第11話「※それでも、好きだったから」
机の上に置かれた一枚の封筒が、やけに存在感を放っていた。
真っ白な角2サイズの封筒には、無機質なゴシック体でこう記されている。
「防衛省・自衛隊中央病院」
佐藤 涼子は、それを斜め前からじっと見つめていた。
指先はペンを持ったまま止まり、宿題のプリントには書きかけの文章が固まったまま。
──まるで、自分の気持ちごと、フリーズしてしまったみたいだった。
ふと、視線が机の端に置かれた通学カバンへと向かう。
そのファスナーの引き手に、小さなキーホルダーが揺れている。
ピンク色のイルカ。
鈴のついた、安っぽいゲーセンの景品。
涼子は、そっとそれに触れた。
──中1の、県予選前。
ゲーセンのUFOキャッチャーで、何度やっても取れなかった、このイルカ。
小銭が尽きかけて、もうやめようと思ったとき。
「……貸して」
そう言って、蓮が一発で取ってくれた。
景品を手のひらに乗せて、何も言わずに去っていった、あの背中。
あの夜、わたしはスケッチブックにこのイルカを描いた。
気づいたら、その隣に……あの人の横顔も、描いてた。
──あれが、始まりだった。
それから、ずっと。
このキーホルダーは、通学カバンの定位置にいる。
お守りみたいに。
わたしの「好き」の、いちばん最初の形として。
「……ばかだなあ、わたし」
指先で鈴を、ちりん、と鳴らしてから——涼子は小さく息を吐いた。
蓮が、あそこに運ばれたって知ったとき。
頭では「もう私の出番は終わりだ」って、ちゃんと分かってた。
そもそもあの書類は、山本先輩がこっそり私に託してくれたものだった。
「リカバリー棟は、外部からの面会は厳しく制限される。
でも、この許可証があれば——君は、いつでも会いに行ける」
そう言って、先輩は封筒を私の手に握らせた。
いつでも、会える。
何度でも。
この封筒さえあれば。
——でも。
私は、決めていた。
使うのは、一度きり。
理由は、自分でも、うまく言葉にできない。
ただ、なんとなく——
何度も会ってしまったら、きっと、止められない気がした。
だから、一度だけ。
そう決めたのに——
気づけば、まだ、その封筒を開けてもいない。
わかってるよ。
たぶん、美鈴ちゃんのことなんだって。
今、あの人の演奏が蓮に届くなら、きっとそれが一番いい。
一番まっすぐだし、一番綺麗だし、一番ドラマチックだ。
私が出ていく必要なんて、どこにもない。
あの二人の間に、割って入れる余地なんて……ない。
──でも。
どうしても、心の奥にまだ残ってしまう。
ほんの少しでもいい。
もう少しだけ、あの人の“そば”にいたいっていう気持ちが。
あの人の“好き”の一部でありたかったっていう、みっともない未練が。
涼子は、もう一度だけイルカの鈴を、ちりん、と鳴らした。
「はぁ……」
深いため息とともに、涼子はようやくペンを置いた。
眼鏡を外して、そっと両手で顔を覆う。
息を整えるようにしてから、椅子を引いて立ち上がった。
「明日は……忙しくなる」
自分にそう言い聞かせるように呟いて、
ベッドに向かって、ゆっくりと歩き出す。
部屋の灯りを落とす前、もう一度だけ振り返った。
机の上に置かれたあの封筒が、ほんの少しだけ光を反射している。
まるで──まだ“可能性”がそこにあるとでも言いたげに。
涼子は、その光に背を向けて、そっと布団をかぶった。
「……おやすみ、蓮」
誰にも聞こえない、小さな声だけが、部屋に残った。
いつもの朝。
いつもの教室。
いつもの顔ぶれ。
……のはずなのに、そこにいる涼子だけは、まるで違う世界にいるみたいだった。
「……おい、涼子?」
教室の窓際、三組の男子列の中央。
藤井 拓真は、プリントを配りながら足を止めた。
涼子の机の上には、今日の予定表が裏返しのまま置かれている。
ペンもノートも手つかず。代わりに、彼女の目だけがどこかをぼんやりと見つめていた。
「さっきから返事ねぇし、ページも進んでねぇし……どうした?」
涼子は、はっとして顔を上げた。
だが、焦点はまだ戻っていない。
「……あ、ごめん」
「なんかあったか?」
拓真の問いに、少しだけ間を置いて、彼女は小さく首を横に振った。
「……先生には言ってあるけど午後、ちょっと抜けるから」
それだけを伝えると、再び机の上に視線を落とす。
拓真はそれ以上は何も聞かず、配りかけたプリントをそっと机に置いた。
近くにいた美鈴が、ほんの一瞬だけそのやりとりを見つめていたが、何も言わなかった。
授業が始まっても、涼子のペンはほとんど動かない。
時おり黒板に目を向けるものの、内容が頭に入っている様子はなかった。
チャイムが鳴り、午前中の授業が終わったとき――
彼女は音も立てずに立ち上がり、カバンを肩にかけた。
誰とも目を合わせずに、静かに教室を出ていく。
その背中を、拓真は一度だけ振り返った。
だが、呼び止めることはなかった。
昼下がり ― 自衛隊病院前
門の前に立つ涼子は、封筒を胸に抱えながら、ゆっくりと深呼吸をした。
目の前に広がるのは、一般病棟とは違う、少し冷たい空気の流れる施設。
それでも――もう、引き返さない。
「行こう、佐藤涼子」
自分の名前を自分で呼ぶようにして、一歩、足を踏み出した。
自衛隊病院のロビーは、民間の病院とは違う空気があった。
白を基調とした壁と床、壁掛けのデジタル時計、そして受付カウンター。
それぞれがきちんと整備されているのに、不思議と“やすらぎ”というものが感じられない。
まるでそこにあるのは、“人”ではなく“情報”のようだった。
涼子は、少し汗ばんだ手で封筒の中から一枚の紙を取り出し、
受付に立つ女性職員へ静かに差し出す。
「……この、特別許可証で……野中蓮さんとの面会を」
女性職員は、表情を変えることなく書類を受け取り、端末に通す。
確認が終わると、丁寧な口調で告げた。
「確認いたしました。書類に不備はございません。これで野中様との面会が可能です」
「……はい」
涼子は返事をした――つもりだった。
だがその声はあまりにもか細く、ロビーの雑音にかき消されていた。
職員が小さく首を傾げる。
「……どうされました?」
目の前の少女の顔が、明らかにどこか“現実”と乖離していることに気づいたのだろう。
それでも、医療機関の職員としての丁寧さを保ちながら問いかける。
「……あの、面会希望を……もうひとり、できれば……」
言葉を切りながら、涼子は言った。
口にした瞬間、自分でもそれが“駄目なお願い”だと分かっていた。
「……申し訳ありませんが、それはできかねます」
職員の声は、あくまで穏やかだった。
ルールを告げることに、怒りも冷たさもなかった。
ただ、彼女はその目の奥に「それでも、誰かと一緒に行きたかったのですね」と言いたげな気配を宿していた。
「……そう、ですか」
涼子は、ほんの少しだけうつむき、
静かに言葉を落とした。
「やっぱり……辞退します。すみません……」
一瞬、沈黙が流れた。
職員は何かを感じ取ったのか、すぐにカウンター内の端末に軽く指示を送り、
立ち上がってカウンターを回り込む。
「……少し、お時間いただけますか?」
その声に、涼子は反射的に顔を上げた。
不安と、わずかな安堵と、感情をうまく処理できないままの目をしたまま、
小さくうなずいた。
ロビーを離れ、涼子は職員のあとをついて歩きながら、
自分の足取りがどこかふわふわとしていることに気づいた。
まるで、夢の中を歩いているみたいだ――
現実のはずなのに、現実感がない。
廊下の奥にある、ひとつの無機質な扉が、そっと開かれる。
涼子は深呼吸ひとつだけしてから、その中へと足を踏み入れた。
無機質な白と淡いブルーの壁紙。
壁にかけられた島を背景にした輸送ヘリの抽象画と、観葉植物。
それらがある程度の“人間らしさ”を演出しようと試みているものの、この空間が病院であることは隠しきれない。
テーブルには、職員が用意したペットボトルの水が2本。
涼子は、そのうちの1本のキャップにすら、まだ手をつけられずにいた。
やがて、扉がノックされる音。
職員が立ち上がり、扉を開けると、一人の女性が入ってきた。
落ち着いた色のスーツに、やさしい微笑。
髪は肩で切り揃えられ、名札には「臨床心理士・矢島」とある。
「はじめまして、佐藤さん。矢島と申します」
「……よろしく、お願いします」
涼子の声はかすれていた。
彼女自身も、それに気づいて少しだけ眉をひそめる。
矢島は、机の向かいにゆっくりと座ると、柔らかな声で言った。
「無理に話さなくても大丈夫ですよ。
ただ、ここでは"我慢しない"ことだけ、
ちょっと心がけてみてくださいね」
しばらく沈黙が流れる。
そして――ぽつり、ぽつりと、涼子の声がこぼれ始めた。
「……好きな人が、目を覚まさないままで。
でも、その人の"隣にいるべき人"は、たぶん……私じゃないんです」
矢島は、何も言わずにうなずきながら聞いていた。
涼子の指が、机の下でぎゅっと握られている。
「その子の音が、きっと届いたと思うんです。
だからもう、私は――」
言いかけたその瞬間、堰が切れたように、涼子の目に涙が溢れた。
「でも、まだ好きなんです……どうしようもなく……っ」
矢島は、そっとティッシュの箱を差し出した。
何も言わなかった。
ただ、涼子が泣きやむまで、静かに待っていた。
やがて、涼子の涙が少し落ち着いた頃。
矢島は、職員に目配せした。
職員が、一枚の封筒を取り出す。
そこには、別の名前が印字されていた。
「西村 美鈴 様」
「西村さんにも、面会の許可が出ました。
……もしよければ、これを、彼女に渡していただけませんか?」
涼子は、目を見開いて――
ゆっくりと、矢島の顔を見た。
「……私が?」
「ええ。"彼女に繋ぐ"という役目は――
きっと、あなたにしかできませんから」
少しの沈黙。
そして、涼子の目の奥に、わずかな光が戻ってきた。
「……はい。やってみます」
涙で少し赤くなった目元のまま、
それでも、はっきりとした声で、涼子はそう答えた。
「ありがとうございます……矢島先生」
その瞬間、あの重たい封筒は――
ほんの少しだけ、軽くなったような気がした。
放課後の音楽室には、まだ少しだけ夏の余韻が残っていた。
コンクールが終わったばかりの空気。
達成感とも、虚脱感とも違う、不思議な“空白”が部員たちの間に流れている。
その空白を埋めるように、部長が手短にブリーフィングを始めた。
「えー、では今日から通常練習に戻ります。まだ余韻もあるかと思いますが、次に向けての準備も少しずつ――」
部員たちは、静かにうなずく。
そして、部長が一枚の紙を手に取った。
「ちなみに、パソコン部の佐藤さんからの、今回のコンクールのフィードバック結果ですが
……こちらは後日提出とのことです」
「えっ、あの人までフィードバックくれるんすか?」
「すげー分析されそう……」
「毎秒何Hzでズレたとか言われそう……」
クスクスと、少しだけ笑いが起こる。
その空気の中に、美鈴はそっと佇んでいた。
練習開始の合図。
各自がそれぞれのパートの準備に入る。
美鈴は、クラリネットケースを開けて、慣れた手つきで組み立てる。
何度も繰り返してきたルーティン。
けれど、その手はほんの少しだけ――わずかに震えていた。
口元にマウスピースを当て、息を通す。
「……っ」
音が、出ない。
もう一度、息を入れる。
今度は出たが――違う。
音程が不安定で、どこかざらついた響きが混じっている。
慌ててリードを確認し、リガチャーを締め直し、マウスピースの角度を調整する。
バレル、ジョイント、キーの反応、すべてを一通り確認する。
けれど――ダメだった。
「……ごめん、ちょっとだけ、音出し控えさせて」
後輩たちにそう声をかけると、美鈴はクラリネットを膝の上にそっと置いた。
それを見ていた一年生の部員が、ぽつりと漏らす。
「……やっぱり、あの時の演奏がすごすぎたからですね……」
「クラが疲れちゃったのかも」
部員たちの間に、心配とねぎらいの空気が流れる。
──その時だった。
音楽室の扉がそっと開き、篠原先生が入ってきた。
柔らかな笑みをたたえたまま、クラパートのほうへゆっくりと歩いてくる。
「お疲れさま。あれ? クラリネットの音が聞こえなかったようだけど……どうかした?」
美鈴が何かを答えようとした、その前に――
隣にいた一年生が声を上げる。
「先生、美鈴先輩のクラリネットが、ちょっと調子悪くて……」
「そうだったのね。ありがとう」
優しくうなずいた先生は、美鈴に目を向ける。
「美鈴ちゃん、少し吹いてみてもらえる?」
うなずいた美鈴がそっと構え、再び息を入れる。
……やはり、音は揺れていた。
篠原先生はすぐに反応し、楽器に目を落としながら静かに語る。
「うん……キーの戻り、ちょっと怪しいわね。バネ周りか、タンポの癒着か……
これは、一度ちゃんと修理に出した方が良さそうね」
「……部費で、なんとかなりますか?」
「大丈夫。必要な手続きは私がしておくから、安心して」
美鈴は、ほっとしたように小さくうなずいた。
「……お願いします」
ふと、クラリネットを見つめる。
それは、母親から譲り受けた大切な一本だった。
小学生のころから、何度も一緒に吹いてきた。
悔しかった日も、嬉しかった日も――ずっと、傍にいてくれた。
──ごめんね。
ほんとに、よく頑張ってくれたよね。
あの時、私、どうしても……“届けたかった”んだ。
あなたの音じゃなきゃ、あの気持ちは伝えられなかった。
でも、無理をさせすぎちゃったのかもしれないね。
美鈴は静かにクラリネットをケースに収め、先生に渡す。
そしてその後は、譜面をめくる手伝いや、後輩への音程アドバイスに回り、
今日は“支える側”としての時間を静かに過ごしていた。
リーダーシップではない。
けれど、そばにいることで誰かの力になれる――
そんな姿が、そこにはあった。
それは、ほんの少しだけ、“今までの美鈴”と違って見えた。
薄暮の街を抜け、マンションのエントランスをくぐるころには、
ようやく少し、呼吸が整っていた。
涼子は何も言わず、ただ無言でエレベーターに乗り込む。
病院を出てから、誰とも会話をしていなかった。
「ただいま」を言っても、返ってくる声はない。
妹は自分の部屋でテレビか、ゲームに夢中だろう。
両親は、いつものように遅い。
それでも、部屋のドアを開けた瞬間だけは、どこかほっとする。
自分だけの“静けさ”が、そこにはあるから。
「……陽菜、宿題とか終わった?」
返ってきたのは、隣の部屋から響く、テンション高めの声。
「いまね、友達とオンラインカート対戦してるのー! 次でラスト!」
「そっか。じゃあ、母さんに言っておくね」
「……うぇっ、今からやる! ちゃんとやるってば!」
それっきり、ゲームの音は止まり、数分もしないうちには鉛筆の音が聞こえはじめた。
涼子は何も言わず、少しだけ笑って、自室へ戻っていった。
部屋着に着替え手を洗うと、キッチンに立って手早く夕食の準備をした。
今日は冷蔵庫に入っていた作り置きの煮物と、お味噌汁。
自分の分と、陽菜の分もよそって、簡単な“ふたりの食卓”が始まる。
「いただきまーす!」
陽菜はまだテレビに夢中のようで、口を動かしながら画面を見ている。
「テレビ消して」
「えー、CM中だけ!」
「……じゃあ、食べ終わるまで音量下げて」
「はーい」
そんなやりとりを交わしつつ、ふたりは夕食を終えた。
食器を洗っているとき、ふと涼子は思う。
──この家には、音が多い。でも、悪くない。
その後、涼子は自室に戻り、課題に取りかかった。
目の前のデスクには、病院から持ち帰った茶封筒が置かれている。
中身は、美鈴宛の面会許可書類と、蓮の簡易カルテ。
封筒を開き、プリントアウトされたそれをもう一度見つめ直す。
そして、自分が吹奏楽部向けにまとめていた、「演奏フィードバック資料」。
指揮者のブレス位置、後半パートのノイズ、全体の波形構成、平均音圧、
そして……美鈴のソロにおける「音の揺れ」と「心拍同期反応」。
(……あれは、確かに“感情”が乗ってた。演奏としては、乱れでもある。でも――)
心が、伝わってくる音だった。
“あの人”に、届いてほしいと思って吹いたんだな、って、わかった。
だからこそ、書類には手を加えなかった。
あの一音すら、「修正」なんてしたくなかったから。
ふと、昼間の別室でのやり取りが思い出される。
『よろしければ、野中さんの現在の様子もご案内できますよ?』
そう提案してくれたカウンセラーに、涼子は小さく笑って、
こう答えた。
『……いえ、大丈夫です。一回だけで、十分です』
彼女の目の奥には、まだ余白があった。
でも、それ以上は踏み込まない――そう決めていた。
机に向き直り、書類をそっと重ね直したとき。
スマホが、短く震えた。
画面には、拓真からのメッセージだった。
《……大丈夫だった?》
短く、けれど気遣いがにじむ言葉。
涼子は、少し口元をゆるめて返信を打つ。
《うん、大丈夫。心配させてごめんね》
送信したあと、指を止める。
迷った末に、もう一文、打ち足した。
《……いつも、ありがとう》
そのメッセージを送ったあと、
涼子は深呼吸をひとつして、ブラウザを開いた。
画面を数回タップして、
病院の面会予約システムにログイン。
選択:対象者 → 野中 蓮
選択:時間帯 → 土曜日・夕方(16:00〜16:30)
「……これで、よし」
予約確定の表示を確認してから、スマホを伏せる。
立ち上がり、軽く背伸びをしたあと、
涼子はディスプレイに繋いだままのサブPCを再起動させる。
「さて――もうひと仕事、はじめますか」
画面に映ったのは、吹奏楽部向けのフィードバック編集画面。
佐藤涼子は、静かにタイピングを始めた。
それは誰にも気づかれない、けれど確かに“未来”へ続く作業だった。
晴れた土曜日の朝。
いつもより少し遅く起きた涼子は、リビングで軽く朝食をとり、
そのまま自室へ戻ってきた。
時刻は午前10時半。
蓮との面会は、午後4時。
それまでには、まだたっぷりと時間がある。
けれど――彼女はもう決めていた。
今日は、“ちゃんとした私”で会いに行く。
衣装ケースの奥から、そっと取り出したレース柄の下着。
色は淡い生成りに、わずかにラベンダーの刺繍が施されたもの。
下着を手にしたまま、涼子は一度、ため息をついた。
「……べ、別に、そういうつもりは……ないんだけど」
誰もいない部屋に、言い訳するように小さく呟く。
(……ばかみたい)
分かってる。
あの人は、目を覚まさない。
キスしたって、物語みたいに起き上がったりしない。
そんなおとぎ話、現実には起こらない。
そんなの、ぜんぶ分かってる。
(でも──もしも、の話だよ)
(もし、ほんの奇跡で目を覚まして……
もし、なんてことになったとき。
みっともない格好だったら、いやでしょ)
そこまで考えて、涼子はひとり、顔を赤くした。
王子様のキスで、お姫様が目を覚ます。
そんな話、子どもの頃に何度も読んだ。
信じていた時期も、確かにあった。
でも、もう高校生だ。
そんなもの、ただの作り話だって、知っている。
(知ってるのに)
(なんで、こんなの選んでるんだろ)
自分の中の、たった1パーセントの期待。
99パーセントは「ありえない」と分かっているのに、
その1パーセントが、どうしても消えてくれない。
それが──たぶん、恋なんだと思う。
笑われたっていい。
ばかだと思われたって、かまわない。
今日だけは──
一番きれいな自分で、あの人に会いに行く。
たとえ、目を覚まさなくても。
たとえ、この期待が、ぜんぶ無駄になっても。
顔を赤くしながら、それでも意を決して着替える。
続けて、赤紫色のワンピースを取り出す。
艶やかな深みのある色が、彼女の黒髪と白い肌に映える。
昨年の誕生日に、自分へのご褒美として買ったまま、
一度も袖を通せなかった服。
それをようやく身にまとうときが、今日だった。
動画サイトを開き、
「【初心者向け】 初心者でも失敗しない。モモカ式ナチュラルメイク」
そんなタイトルの再生ボタンを押す。
画面の通りに下地を塗り、コンシーラーを使い、ビューラーでまつげを上げる。
アイシャドウは少しだけ。
リップは色付きの保湿タイプをほんの少し。
慎重すぎるくらいの“ナチュラル”だけど、彼女にとっては、これが精一杯の“勝負”。
支度が整い、姿鏡の前に立つ。
鏡の中には、普段の“佐藤涼子”とは少し違う――
けれど、どこか“自分らしさ”を残した少女が立っていた。
(……私、こんな顔だったんだ
蓮。覚えてるかな――
中学のとき、ちょっとだけ廊下ですれ違ったときのこと
ほんの数秒だったけど、
私、ちゃんと“好き”って確信して思ったの、あのときだった
ずっと、話せなかったけど。
“好き”って言えなかったけど。
他の誰かの横にいるあなたを見るたびに、
ほんとは、毎日心がぐちゃぐちゃだったんだよ
だから今日だけは――ちゃんと、自分を整えて、
“あなたの前に立つ”って決めたの
たとえ、ただ隣に座るだけでも。
それが、わたしにとっての――好きの証明なんだから)
そのとき、ドアがノックされ、母親が顔をのぞかせた。
「……あら。ずいぶん綺麗にしてるじゃない。
ほら、ここ、チークがちょっと濃いわね。貸してごらん」
手際よくチークの濃さを調整し、前髪をふわっと整えてくれる。
いつもはうるさいだけの“美容室ママ”の手が、
今日はなぜか、すごく優しかった。
「……いろいろ、あったけど」
涼子は鏡越しに、母の姿を見ながら小さく口を開いた。
「私のわがまま、聞いてくれてありがとう。……お母さん」
ほんの少し前、下着や服を巡って言い合いになったのが嘘みたいだった。
「…」
母は何も言わずに微笑んで、そっと背中を押してくれる。
ブーツを履き、ショルダーバッグをかけ、
玄関のドアを開ける。
一度、深呼吸をして――
「行ってきます」
その声には、
ほんの少しの不安と、
そして、ちゃんとひとつ分の決意がこもっていた。
都会の郊外を結ぶ快速電車。
休日の昼前ということもあり、車内は比較的空いていた。
窓際の席に腰を下ろし、車窓の風景にぼんやりと目を向けていた涼子は、
何気なく視線を上げた先で――見覚えのある後ろ姿を見つけた。
(……あれ)
遠目でも分かる、柔らかい巻き髪と、洗練された私服。
白地にベージュを重ねたワンピースに、細めのベルト。
上質なショールと小ぶりのバッグ。
──完全に、「おじさん好み」である。
涼子は立ち上がり、すっとその人物の隣に座った。
「……おじさま達の「手玉」を取りに行くんですか?」
すると、その人物は驚いた様子も見せず、くるりと涼子の方へ顔を向ける。
「『合法的に』だよ。人聞き悪いなぁ、涼子ちゃん」
そこには、
いつもの余裕たっぷりな笑みを浮かべた――山本 結衣がいた。
「むしろ、そっちの方がどうなのさ。
その赤紫のワンピにナチュラルメイク……どう見ても“今からヤリます”って格好じゃん?」
「『合理的に』だ」
即座に返した涼子に、結衣は目を見開いたあと――ふっと噴き出した。
「なにその言い方。新しい武器?」
「最新モデルです。限定仕様、特許出願中」
「なにそれうける」
ふたりはしばし、静かな車内で小さく笑い合った。
電車のリズムに合わせて、会話はゆるやかに進む。
どちらからともなく沈黙になったあと、涼子はふと、隣の先輩の横顔を見た。
そして、すっと頭を下げた。
「結衣先輩。……私達のために、いろいろしてくれて……ありがとうございました」
結衣はその言葉に驚いたように眉を上げたが、すぐに口元をゆるめて返す。
「いいってことよー。どうせヒマだったし、
それに――蓮が復活したら、こき使わせてもらう予定だしね?」
「“新しい彼女”からOK出れば、ですけど」
涼子の声は、どこか含みをもたせていた。
だが、それは嫉妬や対抗心ではなく――ただ、未来への可能性を口にしただけのようにも聞こえた。
結衣もまた、それを理解したように笑い返す。
「ふふん、そのときは任せるわ。面接担当、やっといてよ」
「一問目から不合格にしますけど」
「うわぁー、冷徹様きびしー」
ドアの上の電光掲示板が、次の停車駅を告げる。
結衣は立ち上がり、バッグを肩にかけながら涼子に小さく手を振った。
「じゃ、私ここで。……あんたも、がんばんなさいよ。
“合理的に”でも、“情熱的”でも、“音楽的”でもさ」
「……了解です、“戦略的”に」
「……うわ、強そう」
ふたりのやりとりは最後まで軽やかだった。
結衣が降りたドアが閉まり、
電車は再び静かに走り出す。
窓に映った自分の顔を見ながら、涼子はそっと唇の端を上げた。
今日という日が、ほんの少しずつ、
“いまの私”を形作ってくれている。
そんな気がした。
午後の光が差し込むロビー。
週末の自衛隊病院は、思いのほか静かだった。
高い天井と、静かな空気。
エントランスを抜けて入ってきた涼子は、受付に向かう前に一瞬だけ足を止めた。
誰かに呼ばれたわけではない。
けれど、視線を感じた気がしたのだ。
少し離れた長椅子に、白衣姿の女性が腰掛けていた。
矢島先生。
先日、涼子の心情を受け止めてくれた、あの人だった。
目が合う。
矢島は、何も言わなかった。
ただ、静かに――小さく、頷いた。
「来たんですね」とでも言うような。
それでいて、何も問いたださない、穏やかな目だった。
涼子も、小さく頭を下げる。
それ以上の言葉は、いらなかった。
先生は、わずかに微笑んで、もう一度だけ頷く。
――いってらっしゃい、と。
涼子は、深呼吸をひとつ。
そして、まっすぐに、受付へと歩き出した。
鏡のような床に映るその後ろ姿は、
ほんの少しだけ、昨日よりしっかりとした輪郭を帯びていた。
午後の光が、リカバリー棟の廊下を淡く照らしている。
ナースステーションの視線をやり過ごしながら、
涼子は小さなバッグを肩から下げ、ゆっくりと病室の扉を開けた。
消毒液の匂いと、機械のかすかな音。
空気は静かで、冷たいようで――それでも、どこか“日常の匂い”が混ざっている。
ベッドの上に、蓮がいた。
静かに目を閉じたまま、酸素投与も点滴もすでに外されている。
そして――顔の包帯が、取れていた。
(……やっぱり、あんまり変わらないや)
どこかホッとしたような、拍子抜けしたような気持ちで、
涼子は蓮の顔を見つめて、ぽつりと呟いた。
「ICUのときはさ……なんか、幸せそうな顔してたんだよ」
「“あーこの人、夢の中で絶対いいことしてるな”って。
……で、ここ来てみたら――しおれたおっさんの顔してるの」
返事がないのは分かっている。
でも、話したかった。
涼子はベッドの横の椅子に腰を下ろし、
カーディガンの袖を引きながら、足を軽く組んだ。
「なんかさー……天気、よくなったんだよ。知ってた?」
(「もう、「夏日が終わった」宣言出たってさ。
“思い出づくりの季節、到来”だって」)
「……あたしは今んとこ、病院の廊下と会議室の思い出ばっかだけどね」
蓮の反応はない。
けれど、それでも涼子は笑っていた。
声に出して、何かを伝えることそのものが、彼とつながる手段に思えた。
「拓真がさ、こないだ、
“お前と蓮って、昔から似てるよな”って言ってた」
「……どこが? って思ったけど。
“似てるから喧嘩にならないんだろ”って」
「……それ聞いて、ちょっとだけ、嬉しかったよ。
“似てる”って言われたこと、一度もなかったから」
一呼吸おいて、ふっと肩の力を抜く。
少しだけ硬かった表情が、いつもの“佐藤 涼子”の顔に戻った気がした。
「ま、あたしの方がだいぶ有能だけどね?」
その“冗談”が、彼のどこかに届いていればいいし、届かなくてもいい。
でも、“ここにいた”ってことだけは、ちゃんと残したかった。
次第に、空気がゆっくりと動き出す。
ここから、涼子の“最初で最後のデート”が始まる。
「……というわけで、本日のお相手は、
意識不明・無反応・お返事ゼロの、野中蓮さんです」
そんな冗談をひとつ言いながら、涼子はバッグを開けた。
中から取り出したのは、コンパクトにたたまれたチェック柄のランチクロス。
病室のサイドテーブルの上に、ゆっくり広げていく。
そこに、コンビニで買った一口サイズのお菓子と、
蓮が昔から好きだったブラックの缶コーヒーをそっと置いた。
「お菓子の持ち込みは禁止って書いてなかったし……たぶんセーフ、だよね?」
ひとりごとのように言いながら、自分用の缶を開ける。
ほんのりとした苦味が、口の中に広がる。
その味に、ほんの少し――記憶の中の彼が重なった。
「ねえ、今日さ、“お出かけ”ってことにしようよ」
「病室だけど……ここが、ふたりのデートコースってことで」
涼子はベッドサイドの椅子に座り、
その足元で小さな紙袋を開く。
中には、折り目のついたクラブノートと、ちょっと古びたSDカード。
「これ、中学の時のやつ。
拓真とあんたが、フォーメーションのやりとりしてたの。
私が勝手に複製して、アナログ保存してたんだよね。――変でしょ?」
蓮の反応は、もちろんない。
けれど、彼の無言は“聞いてる”に近い気がした。
「部活とか興味なかったけどさ、
あのグラウンドで走ってた背中、
……なんか、目が離せなかったんだよ」
「……いつか、あの人の“隣”に並べたらって――ちょっとだけ思ってた」
そう言いながら、涼子は一度深呼吸をする。
その手にある小さな充電ケースを開けると、
中から左右ペアの白いBluetoothイヤホンが現れた。
「……ほんとは、もう少し後にしようと思ってたんだけど。
“今日だけは一緒に聴きたい”って思ったから、連れてきた」
蓮の右耳元に、イヤホンをそっと差し込む。
それは、彼の呼吸に合わせるような慎重さだった。
自分の耳には、左側をはめる。
画面を開き、再生アイコンにそっと指を添えた。
けれど、その前に。
「……ねえ、蓮」
「私、ずっと“選ばれなかった”と思ってた。
ずっと、“誰かの次”だったような気がしてた」
「でもね、あんたといた時間って、
“誰かと比べる”んじゃなくて、
“あんたといる私が好きだった”って気づけた時間でもあったの」
「ほんとは、ずっと怖かったよ。
今日だって、会いに来るの……めちゃくちゃ迷ったし」
「でも――“好きだった”って言わないまま、
お別れするのだけは、絶対にイヤだったんだ」
画面の再生ボタンをタップする。
すぐに、あのクラリネットの音色が、イヤホンを通じて静かに流れ始めた。
透明で、まっすぐで、少しだけ哀しい旋律。
涼子の瞳が、ほんのわずかに潤む。
「これね……美鈴の音」
「あなたに、届くといいなって思って。
“本気で”吹いてたの、わかるから」
「……悔しいけど、綺麗だった。
なんであの子って、こんな時にちゃんと“伝わる”音を出せるのかなって」
彼のまぶたは閉じたまま。
でも、その指先が、ほんのわずかに動いたようにも見えた。
それが反射かどうかなんて、どうでもよかった。
涼子には、それで十分だった。
「ねえ、蓮」
「好きだよ――
たぶん、“これが最後”って思ってる。
でも、だからこそ伝えたかった」
「“あたし、本気で、あんたのことが好きだった”」
彼の手を取り、もう一度、ぎゅっと握る。
その温度が、生きていることの証のようで、
涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。
「……だから」
「これからは、目を開けて、前を向いて。
あたしのことなんて忘れていいから、
ちゃんと、生きてよ」
そして――
涼子は、そっと前屈みになり、彼の唇に優しく触れる。
温度も、感触も、何も返ってこない。
でも、それは間違いなく――彼女のファーストキスだった。
「ずっと、あんただけにあげたかったんだよ」
彼女はゆっくり立ち上がる。
涙をぬぐいながら、それでも、少しだけ笑って。
「……もう、大丈夫。
“好き”って、言えたから」
そして――音楽が止まる。
静かな病室に、再び静寂が戻る。
けれど、確かに“なにか”は、届いていた。
キスのあと、ほんの一瞬――涼子は蓮の顔を見つめた。
唇にまだ、かすかな温度が残っている気がして。
それが、自分のものなのか、彼のものなのか、もうわからなかった。
静かに、そっと――彼の頬に手を添える。
指先が震えていた。
「……私はね、蓮くんのこと――」
「“愛してる”ってほうの、“好き”だったんだよ」
「恋とか、片思いとか、そういうんじゃなくて……
もう、ぜんぶあげてもいいくらいの、好きだったの」
「……あんな、“協定”さえなければってことぐらい、
気づいてた。あんたも、わかってたでしょう?」
「それでも、なにかに縛られてた私たちは……
きっと、最初から“選べなかった”んだよね」
言いながら、彼の手を一度、ぎゅっと握る。
それを、そっと解いて――
涼子はそのまま、蓮の胸に自分の頭を預けた。
鼓動が、トクン、トクンと、静かに響いてくる。
「……あんたの心臓、まだちゃんと動いてるんだね」
「そりゃそうだよね、生きてるもん。
でも……なんでだろう、こんなに“遠い”って感じるのは」
静かに、涙が一滴――頬を伝った。
そしてもう一滴。
それは、決壊の始まりだった。
「……もしね、蓮が今起きたら、
たぶん、私の“全部”を捧げてたかもしれない」
「わかる? こう見えて、わりと……本気だったんだよ?」
「――残念、だったね。
……ううん、“残念”なのは、あたしの方かな」
涙が、止まらなくなる。
堪えようとしても、止まらない。
声にならない嗚咽が、喉の奥でせり上がる。
「……っ、蓮……なんで……なんで……
もっと……早く、“あたし”を見てくれたら……
“あたし”じゃ、ダメだったの……?」
彼女は泣いた。
嗚咽とともに、ようやく出てきた、たったひとつの弱音。
けれど、それはもう――
涙と一緒に、彼の胸の奥に刻まれた言葉でもあった。
静かな病室に、彼女の涙の音と、彼の鼓動が響いていた。
しばらく泣いて、涼子はようやく顔を上げた。
目元を拭いながら、乱れた呼吸を整える。
鞄の中から、持ってきた思い出のノートやスマホ、
Bluetoothイヤホンをひとつずつ丁寧に片づけていく。
音源の再生は、すでに止まっていた。
それはもう――「伝えた」あとのものだったから。
蓮の顔を見る。
変わらず、目を閉じている。
でも、さっきよりほんの少しだけ……やさしい表情に見えた。
涼子は、ふっと小さく笑った。
「ほんと、手のかかる人だよ……
――あたし、いつから“こんなに”好きになったんだろうね」
机の上の水差しを整え、ブランケットの端を直し、
小さな声で「ありがとう」と言った。
それは蓮に、そして――
この一連の“恋”に対する感謝だった。
最後にもう一度、蓮の顔に顔を寄せる。
そして――
涼子は、長く、深いキスをした。
感情も、後悔も、全部乗せて。
「さよなら」なんて言わないけど、
それでも“これで最後”になるかもしれないキス。
唇を離したあと、涼子の目にまた涙がにじんだ。
「……ねえ、野中くん」
「――また、“学校で”逢おうね」
まるで、何気ない別れのように。
でも、確かに“未来”を信じる声で。
扉の前で、もう一度だけ振り返る。
「…ううん、あたしたちのほうから“逢いに行く”から。」
そして、
涼子は病室を後にした。
病院を出たのは、もう夜のとばりが落ちた頃だった。
夕方の名残がわずかに滲んだ西の空には、
小さな星がぽつり、ぽつりと灯り始めていた。
吐く息は白くないけれど、
それでもどこか、胸の奥に“ひとつの冬”があったように、
涼子の足取りは静かだった。
彼女の足は、自然と病院の裏手にある小さな公園へ向かっていた。
誰もいないベンチ。わずかに照らす街灯。
そして、頭上には、滲む星々。
ふと、空を見上げて――涼子はつぶやくように、口を開いた。
「上を向いて、歩こう……
涙がこぼれないように…」
まるで、誰かに聞かせるわけでもない。
ただのひとりごとのように。
けれどその声は、かすかに震えていて――
歌なのか、祈りなのか、判別のつかない響きだった。
「ねえ、野中くん。
もう“全部”あげちゃったら、
ほんとにあたし、空っぽになっちゃうのかなって――
ちょっとだけ、思ってた」
「でもね、違ったよ。
“好き”って、誰かにあげたら……
こんなに、あったかいんだね」
風が吹く。木の葉が揺れる。
それは、誰かが返事をしたような、
そんな錯覚すら覚える静かな夜だった。
涼子はそのまま、数分、ベンチに座っていた。
ただ星を見て、静かに心を落ち着けて。
やがて立ち上がり、
もう一度だけ、空を仰ぐ。
「上を向いて、歩こう。
明日、誰に笑われてもいい。
“好きだった”って、ちゃんと伝えられたから」
その背中は、もう震えていなかった。
少女は、自分の物語を歩き出す。
──そして、数時間後。
静かな病室。
規則正しい機械の音のなかで、
蓮のまぶたが、ふと震える。
ゆっくりと目が開く。
淡い、ぼやけた視界のなか。
天井の灯り。
病室の静けさ。
誰もいない椅子。
「……」
蓮のかすれ声で何かを語り、目を閉じもう一度、眠る。
それでも、胸の奥に――
あの音と、あの温もりだけは、たしかに残っていた。
月曜日の朝。
登校前の校門横、中庭の隅にて。
陽の光が斜めに差し込むその場所に、涼子は先に立っていた。
制服のポケットから取り出された一通の封筒。
無言で近づいた美鈴に、それをそっと差し出す。
「……これは?」
「蓮と会うための、"鍵"よ」
中身を見ずともわかる。
転院先の病院名、面会許可証の控え、蓮の簡易なカルテが入っている。
美鈴は、封筒を受け取った。
でも、すぐには顔を上げなかった。
そして――静かに、言った。
「……わたしに、嘘、つきましたよね」
涼子の肩が、わずかに動いた。
「……ごめん」
「どうして」
「……それは」
言葉を探すように、涼子は視線を泳がせた。
「……あのときの美鈴は、いっぱいいっぱいで。
これ以上、抱えさせたくなかった、っていうか……」
「そうだったかもしれません」
きっぱりと、美鈴は言った。
「あのときのわたしは、自分のことで精一杯で。
涼子さんの気持ちなんて、見えてなかった」
涼子は、何も言えなかった。
「でも」
美鈴が、顔を上げる。
まっすぐに、涼子を見た。
「本当は――"フラれた"んじゃなくて。
涼子さん、蓮くんのこと、ずっと"好きだった"んじゃないですか」
涼子は、何も言えなかった。
言い逃れは、できなかった。
この子は、もう、あの夏の美鈴じゃない。
涼子は――弱く、頷いた。
たった一度の、小さな仕草。
でも、それが全部の答えだった。
「……やっぱり」
美鈴の声が、少しだけ震えた。
「もし、それを蓮くんが知ってたら。
たとえ本当に藤井くんと別れたとしても――
追い返されてた、かもしれませんよ」
「……え?」
涼子が、思わず聞き返す。
「だって、蓮くん、不器用だから。
"そんな大事なこと、なんで黙ってたんだ"って。
怒って、拗ねて……それで、結局」
美鈴は、泣きそうな顔で、笑った。
「涼子さんのこと、放っておけなかったと思う」
涼子の目が、見開かれた。
そして――くしゃっと、歪んだ。
「……なにそれ」
声が、掠れていた。
「ずるいよ、それ……
今さら、そんなこと言うの……」
「ずるいのは、涼子さんです」
美鈴は、一歩も引かなかった。
「ひとりで全部抱えて、ひとりで決めて、
ひとりで、身を引こうとして」
涼子は、何も言い返せない。
「わたし、そんなの――受け取れない」
封筒の端を、ぎゅっと握りしめる。
「だから。
これは、"もらう"んじゃなくて。
涼子さんから、"預かる"だけ、ですから」
「……預かる?」
「蓮くんが目を覚ましたら。
ちゃんと、伝えます。
涼子さんが、どんな気持ちでここにいたか。
全部」
涼子は、しばらく美鈴を見つめて――
それから、ふっと、力が抜けたように笑った。
「……ほんと、敵わないなあ。美鈴には」
「お互いさま、です」
二人は、少しだけ笑い合った。
泣きそうな顔で。
でも、確かに、笑って。
──ライバルで。
戦友で。
そして、同じ人を好きになった、女の子同士。
その全部を、この一瞬に込めて。
「……いこっか」
涼子は、いつも通りの声でそう言って、先に歩き出す。
制服のリボンを風に揺らしながら。
美鈴はその背を見つめ、そっと封筒を胸に抱いた。
その手には、微かに震えと、そして決意があった。
バトンは、確かに渡された。
昼下がりの教室。
窓から射す陽光が机を照らすなか、涼子はごく自然に手を挙げ、先生の質問に答えていた。
周囲のクラスメイトも、特別な反応はない。ただ、いつもの佐藤涼子として、その場にいた。
──笑って、ツッコんで、メモをとって。
その姿は、ほんの数日前までの“いつも通り”だった。
(……大丈夫そう、だな)
(俺が心配するまでもないか……いや……)
窓際でノートをまとめる涼子の横顔を見ながら、拓真は少しだけ目を細めた。
──あいつが、蓮のことを好きだったのは、気づいてた。
だけど今、教室でこうして笑ってる。
そういう強さも、涼子なんだ。
放課後。サッカー部のグラウンドに向かおうとした拓真のスマホが震える。
涼子からだった。
《部活終わったら、最後に会った公園で待ってて》
拓真は立ち止まって、思わず空を仰いだ。
「……サボるか」
小声でつぶやくと、すぐメッセージが飛んできた。
《ちなみに、サボろうと考えてるなら、顧問にチクるから
そのつもりで》
「……サーセン」
スマホをポケットにしまいながら、拓真はちょっとだけ笑った。
──また、あいつのペースだ。
──
陽が傾き、蝉の声が風にかき消されていく。
ベンチには、先に到着していた拓真の姿。
手には、涼子の好物のカスタードクリームのたい焼きと、温めた缶コーヒー(微糖)。
そこへ、涼子が静かに歩いてくる。
ゆっくりと近づいて、手を軽く振った。
「……サボった?」
「……"切り上げた"。
部活より大事なヤツと約束したからな」
拓真が、少し目をそらして言う。
「そういう事にしてあげるわ」
涼子は、ふっと笑って、ベンチに座った。
拓真は無言で、たい焼きと缶コーヒーを差し出す。
涼子は「ありがと」とだけつぶやいて、それを受け取った。
──
ふたりは、しばらく黙って過ごした。
たい焼きを一口かじり、コーヒーをそっと口に含む涼子。
拓真も、静かに隣で空を見上げている。
「……蓮に会った」
拓真は少しだけ視線を落としたが、何も言わなかった。
「……ひどいんだよ?
こっちはさ、あんな怖いところ行って……
病院の廊下、冷たくて、アルコール消毒のにおいがして……」
たい焼きの紙を、ぎゅっと握りしめる。
「がんばって、話しかけて、キスまでしたのに……
あいつ、知らんぷりなんだもん」
声が、震えた。
「ずるいよ……。
いつも黙ってるくせに……ほんとに……ずるい……」
ぽろぽろと、たい焼きの上に涙がこぼれる。
拓真はしばらく何も言わず、ただその隣で、彼女の涙を受け止めていた。
そして、ひとつ深く息を吐いて、涼子の肩を抱き寄せる。
「……悪いヤツだな、蓮。
戻ってきたら、殴るか」
涼子は、涙を拭きながら、顔を上げた。
「……そうね。一緒に殴ろうっか。」
そして、ふたりは少しだけ笑った。
笑いながら、泣きながら。
──
たい焼きの紙袋が、手の中で少しくしゃっとなる。
次第に、涼子の嗚咽は言葉にならず、胸の奥から溢れ出した。
その涙は、理屈では止まらない。
「っ……ぅ……ぐすっ……ぅぁ……っ……」
彼女は、拓真の肩に顔をうずめて泣いた。
声を殺すように、でも堰を切ったように。
拓真は、その小さな身体をしっかりと抱きしめて、何も言わない。
しばらくして、彼の瞳にも、自然と涙がこぼれた。
「……蓮、てめぇ……
俺の女、こんなに泣かせやがって……」
かすれた声だった。
「……生きて帰ってこいよ。
そしたら……もう一回、ぶん殴って、感謝してやる」
拳を握るでもなく、ただ抱きしめながら言う。
涙と、祈りと、感謝と──
そのぜんぶが、ひとつになったような言葉だった。
──
涼子の嗚咽が、少しずつ落ち着いていく。
しばらくして、彼女はゆっくりと顔を上げ、目元をぬぐった。
「……ただいま」
拓真は笑って、少し涙の残る目で、静かに応えた。
「……おかえり」
ふたりは見つめ合い、そのまま自然に、短く、優しく唇を重ねた。
長い沈黙が、音を立ててほどけていくようなキスだった。
──
そして、唇が離れたあと。
涼子が、ふっと微笑んだ。
「……タバコ臭くないね」
「……未成年だからな」
拓真が、少し照れたように答える。
ふたりは思わず、ふふっと笑い合った。
その笑いは、過去の涙を包み込むように、柔らかく夜の空気に溶けていった。
翌朝。
涼子は、自分の部屋で、通学カバンを手に取った。
ファスナーの引き手で、ピンクのイルカが、ちりんと鳴る。
「……」
しばらく、それを見つめていた。
そして、そっと——キーホルダーを、外した。
手のひらに乗せると、ずいぶん軽い。
こんなに小さくて、軽いものだったんだ。
ずっと、お守りだったのに。
涼子は、机の引き出しを開けた。
奥から取り出したのは、小さな小物ケース。
蓋を開けると、ちいさなオルゴールが、ことり、と音を立てる。
小学校卒業前のとき、母にねだって買ってもらった、宝物入れ。
その中に、イルカのキーホルダーを、そっと納めた。
「……ありがとう。
ずっと、そばにいてくれて」
イルカに言ったのか、それとも——
取ってくれた、あの人に言ったのか。
自分でも、分からなかった。
そっと蓋を閉じる。
オルゴールの音が、ことん、と止まった。
今日からは、お守りなんて、なくても歩ける。
だって——隣を歩いてくれる人が、できたから。
翌朝。
駅前から続く登校ルート、まだ涼しい朝の空気の中、
手をつなぐ二人の姿が見える。
──藤井拓真と佐藤涼子。
ふたりは、少し照れくさそうに、それでも自然な表情で歩いていた。
その姿に気づいたクラスメイト数人が、
登校中の歩道で立ち止まり、目を見開く。
「……え? ちょっと待って、え、マジ?」
「あれって…涼子ちゃんだよな?」
「拓真くんと…手、つないでる?」
「…うわ、ガチで“戻った”んだ……」
「すげー。熟年夫婦、完全復活って感じ……」
そのざわつきは、クラスLINEを通じて、数分後にはクラス全体に広まっていた。
でも、不思議と空気は悪くない。
彼らを責める者はおらず、むしろ「やっとか」「よかった」といった反応が多い。
——美鈴から、ひとつのメッセージが届く。
《今日、学校行かない。……今から、自衛隊病院に行ってくるね。》
教室でそれを確認した涼子は、少し驚いた顔をして、すぐに返信する。
《わかった。あたしが國分先生にうまく言っておく。
“アレ”が必要なら、私の名前使っていいから》
その様子を隣で見ていた拓真が、苦笑しながら首をかしげる。
「珍しいな、美鈴ちゃんがサボるなんて。明日、雪でも降るか?」
涼子はスマホを伏せながら、小さく息をつき、ちょっとだけ微笑んだ。
「……そうね。
でも、今日だけは……あの子も、前に進まなきゃいけないから」
そして、ふたりはそっと手をつないだまま、校門をくぐっていく。




