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第1話「※夏は、誰かのために鳴る」

※一部衝撃的なシーンが含まれます…

六月の終わり。

校庭の空は、夏を待ちきれないように青くて、けれど風だけがまだ春の名残を引きずっていた。


「……生徒会室って改めて思ったんですが、こんな静かなんですね」


野中 蓮は、室内の妙な重苦しさに肩をすくめながら、机の角に寄りかかった。

広すぎる机。高すぎる椅子。遠すぎる距離感。

どれも、これまでの“自分の居場所”とは、どこかズレていた。


「ん?何か言った?」


声をかけてきたのは、端の席にいる生徒会長・山本 結衣だった。

端正な顔に揺れる髪。制服の袖口にはピンと折り目が入っていて、

“選ばれた人間”の象徴のような存在感が、今日も変わらずそこにあった。


「…いや、なんでもないっす」


「ふーん。けど、あたしはこういう時間がすきだったりするけどね」


そう言って、結衣は興味なさげに視線を戻す――ようで、目線の端っこでしっかり見ていた。

まるで獲物を観察する猛禽類。たぶん、そういうところも“生徒会長”っぽい。


──蓮は、正式的に“生徒会特別参与”になってから2ヶ月ほど経った。


そして、元々その席にいたのは、東條 玲央。

今は休学中。校内の噂では「精神的な不調」「家庭の都合」などがあるが……どれも真偽不明だ。


その“空席”に、蓮が推薦され、そして「前例なき」抜擢を受けた。

地位協定が停止されてから、初の“オタク生徒”の参画。


当然、最初は反発もあった。

「見た目が地味」「過去が不明瞭」「何がしたいのか分からない」――


けれど、彼の名は文化祭の一件とサッカー助っ人の“逆転勝利”が、すべてを変えた。


「結果を出したなら、いいんじゃね?」

「少なくとも“やらせじゃなかった”のは、認めるよ」


──気がつけば、蓮は「オタクなのに、イケメン枠」みたいな扱いになっていた。


本人の自覚は、薄い。

けれど、以前より“孤独”ではなくなった。


生徒会にいても、アニメの話はできる。

放課後には、相変わらずオタク仲間と論争して、

「神アニメは一作に絞れない」とか「エンディングで全て台無し理論」なんて言い争っている。


だけど――


この場所だけは、まだ、どこか呼吸が合わなかった。


蓮は、結衣の背を見つめる。

彼女はいつも、遠い。


玲央がいた頃の席に、自分がいる。

それはきっと、“まだ認められていない証拠”なのかもしれなかった。

結衣が視線を落としながら、会議資料の束を指先で整える。

静かな声だったが、その場の誰よりもよく通る。


———

生徒会定例会議

学年代表・各種委員長などが出席している。


「では、次の議題に移ります。今年度の文化祭についてです」


副会長の望月 柚愛が資料の束を指先で整えながら言った。


「昨年度は……ご存じの通り、例年とは異なる形での開催となりました。

 今年の方針について、各委員からご意見をいただきたいと思います」


ざわ、と軽いざわめきが生徒会室に広がった。


「昨年と同じ形式でいいんじゃないですか。結果は出てましたし」

「でも、あれって特例だったよね。正式な手続き踏んでたの?」

「踏んでたでしょ、確か……」


歯切れの悪い声が続く。

蓮は、資料を見ながら黙っていた。


──ああ、そうか。この空気だ。

玲央が仕切っていた頃の生徒会は、もっとピリピリしていたらしい。

けれど、俺たちには関係なかった。

生徒会で何が決まろうと、地位協定がどう動こうと、

アニメは毎週放送されるし、ゲームアプリの新シナリオ実装日は変わらない。

対岸の話だった。ずっと。

(それが今、俺が「対岸」に立っている)


「それで、野中参与。君の意見は?」


唐突に、結衣が蓮を名指した。

数名の視線が、チクリと刺さるように集まる。

(え、ここで俺?)


「あなたは昨年の文化祭を、実際に動いた側として知っている。

 外から見たこの会の"温度差"についても、含めて」


言い方こそ穏やかだが、内容は"爆弾"に近い。

蓮は一度だけ呼吸を整え、ゆっくりと口を開いた。


「……昨年の文化祭、正直に言うと、最初は誰も本気じゃなかったと思います。

 でも、何かが動き出したら、みんな本気になってた。

 "形式"じゃなくて、"本気になれる理由"があったから、ああなったんじゃないかと」

「つまり?」

「今年も、形式を引き継ぐより先に、"本気になれる理由"を作る方が早いと思います」


誰かが「あー……」と口を開き、

数名が頷きかけたそのときだった。


「……昨年の経験を、"参与"として引用されるのですね」


紙をそっと閉じ、穏やかな声で言ったのは、長谷川カレン。

赤髪がさらりと揺れ、会議室の空気がほんのわずか変わった。


「とても興味深いご意見だと思います。

 ですが、ごめんなさい。

 あの文化祭は……どなたが書いたかは知りませんが、"異例"として記録されていました。

 それを今年度の基準として扱うには、より慎重な判断が必要かと」


その口調はあくまで優しく、微笑みさえ含んでいた。

だが、その笑みの奥には、冷たい温度が潜んでいた。

蓮はわずかに苦笑する。


「……あの文化祭は、"異例"なんですね」

「いいえ。少なくとも一部の人にとっては"特別だった"という意味です。

 だからこそ、慎重に扱うべきだと、私は思います」


静かに、しかし確かに——彼女の瞳は、蓮を測っていた。

沈黙が一瞬だけ場を支配しそうになった時——


「いいのよ。

 この"緊張感"があるからこそ、バランスは保たれてる」


結衣の言葉が、すべてを凪ぐように締めくくった。

そして会議は何事もなかったかのように、次の議題へと進んでいく。


──蓮の“生徒会特別参与”としての最初の2ヶ月は、

ようやく輪郭を持ち始めたばかりだった。


ーーーー

「……では、本日の議題は以上となります」


柚愛の言葉とともに、生徒会室にささやかな安堵が広がった。

資料の音、椅子を引く音、誰かの小さなため息。


蓮も軽く背を伸ばし、ペンを置いたそのとき――


「ひとつだけ、補足させていただいてもよろしいでしょうか」


柔らかな声だった。

けれど、その場にいた誰もが、緊張を再び背筋に走らせる。


長谷川カレンが、すっと立ち上がる。


「この生徒会は、かつて“オタク・イケメン間に関する地位協定”という暗黙の秩序のもとに機能してまいりました。

 その体制は是か非か、多くの議論を経て、今は“停止中”という扱いとなっております」


蓮を含め、数人が無意識に息を飲む。


「ですが、体制が変わっても、人の見る目は一朝一夕に変わるものではありません。

 自由とは、ときに誰かを傷つけることさえ“許す”構造です。

 それゆえに、秩序とは、自由を抑えるのではなく、“守るための線引き”であると、私は考えております」


最後の一文は、まるで詩のように響いた。

誰も口を挟めなかった。


「……それでは、失礼いたします」


一礼して退室していくカレンの姿は、静かで、どこか冷たい美しさを持っていた。


会議が完全に解散し、空になった生徒会室。

蓮が荷物をまとめていると、ふと後ろから声がかかった。


「“秩序は、自由を守るための線引き”。……いい表現よね」


山本結衣だった。いつもの落ち着いた声。

けれど、その口元にはほんの少しだけ皮肉が滲んでいた。


「でもね、蓮くん。

 君は、“その線の外”から入ってきた子。

 誰よりも慎重に、誰よりも器用に、歩かないと――足元、すぐ崩れるから」


蓮はその言葉の意味を測りかねて、ただ「はい」と頷くしかなかった。

結衣は笑わずに言った。


「……今回の定例会議。参与としては、合格点よ。

 けれど、“君自身”としての評価は、まだ白紙。

 だから、ちゃんと見せて。

 ともみが託した「君がここに立つ意味」を、ね?」


それだけ言い残して、結衣もまた静かに扉を閉じた。

生徒会室を出たあと、蓮は少しだけ足を止めた。



──なんとなく、帰る気になれなかった。


他の生徒たちはもう昇降口へ向かっていて、廊下は夕暮れの色を帯びている。

放課後の校舎は、どこか懐かしくて、寂しさと静けさが混ざり合ったような空気があった。


ふと、音楽室の前を通りかかると、

ドアのすき間から、微かに“カチャ”という譜面台の音がした。


「……西村さん?」


ドアを開けると、そこにはクラリネットをケースに仕舞っている西村 美鈴の姿があった。


彼女は制服の上に薄手のカーディガンを羽織り、髪を結い直す途中だったようだ。

その手が、彼に気づいてぴたりと止まる。


「あ、……野中くん。生徒会、おつかれさま」


「うん、なんか、よく分かんないまま終わったよ。

 ……片付け、手伝うよ」


「えっ、いいの? でも、もう終わりそうだよ?」


「いーの。音楽室、涼しいから」


軽く冗談めかして言いながら、蓮は机を整える手伝いを始めた。

椅子をそろえ、譜面台を畳み、エアコンと電灯を切った。


「……ありがと。

 野中くんがここにいるの、なんか、ちょっと不思議」


「俺も。ていうか、俺の方が“こっち側”に来たって感じかな。

 西村さんってさ、前から変わらないよね。部活も、雰囲気も」


「そう? わたし、けっこう迷ってるけどな。

 前は、“応援する側”だったのに……」


そう呟いて、美鈴は笑う。

でもその笑顔は、どこか影のようなものをまとっていた。


蓮は少しだけ、何かを言いかけて、やめた。

その代わりに、ほんの少しだけ肩を並べて片付けを終えた。


「じゃ、帰ろっか」


「うん」


昇降口を出ると、風が生ぬるく頬を撫でた。

通学路は、もうすっかり人通りが少なくなっていて、ふたりの足音だけが静かに響いていた。


話すでもなく、黙るでもなく。

でも、ちょうどいい距離感。


やがて、電車の最寄り駅に着くと、

蓮が少し前に出て、ドアの前で振り返る。


「じゃ、西村さん。……また」


「うん。また、学校で」


手を軽く振って、改札を抜けていく彼女の背中を見送る。


──


部屋に戻ると、蓮はベッドに教科書を放り、

パソコンの電源を入れた。


通知がいくつか溜まっていたが、スルー。


宿題をこなして、オンライン講習を再生。

2倍速で流し見しながら、サブモニターには今季アニメの新着リスト。


「うわ、また4話まで溜まってんじゃん……」


とぼやきながら、イヤホンを差し込む。


──それが、彼の“日常”だった。


でも、ほんの少しだけ。

“あの音楽室での時間”が、いつもより心に残っていた。



朝の空気は、思っていたより少し肌寒かった。


ランニングを終えた蓮は、額の汗を拭いながら、住宅街の坂道を下っていく。

この時間だけは、何も考えずにいられる。

アニメも、地位協定も、生徒会も、過去も、未来も――。


家に戻ってシャワーを浴び、制服に着替え、

母親が用意した少ししょっぱめのミネストローネと、トーストで朝食を済ませた。


テレビでは何かニュースをやっていたけれど、蓮はそれを見ずに、玄関を出た。


──


最寄りの商店街角、いつもの待ち合わせ場所。


「あ、来た来たー」


手を振ったのは藤井 拓真。

その隣にいる佐藤 涼子が、少し照れくさそうに笑っている。

そしてふたりは――手を繋いでいた。


「…おは、って…おいおい。

 それ、俺へのあてつけデスか? 末永くお幸せに。そして爆発しろ」


「お前、やっぱツッコミ古いな」


「ふふ。蓮って、ちょっと親父っぽいとこ、あるよね」


「やかましい。俺の心は最新鋭だ」


そんな掛け合いを交わしながら、三人で改札へ。

程なくしてホームに入ってきた電車に乗り、学校最寄りの駅へと向かう。


──


改札を抜けた先、桜並木の下。


待っていたのは、西村 美鈴だった。


彼女は制服のリボンを指で軽くいじりながら、

蓮たちを見つけると、ほんのり笑顔を見せた。


「おはよう。ちょうどよかった」


「おっ、美鈴じゃん!待たせちゃった感じ?」


「ううん、今来たとこ」


蓮は軽く目礼し、並ぶように歩き出す。


四人並んだのは、少し久しぶりだった。


──


そのとき、すぐ後ろを歩いていた別の生徒たちの声が、風に乗って聞こえた。


「ねえ、知ってる?レオ様、復学したらしいよ」


「え、マジ?っていうか“様”て……」


「え、えー……戻ってくんの?」


一瞬、誰も言葉を発さなかった。

足音だけが、アスファルトに等間隔で響いた。


蓮は、誰よりも無表情だった。

拓真は、眉をわずかにひそめた。

涼子は、無言のまま持っているカバンを少し強く握った。

美鈴は、少しだけ口を開きかけて、閉じた。


誰も何も言わなかった。

ただ、歩調だけが、わずかに乱れていく。


──それぞれの心の奥に、“あの日”の記憶が蘇り始めていた。


校門をくぐって、しばらく歩いた頃だった。



「……おはようございます」



その声は、思っていたよりも、ずっと澄んでいた。


振り返ると、そこに立っていたのは――東條 玲央だった。


制服は一見、他の生徒と変わらない。

だが胸元には専科生特有のバッジ。足元の革靴は新品。

そして何より、表情にあった“鋭さ”が、今はどこにもなかった。


「拓真、久しぶりだな」


「……ああ。元気そうで何より」


「まぁ、ね。……専科はこっちだから。じゃ、また」


それだけ言って、玲央は静かに踵を返す。

まるで、何事もなかったかのように。


けれどその背中に、拓真も涼子も、美鈴も、そして蓮も――何も言えなかった。


──


その後、蓮は一人、1組の教室へ。

他の3人は3組へと別れ、いつもの“日常”に戻っていった。


蓮の席は窓際。

風がちょうどいい角度でカーテンを揺らしていた。


「おー、ノナカきたか。昨日のアニメ見た?」


そう声をかけてきたのは、隣のクラスにいるオタク友・丸山。

今日はやや眠そうな目で、スマホを操作しながら口だけ動かしていた。


「見たけど、あのCパート反則だろ。

 前半で泣かせて、後半で声優ネタぶっこんでくるとかズルいって」


「な、なー! 俺、うっかり課題やりながら見てたけど、ペン止まって、何度も見返したわ!」


「お前はいつも止まってるけどな」


「うるせぇ、心は走ってんだよ、バカ」


そんな軽口を交わしていると――


バンッ、と教室のドアが開く音がした。

廊下から、西村 美鈴が駆け込んできた。


「――野中くん!」


「……えっ?」


彼女は息を切らしながら、手にした小さな包みを掲げた。


「お母さんから聞いたよ。お弁当、忘れたでしょ?」


そう言って、手作りのお弁当箱をそっと差し出す。

蓮は、それを受け取ることすら一瞬ためらうほど、呆気に取られていた。


「……まじで、ありがとう……」


「ふふ。今日もがんばってね。じゃ、行ってくるね」


微笑んで手を振ると、美鈴はそのまま走り去っていった。

ドアの奥、静かな廊下に戻る足音だけが響く。


──そして、教室内。


「……ちょ、今のなに……」


「え、え、え!? おまっ、お弁当!? え、え!? あの西村さんが!? 手作り!?」


「ノナカ……俺たちへの、あてつけか?爆発しろ!!」


「うっさいっ!!」


蓮の声が、教室の天井に跳ね返る。

それでも、顔の熱はおさまらなかった。

窓の外には、まだ梅雨明け前の青空が広がっていた。


昼休み。

教室の窓際には、じんわりとした夏の光が差し込んでいた。


蓮は机の上に、先ほど渡されたお弁当をそっと置いた。

淡い色の風呂敷をほどくと、中からは丁寧に詰められた数種のおかずと、小ぶりの俵型おにぎり。


「……うわ、ちゃんとしてる……」


見た瞬間に、そう思った。


冷めても固くない卵焼き、彩りのバランス、さりげなく入っている梅干し。

味より先に、“想い”が伝わってくる弁当だった。


「なにそれ……っ!?」


隣から、声が飛ぶ。


城島と丸山だった。

箸を持ったまま固まり、城島は食堂のお弁当に対し、

丸山は明らかにコンビニのミニチャーハンとカップスープという貧相な布陣の前で嘆いていた。


「さすが西村さん。ちゃんとバランスよく考えている。

 僕の彼女でもそんなことしませんよ。」


「えっ、なに? 彼女? え? 彼女かよ!? ノナカてめぇ……!」


「うるせぇ、声でけぇよ。あと彼女じゃねぇし」


「じゃあ俺に食わせろッ!!恵んでくれ」


「だが断る」


丸山の悲鳴が教室の端にまで届いたところで、蓮は静かに箸を手に取った。


──そして、一口。


ああ、と思った。

ちょっとだけ塩が強めの卵焼き。

苦手じゃない。むしろ、好きな味だった。


ごはんも、冷めてもちゃんとほぐれるように炊かれてる。

梅干しは、たぶん甘めのやつ。

全体が、蓮の好みにすごく近い。


「……なんで、知ってんだろうな」


ぼそっと呟いてから、ポケットのスマホを取り出す。

メッセージアプリを開いて、“西村美鈴”のトークを選ぶ。


《お弁当、ありがとう》

《すごく美味しかった》

《っていうか、なんで俺の好み知ってんの》


送信ボタンを押すと、すぐに“既読”がついた。

返信は、そんなにかからなかった。


《ふふ。サッカー試合後の夕食会、オタクトークの中で、時々言ってたことを覚えてた》

《「みさき」ちゃんのキャラが好きな味付けと、蓮くんの好みが似てるって》

《でもあのままだとそっけないから、少しだけアレンジしてみました》


「……えっ、俺、そんなこと言ってたっけ」


蓮は軽く頭を掻いた。

自分でも覚えてないようなことを、ちゃんと覚えてる人がいた。


そのことが、少しだけ嬉しかった。



午後の授業が終わり、廊下にざわつきが戻る頃。

蓮は、机の中にしまっていた空のお弁当箱をカバンに入れて、立ち上がった。


教室を出ようとしたその瞬間――


「「野中くん」のお弁当箱、回収に来ました」


後ろから声がした。

振り返ると美鈴が、少しだけ息を切らしながら立っていた。


「あっ……これ、ありがとう。洗って返すよ」


「ううん、もういいの。返す前に、また明日忘れるかもしれないから」


「いや、俺そんな連続で――」


言い終わる前に、

美鈴の手が、ふわりと蓮の手からお弁当箱を取った。


柔らかい動きだった。けれど、それは確かに“先手”だった。


「次、忘れたらね」


「うん?」


「もっとすごいの、出てくるから……ふふ」


彼女はそう言って、胸の前でお弁当を抱えるように持ち直し、

クラリネットケースのストラップを肩にかけ直した。


「じゃ、部活行ってくる。蓮くんも、生徒会?」


「……たぶん、顔は出すかな。結衣先輩に呼ばれてるし。」


「そっか。じゃあ、また明日」


夕陽を少しだけ含んだ微笑みを残し、

美鈴は階段を軽やかに降りていった。


音楽室へ向かう、その背中。

蓮はしばらくその場に立ち尽くしていた。

──なんとなく、

「また明日」が、今日だけ特別に思えた。

都市の夕焼けに沈む、校舎から歩いて15分ほどの駅前。

信号機は、赤を示していた。


蓮は歩道の端で足を止め、信号の切り替わりを待っていた。

イヤホンもつけていない。スマホも見ていない。

ただ、真っ直ぐ前を見ていた。


そんな彼の背後に、革靴の足音が近づいてくる。

距離が、止まった。


「……お前さ」


声をかけてから、その男は少しだけ黙った。

蓮は振り返らなかった。

ただ、信号の赤を見たまま、少しだけ肩が動いた。


「まだ勘違いしてんじゃねーの?

“戻ってきた”とか、“誰かに必要とされてる”とか

……あんだけのことをしてやったのに、ここにいていいのか、って、思わないのか」


振り返らずとも、誰だかは分かった。

その声、その圧、そしてその立ち方。


──東條 玲央。

今日も制服の襟は正しくない。だが、その立ち姿だけは“専科生”としての誇りを背負っていた。


蓮はしばらく答えなかった。

それから、静かに口を開いた。


「思ったことは、ある」


「……そうか」

「でも今は、あんまり思わない」


「……言ってなかったっけ?

ここは“お前の居場所じゃねえ”んだよ、野中 蓮」


皮肉交じりに笑いながら、玲央は隣に並ぶ。

信号はまだ赤だ。


「まあ、無理して生徒会に顔出してくれて感謝。でもな…

俺たち、“正しい奴ら”は、ちゃんと“間違ったやつ”を始末しねえとな」


(……ほんとに、変わらないね)


蓮は、言い返さなかった。

ただ、目を伏せて、軽く息を吸う。


──そして、信号が青に変わった。


玲央が、数歩片足を前に出す。

その瞬間だった。



「――玲央、下がれッ!!」



蓮の叫びが響く。


玲央の視線が、わずかに横を向く。

次の瞬間、大型トラックが、ブレーキ音を立てながら突っ込んでくるのが視界に入った。


「っ……!」


動こうとした。

だが、足が、遅れた。


その前に、蓮が駆けていた。

まっすぐに、玲央の肩に手をかけ――押し倒した。



「っの――!」



重なった身体が歩道側に倒れる。

そして。


「バンッ!!」


肉がぶつかる音。

骨が砕けるような音。

そして、誰かの名前を呼ぶ声も、叫び声も、何もかもがかき消えた。


──蓮の身体は、宙を舞っていた。

弧を描くように、駅前ロータリーの先に投げ出され、

軽自動車のリアガラスに背中から叩きつけられ

その場で倒れた。


その一部始終を、玲央は見ていた。


動けなかった足。

遅れた判断。

守られた自分。


そして、血を流して倒れる(かれ)の姿だけが、世界の中心に焼きついた。


玲央の腰が、地面にぶつかったときの痛みも、

遠くで誰かが叫んでいる声も、

トラックのクラクションも、

すべてが“無音”になった。


 (なんでだよ、蓮……っ)


震える手で、地面を這うようにして立ち上がる。

そこには、もう“からかい”も“地位”もなかった。



ただ、ひとつの命が、守ろうとした“誰か”の姿だけが、そこにあった。



──幾多の願いが一つの木に飾ったその日。

“秩序”は、沈黙した。

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