して、先に歩を進める。


ICUの自動ドアが開く。

消毒液の香り、無機質な白い光、

そして、静かすぎる機械の音――


そこには、

意識のないまま眠る蓮がいた。


酸素マスク、点滴、脈拍モニター。

胸の上には包帯と固定具が巻かれ、

顔には複数の擦過傷と、額には薄い包帯が巻かれている。


(お前……なんで、こんな……)


玲央はガラス越しにその姿を見て、言葉を失った。


(俺なんかを庇って……

 ……お(グース)、バカだよ……)


(あのとき、信号待ちで

 くだらない意地の張り合いなんかしてなければ……)


けれど――


(でも、あのとき……

 “野中蓮”が、俺を庇ったって事実だけは、消えねぇんだ)


ポケットの中で、拳が固く握られていた。


(逃げるな……俺。

 今度こそ、俺が誰かを守れるようにならなきゃ、

 あいつの“正しさ”が、意味なくなる)


蓮の脇に立っていた医師が小声で伝える。


「意識はまだありませんが、聴覚は残っている可能性があります。

 声をかけても構いません」


玲央は一歩、蓮のベッドへ近づく。


そして、しゃがみこむようにして、

顔の横にそっと顔を寄せた。


「……お前があの時、

 “正しさ”を、命懸けで俺にぶつけたんだから――

 今度は、俺が“答え”出す番だよな」


目を閉じたままの蓮は、何も言わない。

でも、モニターの数字は微かに――、それでも確かに、生命を示していた。



──ICUでの面会を終えた後、

玲央は、医師に付き添われる形で診察室へと案内された。


「衝撃を受けた可能性もあるので、念のため、ね」

医師は柔らかな口調だった。


ベッドに腰をかけた玲央は、静かにシャツのボタンを外し、

肋骨の周辺、肩、脇腹の打撲痕を見せる。


「うん。折れてはなさそうだね。内出血も見受けられない」

聴診器をあてながら、医師が表情を崩さずに続けた。


「大丈夫そうだけど……」


ここで、ふと医師が玲央の顔を見る。

どこか試すような瞳で、こう問いかけた。


「君、救命士志望なんだって?」


「……はい」


玲央は小さくうなずく。


医師は頷き返しながら、

今度はほんの少しだけ、人としての顔で言葉を紡ぐ。


「なら……知ってるだろう。

 “痛みは、あとから来る”ってやつだ。」


玲央は、その一言にだけ――

わずかに口元をゆがめて、笑った。


「……はい。教本にも、ありました」


医師は机のタッチスクリーンを操作し、印刷された処方箋を取り出しながら

静かに言った。


「じゃあこれは、“教科書どおりの対応”として、痛み止めと抗炎症剤。

 服薬は1日3回。あと、“無理をしないこと”が最大の処方箋だからね?

 何かあったら、躊躇わず病院に連絡すること。」


「……了解です」


診察室を出た後、

玲央は診察ファイルを会計に置き、番号札を握りしめたまま、待合のソファに一人座った。


(でも、これはたぶん――

 身体の痛みだけじゃ、済まないんだよな)


その手のひらは、まだわずかに震えていた。


「…ただいま」

自宅に帰られたのは午後9時を指そうとしていた。

会計を済ませ、薬を受け取った瞬間に警察が玲央に声をかけられ

警察署で事情聴取に応じた。


「おつとめ、ご苦労様です。」

「…よせよ。縁起悪いコトを…」


父の冗談を流しながら、玲央は浴室に入り

汗と汚れを流した


「…」

玲央の手を再び見つめる。

蓮が流した血が少し、残っていた

「不思議くん」を助けられなかった彼は

気づけば、「憎むべき相手」を助けていたことを思い出す。

(…これで、よかっただろうか)


風呂を上がった玲央は再びダイニングに行くと、そこには夕飯があった

「…すまんな。いきなりのことだから、あまり食材は買えなかった。」

「元からだろ。それに…ありがと。来てくれて。」

「本当だよ。これで長期出張だったらどうしてたっつう話だ」

「確かに…いただきます。」


玲央が食べ始めた頃に、夕方の事故のニュースが流れ始めたが

突然父がチャンネルを変えた。


「おい!テレビ見てるだろうが!!」

「事件事故のニュースを見ながら美味い飯食えるか!」

「かえって不味くなるわ!」

玲央と父はその後喧嘩をしたが、父なりの「心配」をしてくれていることを知っていたため

そこまで本気にはせず、むしろ心地よく感じた。


翌日、午前6時32分。

玲央のスマホが震えた。

通知音ではない。ただ、“振動”だけが続いていた。


目覚ましもセットしていない。

けれど、何かに追われるような胸騒ぎで目が覚めた。


着信履歴:2件

LINE通知:37件

ニュース速報アプリ:8件


画面をスワイプした瞬間、

“自分の姿”が画面に映った。


《現場で高校生が叫ぶ、庇った末の悲劇──「涙のヒーロー」なのか?》

映像提供:通行人撮影


モザイクはかかっている。

けれど、自分だとわかる。


(なんで……)


目が覚めた瞬間から、世界が“敵意”を孕んでいた。


父はすでに家を出ていた

《欧州で半年間仕事になった。こんな時にいなくてごめん…》

ダイニングキッチンに置き手紙、その隣にパンケーキ


「いつものことだろ…」と玲央は嘲笑しながら朝食をとり準備をするも、

体がいつも以上にだるく、ところどころ痛かった。

痛み止め(ロキソ)飲んだのに…ヤバいな」


玲央は学校アプリに欠席連絡をし、テレビを点ける

軽快なBGMとともにVTR再生。


「SNSで話題の“涙の高校生”!」


「ヒーローだよね〜」「でも何があったんだろ?」


出演者やゲストたちの“軽さ”が、痛かった。

命をかけた出来事が、“朝の消費コンテンツ”にされていた。


別のチャンネルを回すとテレビのテロップに、モザイクがかかった玲央の姿が再び流れる。


《高校生が事故現場で“感情むき出し”の応急処置。正しかったのか?》


「感情は理解できます。でもね……」

普段から辛辣に言うコメンテーターが、淡々と言う。


「未成年が、医療行為の“真似事”をして、

結果的に相手を重体にしたってことでしょ。」

「どこが「美談」ですか?」


静かにリモコンを持ち、音量を下げた。

でも、その言葉だけは、脳内から消えなかった。


午後になると西日本からの情報番組でも流された

司会「さあ、今日の本題はこちら! “高校生の自己陶酔ヒーローごっこ”疑惑!」


VTRで有名な整形クリニックの外科医が、モザイク映像を指しながら続けた。

「頸椎の固定、やってますよね。でもこれ、ネクタイですよ?

 正式な頸椎カラーではない。

 素人が"それっぽいこと"をした結果、

 むしろ損傷が広がった可能性は、否定できないんですよ…」


映像はスタジオに戻り、出演者の相槌が、軽かった。

司会者はひな壇に座っている弁護士に問いかけ、カメラに向かって口を開いた。


「まず前提として、民法698条——「緊急事務管理」の規定があります。

 緊急の状況で、本人の意思を確認できないまま行った行為については、

 善意であれば一定の免責が認められる。

 これは法律の立場からは、一応、整理されています」

司会者が頷く。


「ただし——」

弁護士は、そこで一拍置いた。

「"免責される"と"正しかった"は、別の話です。

 民事上の責任が問われにくいというだけで、

 今回の行為が医学的に適切だったかどうかは、また別の判断が必要です。」

「つまり、法律的にはセーフでも、医療的にはアウトの可能性がある、ということでしょうか?」

「そういうことです。

 特に今回、有り合わせのものを使って固定しているため、

 頸椎の固定に不適切な器具が使われた可能性が指摘されています。

 もし被害者の方に脊椎への後遺症が残った場合——

 "善意だったから免責"では済まない議論が、起きてくる可能性はあります。」


スタジオが、しんと静まった。

「……現時点では、あくまで"可能性"の話ですが」

その一言は、誰の耳にも届かなかった。


玲央は、音量を落としたテレビを、ただ見ていた。

「可能性」という言葉が、部屋の中に残った。

(やったことが、裏目に出た

「かもしれない」という話だけで

 俺は——加害者にされる)


怒りは、あった。

でも燃え上がる感じではなかった。

どちらかといえば——確認に近かった。


小5のとき、何もしなかった大人たち。

今日、何かを言い続けるスタジオの人たち。


通報だけして、その先には踏み込まない。

批判だけして、代わりに何かをするつもりはない。

構造は、同じだ。

ただ今回は——自分がその「構造」に組み込まれようとしている。


2日目の夜。

玲央はベッドの上で、スマホを天井に向けたまま持っていた。

見るつもりはなかった。

でも、手が止まらなかった。

タイムラインを、指が滑る。


まとめサイトのリンクが流れてきた。

《事故トラックの運転手、「不法外国人」か》

タップした。


根拠は、なかった。

「会社名でピンときた」「知り合いから聞いた」「雰囲気でわかる」——

そういう言葉だけが、何千回もリポストされていた。

スレッドを下に流す。


「だから応急処置もできなかったんだよ」

「日本語通じなかったって目撃者が言ってた」

「免許どうやって取ったんだろうな。やっぱ外免切り替えか?」

「不法害人だから、免許すらないんじゃね?」


(……目撃者?)

玲央は、現場にいた。

日本語が通じなかった運転手など、いなかった。


でも、それを証明する術が、今の自分にはなかった。

しばらくして、別のリンクが流れてきた。

動画だった。

再生した。

夜の映像。

見覚えのあるロゴのトラックが、駐車場に停まっていた。

荷台と車両が燃え広がり、事務室は笑い声とともに荒らされ、放火する映像が流れた。

投稿者のアカウント名は、すでに消えていた。

コメント欄——


「犯罪だろ」

「でも不法外国人を雇った会社の自業自得w」

「正義の制裁だろ」


玲央はスマホを伏せた。

(誰も、確認していない)


翌日、トラック会社の記者会見があったものの

ニュースでたったの30秒取り上げられ、追求することはなかった。


運転手が外国籍かどうか。

その会社が法律を守っているかどうか。

事故の原因が、何だったのか。

何も確認しないまま、「この会社は不法外国人を雇っている」という言葉だけが

独り歩きしていた。

その日から玲央は眠れなかった。


土曜日。


タイムラインが、少しずつ静かになっていた。

新しい炎上が始まっていた。

政治家の失言。芸能人のスキャンダル。

昨日まで「許せない」と言っていたアカウントが、別の「許せない」に移っていた。


玲央はそれを確認してから、

スマホを充電ケーブルに繋いで

ベッドの上に放り投げた。


ベランダの外は、普通の土曜日の午後だった。

自転車で走る中学生。コンビニに向かう親子。

誰も、何も知らない顔をしていた。

(6日後には、誰も覚えてない)

怒りではなかった。

ただ、そういうものだと思った。


日曜の朝。

いつもなら、この時間はまだ寝ているか

友達と約束の場所へ向かうはずだった。

玲央は目が覚めたが、外に出る気にはなれなかった。

理由はわからなかった。


テレビをつけると、ちょうど始まるところだった。

週末の朝の報道番組。

穏やかでさわやかなオープニング映像と番組BGM。

コメンテーター席に、顔なじみの顔が並んでいる。

この番組は知っていた。

「偏りが激しい」「歯に衣着せぬ発言」で知られる、日曜の顔だった。


「——さて、今週も気になるニュースを取り上げます」

司会者が、フリップを挙げる。

「今週、SNSで大きな話題になりました。駅前の事故。

 高校生が応急処置に疑問視」


「ああ、これね」

アナウンサーの説明とVTRが流れた後、

真ん中の男性が、少し前傾みになる。

この番組で一番「発言力がある」人物。

玲央には、名前を知る気力もなかった。


「最初は"美談"として流れてたんですけどね。

 でもよく見ると、いろいろ問題があって」

「まず、応急処置の内容。

 信頼できる知り合いの専門家から聞いたけど、頸椎の固定方法が

 不適切だった可能性がある。

 ネクタイを使ったと報道されてますが——

 これ、下手をすると損傷を悪化させるんですよ」


「えっ、そうなんですか」


「それから、もう一つ気になるのが——」

男性は、一拍置いた。

「この事故、加害者側の運転手について、

 ネットではいろんな情報が出てますよね。

 真偽は分かりませんが——

 もしそれが事実だとすれば、在留資格の問題、保険の問題、

 いろんな問題が複合的に絡んでくる」

「確かに、そうなると話が変わってきますよね」

「そういうこと。

 だから単純に"高校生がんばった"で終わらせていいのか、

 という問題提起は、必要だと思うんですよ」


隣の女性コメンテーターが、神妙な顔で頷く。

「でも、高校生の行動自体は……」


「いや、そこなんですよ」

男が遮った。

「感情は理解できます。

 咄嗟に動いた、それは分かる。

 でも——結果的に被害者を重体にしているわけでしょう。

 "善意だったから"で、全部免責されるべきなのか。

 そこは、ちゃんと議論すべきだと思いますよ、私は」

スタジオが、しんと静まった。


司会者が「重い問題ですね」と言って、次のコーナーへ移った。


玲央は、リモコンをテーブルに置いた。

テレビを消した。

部屋が静かになった。


(「結果的に被害者を重体にした」)

その言葉が、部屋の中に残った。

蓮を重体にしたのは——トラックだ。

玲央が庇われた結果、蓮がトラックに弾き飛ばされた。

でも画面の中では、それが——

「高校生の応急処置が被害者を重体にした」

という話に、すり替わっていた。

——

耳の奥で、蝉の声がした気がした。

いや、違う。

聞こえているのは記憶の中の音だった。


あの日の帰り道。

横断歩道の端に倒れた不思議くん。

通報を済ませた大人たちが、輪を作って見ていた。

玲央が駆け寄ろうとしたとき——


「触るな。下手に動かすと危険だ」


あのとき、不思議くんはまだ意識があった。

「助けて欲しい」「水が欲しい」と言っていた。

誰も手を伸ばさず、水ですら与えなかった。

——


(同じだ)

形は違う。

声の大きさも、媒体も、時代も違う。

でも、構造は同じだ。


批判だけして、代わりに何かをするつもりはない。

「可能性がある」「議論すべき」「真偽は分からないが」——

あらゆる言葉を使って、「何もしないこと」を正当化する。


あのとき制止した大人も、

スタジオのコメンテーターも、

デマを流したアカウントも——

全員が、「避けて通り過ぎた」側だ。

祭司も、レビ(びと)も、現代では高いスーツを着て、スタジオの高級な椅子ににふんぞり返りながら座り

タカを括って誰かの「代弁」をする。

(それが「ジューディッシュ・マジョリティー」だ)

玲央は、しばらく動かなかった。


月曜日の朝。


「久々の登校っていうのに、ざまぁーねーな」


洗面台の鏡に映る自分は、目の下に薄いクマができ、やつれていた。

6日間で、随分と細くなった気がした。

最低限の身支度を整え、玄関に出る。


世界は、小5のときから変わっていない。

変わったのは、自分が「裁かれる側」に回ったということだけだ。

それでも玲央にできることは、一つだけあった。

スマホを取り出し、何人かを選択して時間付きメッセージを送る。


《放課後、正門前》

《来れるやつだけでいい》


6日ぶりに、玄関のドアを開けた。

外の空気は、思ったより普通の温度だった。

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