第12話「※その音は、あなたに届いていた」
薄く、朝の光が差し込む病室。
カーテンの隙間から覗くその光は、どこか優しくて、柔らかくて——
昨夜までの寒さすら、記憶の奥へ沈めてしまうようだった。
コツ、コツ、と廊下を歩く音。
看護師が、台車を押して、静かに扉を開けた。
「おはようございまーす。
野中さん、今日も検温とか、しちゃいますねー」
返事を期待していない、慣れた声かけ。
もう二ヶ月、同じやりとりを——いや、やりとりですらない
一方通行の声かけを、続けてきた。
それでも、毎朝こうして話しかけるのが、彼女の流儀だった。
いつもの、定期検査の時間。
ただ、今朝は少しだけ——彼女の表情に、やわらかい余韻が残っていた。
土曜日。
この病室に、ひとりの少女が来ていた。
面会の記録には「佐藤 涼子」とだけ。
赤紫のワンピースを着た、きれいな子だった。
泣きはらした目で、でも、まっすぐに前を向いて帰っていった。
そのことを思い出しながら、看護師は体温計を準備する。
そして、ファイルに目を落としたまま——
何気なく、ぽつりとこぼした。
「……土曜にいらしてた方、きれいな彼女さんでしたね」
ひとりごとのつもりだった。
返事なんて、来るはずがない。
だって、ここはもう二ヶ月、ずっと——
「…………ほんと、ですか」
静かな部屋の中に、確かに届いた。
かすれた、でも——生きた声。
「……はい、そりゃもう、きれいな——」
反射で答えかけていた時
看護師の指が、ぴたりと止まった。
「…………え?」
ゆっくりと、蓮の顔の方向に向ける。
蓮はベッドの上で、まぶたが、少しづつ持ち上がっていく。
ずっと眠るように閉じられていた瞳が、
ほんの少しだけ、光を宿して——
そして、微かに、笑った。
「……夢じゃ、ない…です…よね…」
「……」
「……」
(……ひ、ひぃっ!?)
驚きのあまり、体温計が台車の上に、かしゃんと転がった。
看護師は、慌てた様子で医療用携帯電話を取り出し
ナースステーションに掛けた。
「野中さんが——野中蓮くんが、目を覚ましました……!」
廊下に、ばたばたと足音が響き始める。
その喧騒を、どこか遠くで聞きながら。
蓮は、まだ、天井をぼんやりと見つめていた。
呼吸は、まだ浅い。
体は、鉛みたいに重い。
でも——
(……あの声)
(あの、音)
頭の奥に、まだ残っている。
クラリネットの音。
泣きながら、誰かが呼んでいた声。
そして——やわらかい、唇の感触。
(夢じゃ、なかったんだ)
どこまでが夢で、どこからが現実だったのか、
まだ、うまく区別がつかない。
でも、ひとつだけ、確かなことがある。
誰かが、ずっと——
眠っている自分に、話しかけ続けてくれていた。
その「誰か」のことを、もっと、ちゃんと思い出したい。
蓮は一度瞬き、今度は天井の輪郭がくっきりと見えるようになった。
その日の朝の光が、彼の頬をあたたかく照らしていた。
その日。
少年はゆっくりと——現実に、帰ってきた。
廊下から駆けつけてきた医師が、ひとしきり蓮の状態を確認し始める。
容態は安定。
意識も、受け答えも、問題なし。
ただ、長く眠っていた分、
声を出すのも、体を動かすのも、まだひどく疲れる。
「はい、じゃあもう一回、お熱測りますねー」
最初に取り乱した看護師は——名札に「浅倉」とある——
もうすっかり立ち直って、医師の指示を受けてきぱきと検査を進めていた。
「呼吸……よし。心拍も……落ち着いてますね。」
「……すみません。驚かせて」
「いいんですよー。こんな嬉しい驚き、めったにないですから」
医師と看護師は、笑いながらしっかりと手を動かす。
体温、脈拍、血圧、意識レベル。
長期昏睡の患者に対する確認項目を、慣れた手つきでこなしていく。
「無理に喋らなくて大丈夫ですからね。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、で」
蓮は、小さくうなずいた。
検査が一段落して、部屋が静かになった頃。
コツコツ、と。
病室のドアが、ノックされた。
「入っても、いいですかね。
……お姫様を起こしに来たお迎え、いや——起きちゃったなら、逆かな」
ゆったりとした足取りで入ってきたのは、白衣を羽織った女性だった。
肩で切り揃えた髪に、手には書類。
にこやかに立っている。
どこか、ひょうきんな空気をまとった人だった。
「臨床心理士の、矢島と言います。
……本当に、目を覚ましちゃいましたねえ」
「……はあ」
蓮は、まだ状況がよく飲み込めず、曖昧に返事をした。
矢島は、ベッド脇の椅子に、よいしょ、と腰掛けた。
「7月に事故って、まるっと二ヶ月。
で、9月の——3週目の、月曜日にお目覚め」
指を折りながら、数える。
「先週の土曜に一回だけ、ちょっと目を開けたんですよ、あなた。
でも、すぐまた寝ちゃってね。
まるで、"本番"は今日だって決めてたみたいな顔して」
「……そう、なん…ですか」
「うん。お帰りなさい、野中くん」
その一言だけ少し、やわらかかった。
「あなたが眠ってる間に——ほんっとに、いろいろあったんだよ」
矢島は、書類をぱらぱらとめくりながら、しみじみと言った。
蓮には、その「いろいろ」が何なのか、まだ分からない。
ただ——
頭の奥に残っている、
あの音。
あの声。
あの感触。
それと、何か関係があるんだろうか。
「……あの」
「ん?」
「俺、寝てる間に……誰か、来てましたか」
矢島の手が、ぴたりと止まった。
そして——にやり、と笑った。
「おやおや。覚えてるんだ?」
「……断片的に、なんとなく」
「ふぅん」
矢島は、もったいぶるように、間を置いた。
「ま、それはおいおい、本人たちから聞くといい。
……ただ、ひとつだけ教えてあげる」
少しだけ、声を、やわらげて。
「あなたを——必死に、起こそうとしてた子が、いたよ」
「……起こそうと?」
「そう。それはもう、一生懸命にね」
矢島は、それ以上は言わなかった。
「続きは……本人から、聞きなさい」
くっくっ、と笑いながら、矢島は立ち上がる。
「白雪姫は、目を覚ますとき、そばに誰かがいるものでしょ。
……あなたの場合、どっちが白雪姫だか、分かんないねえ」
その言葉を残して、矢島は病室を出ていった。
ひとり残された蓮は
しばらく、天井を見つめていた。
(起こそうと、してた……?)
(誰、だろう……)
混乱したままそっと、自分の唇に触れてみる。
もちろん何の感触も
残っていない。
でも——
頭の奥の、いちばん深いところに。
確かに誰かの温度が、残っている気がした。
(……思い出せない)
(でも——会いたい)
それが誰なのかも分からないのに。
その気持ちだけははっきりと、胸の真ん中にあった。
────────────────────────
それから数日が過ぎた。
蓮の容態はゆっくりと
でも確実に上向いていた。
点滴の回数が減り、起き上がれる時間が増えて、
かすれていた声も少しずつ
形を取り戻し始めていた。
ただ——長く喋ると、まだ疲れる。
喉の奥がひりついて、声がかすれる。
二ヶ月眠っていた体は思っているより、ずっと重かった。
その日
蓮は車椅子で、診察室に運ばれた。
向かいには、白衣の医師。
そして、少し離れたところに——父と
母が座っていた。
二ヶ月ぶりに見る、両親の顔。
母は、蓮の顔を見た瞬間から
もう、唇を噛んでいた。
「野中 蓮くん。
まず、よく戻ってきてくれました」
医師が、穏やかに切り出す。
「君は、7月に交通事故に遭って、頭部を強く打ちました。
二ヶ月、意識が戻らなかった。
でも——今、こうして話せている。
これは、本当に、幸運なことです」
蓮は、小さくうなずいた。
「後遺症の有無は、これからの検査とリハビリで、慎重に診ていきます。
でも、今のところ——記憶も、受け答えも、しっかりしている。
いいスタートです」
蓮は、何か言おうとして、口を開いた。
「……あの」
声が、かすれた。
「……み、んな、は」
そこまで言って、息が切れる。
喉が、ひりつく。
続きを言おうとしても、声が、うまく出てこない。
それを見た医師が、すっと、一枚のボードを差し出した。
ホワイトボードと、マーカー。
「無理に声を出さなくていい。
まだ、喉に負担がかかるからね。
……言いたいことがあったら、これに書いて」
蓮は、ボードを受け取った。
マーカーを握る手も、まだ、少し震える。
それでも——ゆっくりと、一文字ずつ、書いた。
たどたどしい、いつもより下手な字で。
『みんな、元気ですか』
それを、両親に見せる。
その瞬間。
「っ……」
母の口から、声が漏れた。
こらえていたものが、決壊するように。
「……ぅ、う……っ、れん……っ」
母は、両手で顔を覆って
泣き出した。
二ヶ月。
ずっとこらえていた。
眠ったままの息子の前で、泣かないように
笑っていようとずっと、決めていた。
その全部が、たった一行の文字で、崩れた。
「元気、なわけ、ないでしょ……っ
あんたが……あんたが、ずっと、起きなくて……っ
毎日、毎日……っ、もしかしたら、もう……って……っ」
父がその背中に、そっと手を置いた。
父の目も赤かった。
蓮は、泣きじゃくる母を見て——
少し、困ったように、眉を下げた。
そして、もう一度、ボードに何かを書く。
『心配かけて、ごめん』
その下に、もう一行。
『でも、ちゃんと帰ってきたよ』
母は、その文字を見て——
もう、言葉にならなかった。
ただ、蓮の手を両手で
ぎゅっと握りしめた。
その手は、あたたかかった。
二ヶ月間、握り返してくれなかった手が——
今はちゃんとあたたかかった。
蓮もその手を弱い力で、握り返す。
診察室にしばらく、母のすすり泣きだけが響いていた。
それは、悲しみの涙じゃなかった。
ずっとこらえていた、安堵の——
「おかえり」の、涙だった。
────────────────────────
朝。
いつもよりずっと早い時間。
美鈴は誰もいない教室に、一番乗りで着いた。
窓の外はまだ朝靄が薄く残っている。
誰の声もしない、しんとした廊下。
上履きの音だけがこつ、こつ、と響く。
自分の席にカバンを、そっと置く。
いつもの日課だが、この日は違った。
クラリネットのケースは、ない。
あの日からずっと、修理に出したままだ。
(……音のない日も、悪くはないね)
そう、思った。
今日は、音じゃなく——
自分の言葉で、向き合うと、決めていた。
美鈴は、教室を出た。
向かったのは、1組。
蓮がいる教室。
──
「失礼しまーす」
引き戸をそっと開ける。
やっぱり誰もいない。
朝の光がまだ薄く差し込むだけの
無人の教室。
美鈴はまっすぐに、ある一つの席へ
歩いていった。
窓際から二列目。
前から三番目。
蓮の席。
二ヶ月間ずっと——誰も座っていない
空っぽの席。
美鈴はその机の横に立って
しばらく見下ろしていた。
(……ここに、いつも、蓮くんが、おったんやね)
机の上は、きれいに片付けられている。
持ち主のいない机はどこかよそよそしい。
(あの日。
あの人が、東條くんをかばって——)
(救急車で、運ばれて。
それっきり、この席は、ずっと、空っぽやった)
胸がぎゅっと苦しくなる。
蓮が転院されて以降毎朝、この教室の前を通るたびに
ちらりと見える、この空席に何度泣きそうになったか
分からない。
(うちずっと、こわかったんよ)
(この席が二度と埋まらんかったら、どうしようって)
(あの人がもう笑わんかったら——)
指先でそっと机の表面に触れる。
冷たい。
誰の体温も残っていない。
涙が、にじみそうになる。
——でも。
美鈴はぐっと唇を噛んだ。
そしてゆっくりと顔を上げた。
(……ううん)
(もう、こわがらん)
(だってあの人は——目ぇ、覚ましたんやけん)
蓮が目を覚ましたと。
涼子から聞いた。
最初は信じられなくて。
信じたらまた裏切られるのが
こわくて。
でも——もう、逃げない。
美鈴は、空っぽの机に向かって、まっすぐに、心の中で語りかけた。
(蓮くん)
(うち、今から会いに行くけんね)
(あなたの席はちゃんとここにあるよ)
(だけん——早う帰ってきて)
(ここに、座って。
またみんなと笑って)
(うちの、お弁当も——食べて)
(まだ、"おいしかった"の一言、もらっとらんけん)
そっと机から手を離す。
不思議と涙は出なかった。
代わりに胸の真ん中にあたたかい
まっすぐな何かが、灯っていた。
「……行ってきます」
誰もいない教室に小さく声に出して。
美鈴は、踵を返した。
──
(……行ってきます、の前に)
自分の教室に戻って、カバンを肩にかけようとして——
ふと、手を止めた。
カバンの内ポケットから、一通の封筒を取り出す。
涼子から、託されたモノ。
「自衛隊中央病院」と印字された封筒。
美鈴はしばらく、それを見つめていた。
(……やっと、返ってくるんやね)
封筒の角を指先で、そっとなぞる。
(あのときのうちには、まだ——
"自分"ってものが、なかった)
蓮が事故に遭って、消えてしまって。
ただおろおろして、泣いて、音も出せなくなって。
誰かにすがることでしか、立っていられなかった
あの頃。
(涼子さんは、違った)
あの人は、まっすぐだった。
こわくても、自分で決めて、自分で動いて。
「彼女になる」と、誰よりも先に、覚悟を決めて。
(うちには、それがまぶしくて。
……うらやましくて、こわかった)
でも——その涼子が最後に、この封筒を美鈴に託した。
「預かるだけ」と、言った。
ほんとうは、全部分かった上で。
(だけん、うちも——もう、逃げん)
(誰かと比べる気持ちじゃ、なか)
(うちは、うちとして。
"西村美鈴"として、あの人に、会いに行く)
封筒を両手でぎゅっと、胸に抱いてから
丁寧にカバンの内ポケットへ、戻した。
大切な、お守りみたいに。
まだ誰も来ていない朝の教室。
美鈴は再びカバンをかける。
彼女が朝早く登校したのはもう一つの理由があった。
これから自分がすることを、誰にも説明しなくていい。
ただ一人——あの人にだけは、伝えておこう。
下駄箱のある方向の廊下を歩きながら、スマホを取り出す。
涼子への、トーク画面を開いた。
指が一瞬、止まる。
(……なんて、送ろう)
いつもの自分なら、きっともっと言葉を選んで。
相手を気づかって、遠回しにやわらかく。
でも——今日は考えるのをやめた。
短く。まっすぐ。
自分で決めたことを、そのまま。
指を、動かす。
《今日、学校行かない。……今から、自衛隊病院に行ってくるね。》
送信。
少しして、既読がついた。
涼子からの返事は、すぐだった。
《わかった。あたしが國分先生にうまく言っておく。
“アレ(面会権限)”が必要なら、私の名前使っていいから》
美鈴は、カバンの中の封筒に、そっと手を触れた。
《大丈夫。ちゃんと、自分の分でやってみるね》
でも、その気づかいが、あたたかかった。
(涼子さん。……ありがとう)
送ろうとして、迷って。
結局、短く、こう返した。
《うん。ありがとう
行ってくる》
すぐに、既読。
そして、ひとことだけ。
《いってらっしゃい》
それだけだった。
でも、その五文字にどれだけのものが込められているか——
美鈴には、痛いほど分かった。
自分の恋を、預けてくれた人の。
「行ってこい」の五文字。
(……うん。行ってくる)
(あなたの分まで、ちゃんと)
スマホを、カバンにしまう。
下駄箱で、靴を履き替えて。
外に、出る。
登校する生徒たちとは逆方向に歩く朝の風は
もう、すっかり秋の匂いがしはじめた。
美鈴はまっすぐ前を見て——
駅へと歩き出した。
もう、迷いはなかった。
────────────────────────
自衛隊中央病院は、街の喧騒から少し離れた
静かな場所にあった。
白く、大きな建物。
正面の自動ドアをくぐると、ひんやりとした
清潔な空気が頬に触れる。
病院特有の、消毒液の匂い。
美鈴はその匂いに一瞬、足を止めた。
(……前の病院と、同じ匂い)
蓮が、最初に運ばれた病院。
毎日のように通った、あの廊下。
あの匂いが、よみがえってくる。
でも——今日は、足がすくまなかった。
美鈴はまっすぐに、受付へ向かった。
「あの、すみません」
受付の女性が、顔を上げる。
「面会、希望なんですけど……」
「面会のお方ですね。
恐れ入りますが、こちらは一般の病院と少し違いまして。
お約束や、許可証はお持ちですか?」
美鈴はカバンから封筒を取り出した。
涼子から、託された封筒。
少しだけしわになったその封筒を——
両手でそっと受付に差し出す。
「これ……だと、思います」
受付の女性は、封筒を受け取り中身を確認した。
表情が、少し変わる。
「……少々、お待ちください」
どこかへ、内線で連絡を取り始めた。
美鈴は、その間ロビーで待つことにした。
広い待合のソファ。
平日の午前中だからか、人はまばらだった。
窓から差し込む光が、床に長い影を落としている。
(……ここに、蓮くんが、いる)
そう思うと、心臓がドキドキと早くなった。
会いたい。
でも、こわい。
二ヶ月ぶりの、蓮。
目を覚ました、蓮。
(うちのこと、覚えとうかな)
(ちゃんと、笑ってくれるかな)
膝の上で、両手をぎゅっと握る。
——そのときだった。
「西村 美鈴さん、ですね」
声に、顔を上げる。
立っていたのは、白衣の女性だった。
肩で切り揃えた髪に、穏やかな——でもどこか食えない笑み。
「初めまして。
臨床心理士の、矢島と言います」
「……あ。は、はい。西村です」
美鈴は、慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「わざわざ、すみません」
「いえいえ。
……あなたのことは、少し、聞いていますよ」
矢島はにこやかに言った。
その「聞いている」が何を指すのか——
美鈴にはまだ分からない。
「立ち話もなんですから。
……少し、お部屋でお話ししましょうか」
矢島は、廊下の奥を手で示した。
「蓮くんの容体のことも、お伝えしたいですしね」
「……はい。お願いします」
美鈴は、カバンを持ち直して矢島の後に続いた。
清潔な廊下を、歩いていく。
その背中を追いながら、美鈴は知らなかった。
これから、ちょっとした"試練"が、待っていることを——。
────────────────────────
白と、薄緑を基調にした落ち着いた診察室。
整然と並ぶ書類の束と、電子カルテの端末。
窓の向こうには、小さな中庭が見えた。
美鈴は、椅子にきちんと腰を下ろしていた。
緊張は、ある。
でも、目の奥には揺るがないものがあった。
向かいに座った矢島は、しばらく手元の資料に目を落としていた。
そして、ゆっくりと伏せる。
「さてと……本来なら機微な情報なので、限られた人しか教えられませんが
「あの方の」たってのお願いだから、特別にお教えしましょう。
西村さん…どこから、聞きたいですか?」
穏やかな声だった。
美鈴は「あの方」には少し引っかかったが、追求はしなかった。
「……あの。
蓮くん…野中 蓮さんの、今の容体を……詳しく、教えてください」
矢島は、うなずいて、モニターをちらりと確認した。
「呼吸も、安定しています。
脳の機能にも、大きな障害は見られない。
筋肉の反応に、軽い遅れがありますが——
これは、長く眠っていたためのもので、リハビリで回復が見込めます」
「……声は、まだ、出せないんですか」
「出せますよ。少しずつね。
でも、長く喋ると、喉に負担がかかる。
だから今は、時折筆談を併用しています」
矢島は、少しだけ目を細めた。
「目の動きも、笑い方も——驚くくらい、"蓮くんらしい"。
ちゃんと、あの子が、戻ってきていますよ」
美鈴の口元に、小さく笑みがこぼれた。
「もう少しすれば、ご家族の判断で、地元の病院に移ります。
退院後は、そこでの通院とリハビリに専念することになるでしょう」
美鈴は、少し黙ってから——
意を決して、口を開いた。
「……あの」
その瞬間。
矢島の声の、トーンがわずかに変わった。
「——前の病院では。
君が、"通い妻"みたいだった、と聞いていますよ」
「……っ」
美鈴の肩が、こわばる。
矢島は、目をそらさなかった。
「その病院に、うちの知り合いがいてね…
もちろん、お見舞いに来るのは、自由です。
でもね——ここは、防衛省直轄の病院です。
治療も、管理も、厳密でね」
椅子の背に軽くもたれる。
「正直に、言いましょう。
前のように、毎日、何時間も付き添われても——
私たちとしては、少し、困るんですよ」
沈黙が落ちた。
窓のカーテンが、エアコンの風でかすかに揺れる。
「……彼に会いに来る理由が、"彼のため"だけなら。
私は、今ここで、面会を断るかもしれません」
美鈴の目が、見開かれた。
矢島の言葉は、冷たくはない。
でも、その奥にある「試す意図」は、はっきりと伝わってきた。
「"誰かのため"だけの献身は、ときに、"自分を壊す"。
私たちは、それを——"共依存"や、"転移"と呼ぶこともあります」
矢島は、まっすぐに美鈴を見た。
「西村さん。
あなたが、彼に会いたい——本当の理由は、なんですか?」
──
美鈴は、すぐには答えなかった。
膝の上で両手をぎゅっと握る。
(……試されている)
分かっていた。
これは、ただの質問じゃない。
(前にも、こんなことが、あった)
あの夏。
涼子から「身の程」を身をもって教えられた。
あのときの自分は、何も言い返せなかった。
ただ、うつむいて自分には何もないと思い込んで
逃げた時もあった。
でも——今は、違う。
美鈴は、ゆっくりと顔を上げた。
「……答えに、なっているか、分かりませんけど」
声は、少し震えていた。
でも、止まらなかった。
「わたし、蓮くんが事故に遭った日も……
お弁当を、持っていたんです」
矢島が、わずかに眉を動かす。
「いつも通り、作って。
いつも通り、渡すつもりで。
……でも、渡せなかった」
「あの人、わたしのお弁当を食べて——
"おいしかった"ってまだ、一度も言ってくれていないんです」
美鈴の目に、涙が滲む。
でもそれは、こらえる涙じゃなかった。
「最初は、それだけだったんです。
ただ、"おいしかった"が、聞きたかった。
それだけのために、病院に通っていました」
「声も、届かない。
笑顔も、返ってこない。
それでも、いいって、思っていました」
一度、言葉を切る。
「でも——それじゃ、だめだったんです」
「ただ、そばにいるだけ。
ただ、待っているだけ。
それは、優しさみたいで……ほんとうは、わたしが、安心したかっただけ」
「"何かしてあげている自分"でいれば、
蓮くんを失う怖さから、目をそらせたから」
矢島は、黙って聞いていた。
「だから、一度、離れたんです。
音楽に、逃げ込んで。
コンクールで、ちゃんと、自分の音を取り戻して」
「そうしたら——分かったんです」
美鈴は、涙を拭ってまっすぐに矢島を見た。
「わたしが蓮くんに会いたいのは、"蓮くんのため"だけじゃない。
わたし自身が——
ちゃんと"おいしかった"を聞いて、前に進みたいから」
「以前は依存とか、共依存とか……そうだったかもしれません。
でも今は、違います」
「わたしは、"西村美鈴"として、あの人に会いたいんです」
診察室に、しばらく沈黙が流れた。
やがて——
矢島がふっと、息を吐いた。
肩の力が抜けるみたいに。
そして、さっきまでの「試す目」が消えていた。
「……合格、です」
「え?」
「いや、こっちの話」
矢島は、立ち上がってにこやかに笑った。
さっきの、ひょうきんな空気が戻ってくる。
「いい答えだ。
——というか、ね。
そこまで自分の言葉で言える子が、彼を壊すわけがない」
書類をとん、と揃える。
「正直、さっきのは意地悪な質問でした。ごめんね。
でも——これも仕事なんでね」
美鈴はまだ少し、涙の残る目でこくりとうなずいた。
「さ、行きましょうか」
矢島が、ドアの方を手で示す。
「あなたの——"おいしかった"を、聞きに」
────────────────────────
矢島に案内されて、長い廊下を歩く。
「関係者以外 立入禁止」の札がかかった区画を抜け
それぞれのカーキーをかざして、
奥にある個室の前で、矢島は足を止めた。
「ここです」
ドアの前で美鈴は一度、深く息を吸った。
そこには「野中 蓮 様」と貼ってあった
「……ちょっと、緊張します」
「でしょうね。2ヶ月ぶりだからね。」
矢島は、軽く笑った。
「でも、大丈夫。
今ね、たぶん——寝てると思うから」
「え?」
「午前中、リハビリだったんですよ。
あいつ、まだ体力が戻ってなくてね。
歩く練習を少ししただけで、もうへとへと。
……かわいいもんでしょ?」
美鈴は、思わず小さく笑った。
緊張が、少しだけほどける。
「無理に起こさなくていい。
……顔だけでも、見てやってください」
矢島は、それだけ言うとそっと身を引いた。
「私は、ここで。
ごゆっくり」
美鈴は、深く一礼して——
ドアノブに、手をかけた。
──
部屋は、静かだった。
窓から差し込む、午後の、やわらかい光。
ベッドの上に——蓮が、いた。
上体を、少しだけ起こした体勢のまま。
リハビリの疲れで、そのまま、眠ってしまったらしい。
口元がわずかに開いて規則正しい寝息が聞こえる。
美鈴は、足音を立てないように近づいた。
そして——息を、呑んだ。
(……やせとう)
二ヶ月。
ICUで見た全身包帯で巻かれた姿とは違い
頬は少しこけて、腕も細くなっていた。
顔にはまだあの日の事故の名残みたいに、薄い傷の跡。
でも——
(……生きとう)
胸が、上下している。
息を、している。
あたたかい、血の通った本物の蓮がそこにいる。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
美鈴は、ベッドのそばの椅子にそっと腰を下ろした。
眠っている蓮の顔を、ただ見つめる。
(あのね、蓮くん)
(うち、いっぱい、話したかこと、あったとよ)
(コンクールのこと。
うちが、もういっぺん、音ば出せるようになったこと。
涼子さんと、ちゃんと話せたこと)
(全部、全部、聞いてほしくて——)
でもいざこうして顔を見たら。
言葉なんて、何も出てこなかった。
ただ涙だけがぽろぽろと、こぼれてきた。
声を、立てないように。
眠りを、妨げないように。
美鈴は、両手で口を押さえて静かに泣いた。
(よかった)
(ばってん、ほんなこつ、お寝坊さんやね…)
──
どれくらい、そうしていただろう。
「……ん」
蓮のまぶたが、動いた。
美鈴ははっと息を止める。
ゆっくりと蓮の目が、開いていく。
ぼんやりと、天井を見て——
それから、視線が、横を向いて。
美鈴を、捉えた。
「……」
「……」
しばらく、沈黙が流れた。
蓮は、寝起きのぼやけた目で美鈴を見つめている。
美鈴は、涙を拭くことも忘れて蓮を見つめ返している。
そして——蓮が、口を開いた。
かすれた、まだ、弱い声で。
「……西村、さん?」
「……っ」
名前を、呼ばれた。
それだけで、また涙が溢れた。
「……はい」
やっとのことで、声を絞り出す。
「……はい。西村、です」
蓮は、ゆっくりとまばたきをした。
夢か、現実か確かめるみたいに。
「……ほんとに、いる」
「……おるよ。ちゃんと、ここに」
「夢じゃ、ない?」
「……夢じゃ、なか」
蓮の目にも、じわりと涙が滲んできた。
「……そっか」
ほっとしたように、息を吐く。
「……来て、くれたんだ」
その一言に美鈴はもう、こらえきれなかった。
「……っ、来たよ……!
ずっと、ずっと、会いたかったとよ……っ」
椅子から崩れるように、ベッドの脇に膝をつく。
蓮の細くなった手にそっと、自分の手を重ねた。
あたたかい。
ちゃんと、あたたかい。
二ヶ月前、握り返してくれなかった手が——
今は弱い力で、けれど確かに握り返してくれた。
「……ごめんな」
蓮が、かすれた声で言った。
「……心配、かけて」
「……っ、ほんとよ……!
ほんとに……ほんとに、心配したっちゃけん……っ」
泣きじゃくる美鈴を見て、蓮は困ったように
でも、優しく笑った。
「……西村さんが、泣くの、初めて見た」
「……蓮くんの、せいやけん……っ」
「……はは。……そう、だな」
笑おうとして、でも、蓮の頬にも、涙が伝っていた。
ふたりは、しばらく手を握り合ったまま。
何も言わずに、ただ泣いて、笑っていた。
二ヶ月分の。
会えなかった時間が——
今、やっと溶けていく。
窓の光が、ふたりをあたたかく包んでいた。
────────────────────────
美鈴が、ようやく落ち着いた頃。
蓮は、天井をぼんやりと見上げていた。
「……あのさ」
「はい」
「俺、寝てる間……なんか、音が聞こえてた気がするんだ」
美鈴の肩が、小さく跳ねた。
「暗いとこに、ずっといたんだけど。
……その音のする方に行けば、いいんだって、思えて」
「……なんの音だったか、思い出せそうで、思い出せないんだけど」
蓮は、少し困ったように笑った。
美鈴は、何も言わなかった。
ただ、そっと目を伏せて——小さく、微笑んだ。
(……いつか、話せるといい)
(あれが、うちの音やったって)
でも、今は。
それを言葉にするより、確かめたいことが、あった。
──
「……あの。
ひとつ言ってなかったこと、あって」
「ん?」
美鈴は少しいたずらっぽく——
でも、どこか泣きそうな顔で笑った。
「わたし、あなたが事故に遭った日……
お弁当、作ってたんです」
蓮が目を瞬かせる。
「いつも通り、作って。
いつも通り、渡すつもりで。
……でも、渡せなかった」
「あなた、わたしのお弁当食べて——
"おいしかった"って、まだ、一度も言ってくれてないんですよ」
「……あ」
蓮の顔が、ゆっくりと赤くなっていく。
「……ごめん。
それは……その、ほんとに、ごめん」
「謝らなくて、いいです」
美鈴は、首を横に振った。
そして——
「その代わり」
涙で濡れた顔で、精一杯、笑って。
「元気になったら。
学校に、戻ってきたら。
……また、作ります。お弁当」
「だから——」
声が、また揺れる。
「……ちゃんと、食べて。
そんで、"おいしかった"って、言ってください」
蓮は、しばらく美鈴を見つめて。
それから、ふっと笑った。
二ヶ月前より、少しやせた顔で。
でも、間違いなくあの蓮の笑顔で。
「……うん。
絶対、食べるよ。美鈴の手作り弁当」
「約束、ね」
小指を、立てようとしたが——
まだ腕に力が入らなくて、うまくいかない。
美鈴がくすっと笑って、その手をそっと両手で包んだ。
「……はい。約束」
指切りの代わりに。
二人は、しばらく手を重ねていた。
窓の外、秋の空がどこまでも高、澄んでいた。
「……早く、帰ってきてください」
美鈴が言った。
「みんな、待ってます。
……わたしも」
蓮は、笑顔でうなずいた。
「もうすぐ、地元の病院に移れるって。
……そしたら、リハビリ頑張って、絶対、戻るよ」
「うん。学校で……待っとうけん」
また、博多弁がこぼれた。
今度は、美鈴も言い直さなかった。
蓮もそれを聞き返さなかった
ただ、二人で笑った。
秋の光の中で
二ヶ月分の時間を埋めるように——
これから始まる時間を、約束するように。
──
やがて、面会の時間が来て。
美鈴は何度も振り返りながら、帰っていった。
ひとり、静かになった病室。
蓮は、天井を見上げてふう、と息を吐いた。
(……なんか、疲れたな)
でも、悪くない疲れだった。
ふと枕元に目をやる。
——白いハンカチが、置いてあった。
さっき、美鈴が、涙を拭っていたもの。
帰り際、慌てていたから、忘れていったのだろう。
蓮は弱い力でそれを手に取った。
隅に、几帳面な字で、小さく刺繍がある。
『西村』
「……忘れてったのか」
くすっと、笑う。
(返さなきゃ、な)
それは——次に、会う口実になる。
蓮は、そのハンカチを、そっと、胸の上に置いた。
まだ、ほんのり、あたたかい気がした。
————————
数日後
昼休みの屋上。
秋の空は高く、風は少しだけ冷たい。
でも日向はぽかぽかとあたたかくて
昼を過ごすには、ちょうどよかった。
フェンス際の、いつもの場所。
涼子、美鈴、拓真の三人が、思い思いに腰を下ろして
昼食を広げていた。
——ただし三人とも。
膝の上には、お弁当と一緒に、教科書とノートが乗っている。
「……ねえ拓真。この英文法、訳せる?」
涼子が、シャープペンの先でノートの一行を指す。
「……えーっと」
拓真は、たまご焼きを口に運びながら、じっと、そのページを睨んだ。
「……"The book which I bought"……その、本を、買った……えっと」
「主語と関係代名詞が」
「わかってる! わかってるって! ……たぶん」
「たぶんじゃないよ。か・く・じ・つ・に赤点だよ」
涼子が、ため息まじりに言う。
その隣で美鈴が、くすくす笑っていた。
美鈴のノートは、几帳面な字でびっしり埋まっている。
涼子のも、要点がきれいにまとまっている。
拓真のノートだけ、なぜか、途中から落書きになっていた。
「……美鈴ちゃんも涼子も、ちゃんとやってるよなあ」
拓真が、感心したように言う。
「藤井くんが、やってないだけです」
美鈴が、ぴしゃりと言った。
でも、その口調は、どこかやわらかい。
「うぐ……」
拓真はたまご焼きを、もそもそと噛んだ。
そして、ふと思い出したように顔を上げる。
「……そういえば。
蓮は、いつ退院するんだ?」
その名前に美鈴の箸が、少しだけ止まった。
「……具体的に、いつかは、まだ分からないけど」
そっと、微笑む。
「来週中には、退院できるかもって」
「お、まじか」
拓真の顔が、ぱっと明るくなる。
「じゃあ、もうすぐ学校来れるじゃん!」
「……うん」
美鈴の頬がほんの少しゆるむ。
その様子を、涼子は横目で見て——
何も言わずに、少しだけ笑った。
「……まあ、でもね」
涼子が、ノートを閉じながら言う。
「いくら二ヶ月のブランクがあるとはいえ、
別室でテスト受けるのは、避けられないみたい。
……って、先生が言ってた」
「別室?」
「体調とか、進度の関係でね。
最初は、みんなと別で受けることになるって」
涼子は拓真の方を、満面の笑みで語った。
「——ってことで。
拓真くん。あんた、蓮に勉強教えてあげてね」
「えー!?」
拓真が、素っ頓狂な声を上げる。
「なんで俺!? つーか俺が一番やばいんだけど!?」
「自覚あるなら、勉強しなさい」
「正論すぎる……」
美鈴がまた、くすくす笑った。
穏やかな、昼休み。
いつもの三人の空気。
——そのときだった。
「……よう」
背後から、声がした。
三人が振り返る。
そこに立っていたのは——東條玲央だった。
片手に、購買のパンを持って。
どこか、所在なさげに。
「……俺も、その"勉強会"。
……参加して、いいか」
三人が、一瞬、きょとんとする。
「……びっくりしたー」
最初に口を開いたのは、拓真だった。
「てか、お前専科生だろ。
そっちが教える側だろうが。逆に教えろよ」
「……」
玲央は少し、言葉に詰まってから。
「中学のとき。
……コイツにかなり、助けられたからな」
ぽつりと、言った。
拓真は、一瞬、目を見開いて。
それから、ふっと、笑った。
「煽てるなよ。
……なんも出ないぞ」
「煽ててねえよ」
玲央が、むすっと返す。
でもその顔は少しだけ、ほぐれていた。
——けれど。
視線が涼子と美鈴に移った瞬間
玲央の表情が、こわばる。
(……そうだよな)
かつて自分は、"特別参与"の座を選んで、涼子を——置き去りにした。
そして、美鈴に告白して、振られた。
(俺は、あいつらに、許される側じゃない)
なのに——と、玲央は思う。
(なのに、こいつらは。
……何食わぬ顔で、俺を、輪に入れようとする)
それが、いちばん、こたえた。
責められる方が、まだ楽だった。
軽蔑されて、突き放されて、「お前は来るな」と言われたほうが
堂々と離れていられる。
でも——この二人は、そうしない。
(……だから、困る)
許されることがこんなにも、こわい。
立ったまま動けずにいる玲央。
——その空気を察して
拓真がぽん、と自分の隣の床を叩いた。
「……何、立ったまましてるんだ」
にっと笑う。
「座って、一緒に食おうぜ」
「……」
玲央が目を瞬かせる。
「そうだよ」
涼子もあっさりと言った。
ノートを少し脇にずらして場所を空ける。
「立ってられると、なんか、落ち着かないし。
……早く座りなよ」
「……」
玲央はしばらく二人を見て。
それから——
「……悪い」
小さく言って。
拓真の隣に腰を下ろした。
──
「……にしても、久しぶりだね」
涼子が、ふと言った。
「玲央と一緒にご飯食べるなんて」
「だな」
拓真が、パンを頬張りながら頷く。
「なんだ、普通科が懐かしくなったか?」
「……ある意味、そうだな」
玲央は、購買のパンの袋を、ぱりっと開けた。
「ラウンジ、少し飽きたところもあるし」
「「「ラウンジ?」」」
三人の声が、綺麗に重なった。
玲央が、きょとんとする。
「……知らないのか。専科生専用ラウンジ」
「なにそれ」
「食堂に、階段あるだろ」
拓真が、眉をひそめた。
「……あー、あるな。上に行くやつ。
でも、あそこ"立ち入り禁止"って看板が」
「その上に、学生証をかざすと入れる」
玲央は、なんでもないことのように言った。
「ちなみに、生体認証付きだから
なりすましはできないようになっている」
「……えっ」
美鈴が、目を丸くする。
「徹底してるね……。
そこでは、何が出るの?」
「基本、日替わり。ほぼセット料理
放課後になると、アフタヌーンティーとかもやっているらしい。」
玲央は少し言いにくそうに、続けた。
「どうやら、帝国ホテルとか……
たまに、ミシュラン二つ星クラスの人が来て、作ってるらしい」
「……は?」
拓真の手が、止まった。
「ミシュラン。二つ星」
「らしいな」
「……スケールが、違いすぎる」
拓真は、自分の手元のパンを見下ろした。
購買で売っているあんバターコッペパンとコーヒ牛乳。
合わせて税込450円。
「そうすると、飯代は……」
「タダ」
「タダ!?」
「どうやら、"上の人たち"が、出し合ってるらしい」
──空気が、少しだけ、変わった。
拓真は、口を開けたまま固まっている。
涼子は知っていたかのように、何も言わずに
静かにペットボトルの蓋を閉めた。
美鈴は、そっと、玲央の横顔を見た。
玲央はそれきり、何も言わなかった。
ただ購買のパンを、黙って食べている。
——その"タダ"が、何を意味するのか。
誰が金を出して、なぜ出しているのか。
そのぶん、何を期待されているのか。
きっと玲央は、分かっている。
分かっていて——
今日はその席を、蹴ってきた。
「……なあ、玲央」
拓真が、ぽつりと言った。
「そのミシュランの飯より
こっちのが、うまいか?」
コッペパンを、ひらひらと振る。
玲央は少しだけ、目を見開いて。
「……ばか言え」
ふっと口の端を上げた。
「比べるまでもねえよ。
……向こうのほうが、百倍うまい」
「なんだよ! せっかく人がいい話にしようとしたのに!」
「事実だ」
「くっそー! だったら毎日そっち行けよ!」
「……行かねえよ」
玲央はパンをかじりながら、そっぽを向いた。
その耳がほんの少しだけ、赤かった。
涼子がくすっと笑う。
美鈴も口元を押さえて笑った。
拓真だけが、「なんで笑うんだよ!」と、憤慨している。
──
「……ねえ、東條くん」
美鈴がそっと口を開いた。
責めるでもなく。
探るでもなく。
ただ、静かに。
「専科生って……大変?」
その問いに玲央の動きが、一瞬止まった。
拓真と涼子も思わず、玲央を見る。
「……大変、っていうか」
玲央は少し考えてから、言葉を選んだ。
「なんつうかな。……"見られてる"感じは、ずっとある」
「見られてる?」
「誰に、ってわけじゃない。
でも、常に"どう振る舞うか"を、点数つけられてる気がする」
「まぁ、今はないけど「七星生の心構え」はエグかったね…。」
懐かしむ拓真に対して、玲央はパンの袋を指先で
くしゃりと畳む。
「先輩たちの顔に泥を塗るな、って。
……直接言われたことは、一度もない。
なのに、全員、それを知ってる」
——七星のOBには、霞ヶ関や市ヶ谷の"住人"が、驚くほど多い。
そういう先輩たちが、ときどき"講演"に来る。
専科生は、その視線を、普通科の比じゃないくらい、近くで浴びる。
「見られてる」というのは、比喩じゃなかった。
拓真が、眉をひそめた。
「……なんだそれ。息苦しくねえの」
「息苦しいよ」
玲央はあっさりと答えた。
「だから、たまに、こういうとこに来たくなる」
そう言って屋上を、ぐるりと見回す。
フェンスとコンクリートと、秋の空しかない場所。
「ここ、誰も、点数つけてこないだろ」
──しん、と。
四人の間に、短い沈黙が落ちた。
それを破ったのは拓真だった。
「じゃあ、点数つけてやろうか」
「は?」
「玲央の今日の昼飯。
購買のパン、二個。……三十点!」
「なんでだよ!」
「だって涼子の弁当、百点だし。
美鈴ちゃんのも百点。
俺のたまご焼き、九十八点」
「自分に甘くない?」
涼子が、ぴしゃりと突っ込む。
「二点はどこ行ったの、二点は」
「焦げてた」
「自己採点、ガバガバすぎるやろ……」
美鈴が思わず博多弁で突っ込んで、慌てて口を押さえる。
その様子に拓真が吹き出した。
「今、なまってた!」
「なっ……なってないです!」
「なってたって! なあ、玲央?」
「……ああ。ばっちりな」
「東條くんまで!」
美鈴が、真っ赤になって抗議する。
その光景に、四人が声を上げて笑った。
——さっきまでの重い空気が、嘘みたいに。
秋の風が笑い声を、空へ運んでいく。
──そのときだった。
ヴッ、と。
玲央のポケットでスマホが震えた。
「……悪い」
玲央が、画面を取り出す。
そして——
その表情がふっとやわらいだ。
ほんの、少しだけ。
気づかないくらい、わずかに。
でも——確かに。
(……珍しい)
拓真が、思った。
(あいつが、あんな顔するの)
(初めて見たかもしれない)
中学の頃に交際した涼子も同じことを思っていた。
けれど二人とも何も言わなかった。
玲央はスマホをしまうとパンの袋を片付けて、立ち上がった。
「わりぃ。
……後輩の子が、"また"勉強教えてほしいって」
パンパンと制服の裾を払う。
「ありがとな」
その一言は、飯のことなのか。
それとも、座らせてくれたことなのか。
——たぶん両方だった。
「おう、またな」
拓真が軽く手を上げる。
玲央は、屋上の扉に向かって、歩き出した。
そして扉に手をかけたところで——ふと、足を止めた。
振り返らずに言う。
「……そうそう」
「ん?」
一拍、置いて。
「紹介があれば、普通科の人も入れる、って
……噂を、聞いたことがある」
それだけ言って。
玲央は、扉の向こうへ消えていった。
残された三人が顔を見合わせる。
「……今の」
拓真が、ぽかんとしている。
「誘われた?」
「誘われたね」
涼子が、笑った。
「あの子、ほんっとに不器用なとこ
変わってない。」
美鈴も、くすくすと笑う。
——けれど。
扉が閉まったその先で
玲央のスマホの画面には
メッセージが残されていた。
《東條先輩、こんにちは
柴田です》
《……また国語を教えていただけませんか?》
玲央は素早く返信する。
《放課後の図書室で待ってる》
その名前は玲央以外
誰も知らない。
──
放課後の、音楽室。
窓の外は、もう夕暮れの色を帯び始めていた。
部員たちが、いつものように楽器の準備をしている。
——そこへ、部長が、少し改まった声で言った。
「みんな、ちょっといいか」
譜面台の並ぶ前で、部員たちが顔を上げる。
「今日はこのあと……
山本生徒会長と、望月副会長が来られる」
ざわ、と。
部員たちの間に、小さな動揺が走った。
「コンクールのときの演奏を聴きたい、とのことだ」
その一言で、空気が、少しだけ張りつめた。
——コンクール。
結果は、金賞。
けれど、全国には手が届かなかった。
いわゆる、"ダメ金"。
あと一歩。
あと、ほんの少しで、届かなかった。
その演奏を、もう一度。
しかも、生徒会長の前で。
部員たちの顔に、緊張が、にじむ。
美鈴も、その一人だった。
(……今の私に、あの音が、出せるやろか)
自分のクラリネットは、まだ、修理から戻っていない。
今日使うのは、学校の備品。
手に馴染んだ、あの一本ではない。
指先で、そっと、キーの感触を確かめる。
——大丈夫。
音は、楽器が出すんじゃない。
自分が、出すんだ。
そう、あの夏に学んだ。
──
準備が整った頃。
音楽室の扉が、静かに開いた。
山本 結衣。
そして、その隣に、副会長の望月 柚愛。
二人がパイプ椅子に腰を下ろす。
部員たちの視線が思わずそちらへ集まった。
生徒会長。
——気さくな人だけど、いつも、どこか忙しそうで。
こうしてゆっくり顔を見るのは、なかなか、ない。
その人が、今、自分たちの演奏を、聴きに来ている。
緊張で指がこわばりそうになる。
——そのとき。
「あ、きんちょーさせたらごめんねー」
結衣がふわりと、微笑んだ。
「私のことは、気にしないで。
品評しに来たんじゃないの。
……ただ、聴きたかっただけ。
あなたたちの、"あのときの音"を」
椅子の背に、ゆったりともたれる。
「だから——思いのままに、演奏して。
私がいることなんて、忘れちゃっていいから」
その一言で。
張りつめていた部員たちの肩からすっと、力が抜けた。
美鈴もふっと息をつく。
(……そっか)
(聴きたいって、言ってくれてるんやね)
(だったら——届けよう)
部長が指揮台に立ち
タクトが上がる。
それに呼応するかのように
部員たちが、楽器を構える。
美鈴も借り物のクラリネットを、そっと唇に当てた。
——一瞬の静寂。
そして
タクトが、振り下ろされた。
課題曲の最初の一音が、音楽室に満ちる。
夕暮れの光の中で。
あの夏の音が——もう一度、鳴り始めた。
──
演奏が、終わった。
最後の一音の余韻が、音楽室の天井に
ゆっくりと吸い込まれていく。
しん、と静まった空気の中で——
ぱち、ぱち、と。
控えめな二人の拍手が、聞こえた。
「……すご」
結衣の顔には、お世辞ではない
素直な感嘆があった。
「ありがとう。……本当に、いいものを聴かせてもらった」
一拍おいて結衣は続けた。
「コンクールは、残念だったけどね。
……その代わり、"文化の日演奏会"に、声がかかったんでしょう?」
部員たちが、はっと顔を上げる。
商店会が主催するその演奏会は、
大学サークルや社会人楽団——いわば"猛者"ばかりが集う場だ。
高校の部活が呼ばれるのは、異例だった。
望月副会長が、深く頷く。
「11月まで時間はないけど。
……あなたたちなら、きっとやれると信じてます」
その言葉に、部員たちの顔に、ようやく、ほっとした笑みが浮かんだ。
——それから、しばらくして。
結衣たちが音楽室を出ようとした、そのとき。
「あの……っ、山本会長」
美鈴が思わず、呼び止めていた。
──
空き教室。
夕暮れの光が、床に長く伸びている。
二人だけの、静かな空間。
「ここなら、いいかなー。で、
どしたの?西村さん」
軽快な口調で話す結衣に対し
美鈴はしばらく、言葉を探していた。
そして——意を決して、口を開く。
「……野中くんを、自衛隊病院に転院させたの。
……会長、ですよね」
結衣の表情が、動かなくなった。
「佐藤さんから、聞きました」
沈黙。
窓の外で風が、木の葉を揺らす音がした。
結衣は何も言わない。
肯定も、否定も、しなかった。
——きっと、責められると思っているんだろう。
美鈴は、そう感じた。
「……その。
ありがとうございました」
美鈴は静かに頭を下げた。
「……え?」
結衣の目が、はじめて丸くなった。
美鈴は顔を上げて、まっすぐに言った。
「あの病院のまま居たら……たぶん、私。
"わたし"で、居られなくなってたかもしれません」
「……」
「毎日、通って。
声をかけて。
そうしてる自分に、安心してるだけでした」
美鈴は語り続けた。
「黙って転院させられたのは……
最初は、正直、むかつきましたけど」
「……おかげで。
もう一度、自分を見つめ直すこと、できました」
──
結衣はしばらく、美鈴を見つめていた。
驚いたまま。
言葉を失ったまま。
そして——ゆっくりと。
その表情が、やわらかく、ほどけていった。
「……そっか」
小さく、笑う。
「こっちこそ、ありがとね」
美鈴が、きょとんとする。
「今日の演奏を聴いて。
……自分の信じてる道、間違ってなかったって。
改めて、思えたから」
「……そうですか」
「"音楽ひとつで、世界が変わる"——
って、聞いたことあるでしょ?」
結衣は、窓の方を向いた。
夕日がその横顔を赤く染めている。
「あれに、近いかな」
「そ、そんな……!
私たちは、そんな大それたこと……」
美鈴が、あたふたと手を振る。
結衣は、くすっと笑ってから——
少しだけ、真面目な顔になった。
「……詳しいことは、言えないけどね」
結衣は窓の方に歩き始める。
「この学園の"生徒会長"って
……下手したら、そこらの"お偉いさん"並みに、重いの」
美鈴の動きが、止まる。
結衣は窓から外を見下ろす。
そこには、トラックを懸命に走る者。大声で指示する者。
金属バットが鳴る音。楽器の音。そして、下校する者。
結衣は、その日常が愛おしいような顔をした。
「……そうすればするほど、わからなくなる。
自分が、正しいのか」
「……」
美鈴は、何も言えなかった。
いつも飄々としているこの人が。
そんな横顔を、見せるなんて。
結衣は、それ以上は言わなかった。
ただ、ふっと、いつもの笑顔に戻る。
「——だから、今日、来たの」
「……ありがとう、ございます」
美鈴が、深く、頭を下げる。
——けれど。
「……っていうのは、建前」
結衣がいたずらっぽく、笑った。
「え?」
「本音はね」
一歩、近づいて。
美鈴の目を、まっすぐに見る。
ただ静かで、真剣。
「……ここから先、蓮を、お願いしてもいいかな」
「——っ」
美鈴の背筋が伸びた。
考えるより先に言葉が出ていた。
「はいっ!」
即答だった。
その返事に、結衣は——
今日いちばん、やわらかく笑った。
「……うん。
よかった」
そう言って結衣は、空き教室を出ていった。
──
日が、落ちきる少し前。
美鈴は、いつもの通学路を、ひとりで歩いていた。
ふとカバンから、イヤホンを取り出す。
スマホの、音楽アプリ。
再生したのは——「キャンパスモード」。
コンクールの自由曲であり。
涼子が編曲した原曲。
歩きながら、流れる歌詞を目で追う。
明るくて。
まっすぐで。
少し気恥ずかしくなるくらい、前向きな曲。
美鈴はようやく涼子が託した意味を知った。
(……蓮くん、絶対涼子さんに突っ込むやろな)
美鈴は、くすっと笑った。
(「なんで吹部でこの曲なんだよ」って)
(「これ、アイドルの曲だろ」って)
——目に浮かぶ。
オタクの蓮が、律儀にそこに反応する顔が。
(でも、きっと)
(ちょっと、嬉しそうにするとよ)
(自分の好きなものが、うちらの演奏になってたら)
そう思うと、また、笑みがこぼれた。
──
イヤホンから流れる曲に、そっと心を重ねる。
——ねえ、蓮くん。
まるで、手紙を書くみたいに。
心の中で、語りかける。
——あなたが、いなくなってから。
——ほんとにいろんなことが、あったよ。
あの日。
あなたが東條くんを庇って、事故に遭って。
——最初はね。
——何がなんだか、わからんかった。
蓮がいる病院に通い、ICUの窓越しに眺める日々。
美鈴は懐かしいように思っていた。
——うち、あのとき。
——あなたのために、通ってるつもりやった。
——でも、ほんとは、違った。
——あなたがおらんくなる怖さから、逃げとっただけ。
音まで、出せなくなって。
クラリネットが、あなたの声みたいに聞こえて。
吹くたびに泣いてた。
——でもね。
——一度、離れたと。
——音楽に、逃げ込んで。
——そしたら、少しずつ、分かってきた。
コンクールで。
借り物じゃない、自分の音で。
——うちは、うちの音を、取り戻したと。
——あなたに、届けるために。
──
信号が赤になり、美鈴は
蓮が事故に遭った横断歩道に立ち止まった。
流れていく車の、ヘッドライト。
イヤホンの中で、曲は、少しずつ、終わりへ向かっている。
——今日はね。
——みんなと、お昼を食べたと。
——東條くんも、来てね。びっくりした。
——拓真くんの勉強が、やばくてね。
——あなたが戻ってきたら、二人で赤点かもしれん。
——涼子さんも、ちゃんと、笑っとったよ。
——結衣会長にね。
——「蓮を、お願い」って、言われたと。
——だからうち、「はい」って、即答した。
——即答しすぎて、ちょっと、恥ずかしかった。
──
曲が終わりに、近づく。
最後のサビが、イヤホンの中で、高らかに響く。
——ねえ、蓮くん。
——来週には、退院できるかもって。
——そしたらクラスの席に、また座るとやね。
——うちがお弁当渡すと。
——あの日渡せんかったお弁当を。
——だから。
信号が青に変わる。
その瞬間——ふと、美鈴は空を見上げた。
藍色に染まりかけた、夕暮れの空。
その低いところにひとつだけ
ひときわ強く、光る星があった。
宵の明星。
夜の、いちばん最初に。
いちばん明るく、輝く星。
まだ暗くなりきる前から
真っ先にそこにいる。
まるで——誰かの、帰りを待つみたいに。
美鈴はしばらくその光を見つめていた。
イヤホンの中で。
曲が、静かに、終わる。
——最後の音が、消えて。
しん、とした、夕暮れの中で。
美鈴は、そっと、微笑んだ。
「……待ってるね。蓮くん」
小さな。でも、確かな声。
その声は、夕風に溶けて。
宵の明星に向かって、まっすぐに、昇っていった。
同じころ
学校の、とある一室。
かつては使われなくなった資料室だった場所。
扉には、そっけない札が一枚。
『没収品目:成人向け雑誌および有害図書』
教師すら、わざわざ踏み込もうとはしない。
——そういう部屋だ。
だが、その扉の内側は。
棚という棚に、ファイルが詰まっていた。
各国の、情報機関の資料。
現在進行形で、極秘扱いのものも混じっている。
精神医学の論文。心理操作の研究。暗号化された通信ログ。
「有害図書」という名の蓑をかぶって。
スタンドライトの青白い光。
さまざまの機器のLEDが激しく点滅していた。
その光が、ひとりの少女の横顔を照らしていた。
柴田しおん。
風紀委員・一年代表。
彼女はモニターに映る情報を、静かに見つめている。
「……いよいよ、ですね」
その声に、棚の前に立っていた少女が振り返った。
長谷川カレン。
生徒会参事兼・風紀委員長。
赤い髪が、間接照明にほのかに揺れる。
「『地位協定』が凍結されてもう直ぐ1年」
カレンの指が、棚のファイルの背をそっとなぞる。
「あのとき。
先輩方が、私たちに託していったもの」
その声には、熱があった。
静かで、でも、揺るがない熱。
「"風紀"。
——そう呼ばれてはいるけれど。
その実、この学園を内側から支えてきた、たったひとつの秩序」
指が止まる。
「それが今、崩れかけてる」
カレンは、目を細めた。
「好き勝手に、恋をして。
好き勝手に、笑って。
好き勝手に、丈に合わない未来を語る。
……そう。学園の生徒(あの子)たちは、何も知らない。
その"当たり前"が、誰の手のひらの上にあるのかを」
しおんは、何も言わなかった。
ただ、キーボードに指を走らせる。
「"パペット"の構築、進行率は88パーセント」
淡々とした声だった。
感情の、読めない声。
「ログの同期も、進んでいます。
管理層への割り込みも、間もなく完了」
「……ただ、ひとつ」
しおんの指が、止まった。
「"イレギュラー"が、動いた場合。
計画の、修正が必要になります」
カレンが、片眉を上げる。
「イレギュラー?」
「例の、事故のあとに——目を覚ました子です」
一瞬の、間。
カレンは、ふっと笑った。
「野中蓮のこと?
……問題ないわ。
あの子は今、ようやく起き上がれるようになった程度。
本格的に動く前に、また倒れてもらうわ」
棚に、背を預ける。
「それより——気をつけておくのは、佐藤涼子のほう」
その名前に、しおんが顔を上げた。
「……パソコン部の?」
「そう。あの子、技術的には、この学園でいちばん"近い"ところにいる」
カレンは、目を細めた。
「今は、まだ気づいてない。
……同じ部の"子"が、ちゃんと見てくれてるしね」
「もし、あの子が"手を伸ばそう"としたら」
一拍、置いて。
「——一家ごと、"転校"してもらうまで」
その口ぶりは。
まるで、天気の話でもするように、軽かった。
しおんは、答えなかった。
代わりに、モニターの一つを、切り替える。
暗い画面に、ぽつりと、新しいウィンドウが開いた。
外国語で書かれた、ファイル名。
その下に——制服姿の、少年の顔写真と詳細な個人情報。
穏やかで、どこか不器用そうなその顔の持ち主の名は。
[Local name:東條 玲央]
しおんはその写真を、じっと見つめた。
「……"彼"が、戻ってくる前に」
しおんの声は、静かだった。
「私たちの秩序を、取り戻しましょう」
そう言って、写真を、閉じる。
——その手が。
いつもより、ほんの少しだけ、遅かった。
本人も、気づかないくらい。
コンマ数秒の、鈍り。
閉じたはずの画面をもう一度、開こうとして——
指が宙で止まる。
「……しおん?」
カレンの声に、はっと指が動く。
ウィンドウが消え、ログイン画面に戻る。
「……いえ。なんでも」
しおんは、いつもの感情の読めない声で言った。
——自分でもなぜ手が鈍ったのか
その理由をまだ、知らないまま。
カレンは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、小さく頷いた。
「——"風紀"の、再構築を」
スタンドライトの光が、二人の影を壁に長く落としている。
その部屋には、窓がなかった。
外の光も。
外の音も。
何も、届かない。
ただ、無数の機密情報の塊が静かに
息を潜めているだけだった。
——学園の、あたたかな日常の。
そのすぐ裏側で。
「何か」が静かに、動き始めていた。




