第10話「夢の中の、「日常」」(後編)
季節が移り変わるたびに、あの"6人"での活動は、変わらぬようでいて、少しずつ深まっていった。
──初夏・放課後の図書室にて
「はいそこ、"be動詞の使い分け"、また引っかかってるよ。の・な・か・くん」
結衣の指先がノートの余白を軽く叩く。蓮はペンを止め、苦笑いを浮かべた。
「うぅ……俺、"beingオタク"ではあるんだけどなぁ」
「それ、英語じゃなくて属性だから」
隣で玲央が吐き捨てるように返し、拓真が吹き出す。
──試験後
「成績、地味に上がってるよ」
涼子が蓮の答案を持ち上げて、みんなに見せる。
「5点アップ……って、なんかしょぼくない」
「でもこれ、英語だけ赤点続きの蓮史上高得点だよ」
「ありがと。みんなのおかげ」
蓮が照れくさそうに頭をかくと、美鈴がそっと紅茶の缶を差し出した。
「じゃあ、"おつかれ紅茶"どうぞ。うちのごほうび」
「わぁズルっ、俺にはないの?」
「そりゃー、野中くんは"がんばったもん勝ち"ってことやね」
くすくすと笑いがこぼれる夕暮れ。
オレンジ色の光の中で、ノートのページがぱらぱらと揺れていた。
──海辺にて
「たくまーっ、ひだり! ひだりぃーー!」
「おっけぇー、そこだっ!!」
「いけぇーーっ!」
──ばしっ。
音は豪快に響いたが、スイカは……微動だにしていなかった。
「……おかしいな。振り抜いた手応えはあった」
拓真がアイマスクを外すと、スイカは数センチ横にある。
「うそやろ!? もしかしてスイカって移動する仕様?」
「違うよ。藤井が"右に"行っただけ」
即答する涼子に、みんなが笑い出す。
「はい、拓真はスイカ没収ねー」
「ちょ、待て、そんなん納得いかん! 俺、全力でやったのに!」
「うちの"ひやしカプヌ"ならあるけど?」
「……海辺でカップ麺って、どこの南極基地だよ……」
「美鈴の体感温度、やっぱバグってる」
「それなー」と蓮も笑う。
波音と笑い声が混ざる砂浜。
その日、誰もが「夏」を全身で覚えていた。
──二学期・学校祭にて
「お前らーーッ! 楽しめてるかーーッ!!」
玲央のつんさくボイスがマイクを通して炸裂し、会場の空気が跳ね上がる。
ステージには学内ロックバンド《ブラックバイン》のメンバーたち。
ボーカル玲央のカウントで、一気に音が走り出す。
「ならいくぞォ!!──」
ギターとドラムが会場を揺らす。
その最前列近くで、蓮・拓真・涼子・結衣が拳を掲げ、飛び跳ねていた。
「うおお、まさかあの"玲央サマ"がロックで来るとは!」
「バチバチに似合っててくやしい……」と涼子が呟く。
そして──
ステージに向かって誰よりも激しく手を振っていたのは、美鈴だった。
「玲央くーん! 世界一カッコいいけんねーー!!」
「の、ノリ方が……レベチ……」
蓮が笑いながら呟くと、隣の拓真が肘で突く。
「彼氏冥利に尽きるってやつじゃねぇか」
「そうかもな。……なんか、ちょっと羨ましいわ……ってお前もだろ!」
青春の音が、会場を震わせる。
それぞれの時間が、ほんの少しだけ重なった午後だった。
──
しかし、そんな時間も。
この夢のような日常も。
あと少しで終わるのだと、蓮は忘れかけていた。
12月24日、終業式後のファミレスにて。
冬休み突入の解放感と、街にあふれるイルミネーションの高揚感が入り混じる夕方。
駅前のファミレスは、高校生たちの喧騒に包まれていた。
その中、ひときわ目を引く6人組が、窓際のテーブルを囲んでいる。
野中 蓮と佐藤 涼子。
藤井 拓真と山本 結衣。
東條 玲央と西村 美鈴。
自然とペアで座るその姿は、周囲から「仲良しグループ」「高校生カップルの理想型」と
言われるのも納得の絵面だった。
「ねえねえ、蓮。じゃじゃーんっ!」
涼子が取り出したのは、白と金をあしらったチケット。
そこには、世界的にも有名な交響楽団のロゴと、「アニメ・メドレーコンサート」の文字。
「え、これ……マジ? 当たったの?」
「うんっ、応募したら、当たっちゃった! なんか、運命って感じじゃない?」
彼女の笑顔は、まるで雪の中で咲く花のように眩しかった。
「へえ……すごい。しかも、これってペアチケットじゃん」
「そうそう。蓮と、行こうね?」
「……うん、ぜひ」
その瞬間──
「ねえ涼子」
結衣が、ドリンクのストローをくるくる回しながら言う。
にこにことした顔だが、目だけが笑っていない。
「コンサートって、暗いじゃん?」
「……そうだけど」
「暗いところで、蓮くんが隣にいたら──どうなるか、分かるよね?」
「っ……! わ、分かんない!!」
「顔が全部しゃべってるじゃーん」
結衣がケラケラ笑う。
「だってさ、涼子って普段クールなのに、蓮くんの話になると秒でこうなるもん。
……かわいいよね、ほんとに」
最後の一言は、からかいではなかった。
むしろ、そっと背中を押すような──そんな温度だった。
涼子はチケットで顔を隠しながら、
「……うるさい」
とだけ言った。
美鈴が炭酸水を吹き出しそうになるのを必死でこらえている。
玲央が「もう見てられない」とそっぽを向く。
拓真が何も言わずに笑っていた。
ふと、拓真がテーブルに肘をつきながら呟く。
「……これで、やり残すことはないな」
それに応えるように、玲央も静かに頷いた。
「ああ」
2人の言葉は意味深で、どこか区切りを感じさせるようだった。
「……?」
蓮だけが、そのニュアンスを読み取れず、首をかしげる。
それでも彼の心には、どこか胸がざわつく感覚が残った。
楽しさと不安。
笑顔の裏に潜む、終わりの足音──
それはまだ、夢の中の出来事だった。
──
ファミレスの前。
冷たい風がカランとドアベルを鳴らす。
出てきた6人は、自然とそれぞれの方向へと散り始めていた。
「――じゃ、俺らはこのあと寄るとこあるから」
と拓真が軽く手を上げる。
「またな、蓮」
玲央も、それに続くように肩をすくめて言った。
「……え、なに? 二人とも、別れの挨拶みたいじゃん。明日も会うだろ?」
蓮が笑って聞くと、玲央は少し目を細めて、
「――蓮らしいな」
拓真も続けて、どこか懐かしむような声で、
「だな……」
「……は?」
空気が変わった気がした。
さっきまでの冗談混じりの笑顔とは、どこか違う。
でも、蓮は言葉の意味を噛み砕けず、ただ目を瞬かせるだけだった。
「ほら、蓮。もうすぐ時間になるから――いこ?」
涼子が、すっとその手を取る。
少し強引に引っ張られる形で、蓮は歩き出す。
「ちょっ、お代は!?」
「だいじょーぶ、あたしの奢りだよーん♪」
後ろから、結衣の明るい声が飛んできた。
「……『いつか奢ってね』っていうタイプだ、あれ……」
蓮はそうぼやきつつも、繋がれた涼子の手の温度を感じながら歩を進めた。
その背中を見送る玲央と拓真たちは、どこか遠くを見るような目で、
無言でうなずき合っていた。
まるで、「この夢の先」を、ふたりだけが知っているかのように──
蓮の部屋。
「……ん?」
階段を降りようとした蓮は、一度自室へ引き返した。
ふとベッドの上に視線をやると、そこには見覚えのないタキシード一式が、まるで彼を待っていたかのように広がっていた。
「……え、こんなの俺、持ってたっけ?」
黒地に深い紺のアクセント。胸元には控えめなチーフ、そしてワイシャツとカフスまで完璧に揃っている。
だが、記憶にない。なのに、何故か「これは自分のだ」と思えてしまう。
「――ドレスコード、か……なんか、スター俳優みたいだな」
独り言のようにぼやきながら、蓮はタキシードに袖を通す。
驚くほど体に馴染んでいて、鏡に映った自分の姿は、
どこか別世界の人間のようだった。
階段を降りると、母が「おぉ~」と歓声を上げた。
「見てよお父さん。うちの蓮くんが……なんてカッコいいの!」
「ふふ、まるで映画のプレミアにでも行くみたいじゃないか」
「そっちか結婚式か、だよねぇ」
父と母のやり取りに、蓮は苦笑いを浮かべる。
「で? どこ行くの? 俺、なんか大事な用事あったっけ?」
「あるさ。君の"今日"のためにね」
父が得意げに言いながら、玄関から外を指差した。
「キミのために、タクシー呼んでおいたよ」
ドアが開く。
冷たい空気とともに現れたのは──光沢のあるブラックボディに、
シルバーのエンブレムがまばゆいマイバッハ風の高級車だった。
「……結婚式にでも出されるの? 俺」
「まぁ、そんなところだな」
そう答えた父の表情には、どこか"覚悟"のようなものがあった。
けれど、蓮はまだ気づかない。
これは夢であり──そして夢が、終わりに近づいていることに。
蓮は、用意されたドアをくぐり、
高級車の後部座席へと腰を下ろした。
──静かだった。
エンジン音すら気配を殺し、
革張りのシートが身体を包み込む。
窓の外を流れていく街の光景も、どこか現実感が薄い。
「……蓮様、到着いたしました」
運転手の穏やかな声に目を開けると、
そこはすでに、コンサートホールの正面口だった。
「……うたた寝、してました?」
「少しだけ。でも、それだけリラックスされていたということでしょう」
運転手がそう言って微笑む。
蓮は小さく息を吐いて、言った。
「この車に乗るの、たぶん……最初で最後かもしれない」
「ええ。ですが、"一生の思い出"としては、悪くないかと」
ふたりの言葉は穏やかに交わされ、やがて車が静かに停止する。
運転手が静かにドアを開ける。
蓮はゆっくりと足を外に出し、立ち上がる。
ほんのわずかに肌を撫でる冷たい風に、目を細めた。
「ありがとうございました」
蓮が振り返って深く一礼すると、運転手もまた静かに頭を下げる。
「行ってらっしゃいませ、蓮様」
低く、穏やかな声。
それはどこか、背中を押してくれるような響きを持っていた。
蓮は小さくうなずき、視線を前へ戻す。
まばゆいライトが照らす会場の入り口へ──
一歩、また一歩と足を進めていく。
──
目の前に広がるのは、都内有数のクラシックホール。
煌びやかなシャンデリアが天井から吊るされ、光の粒が降り注ぐロビーには、すでに多くの人々が集まっていた。
談笑する声、パンフレットを手に歩くカップル、受付に並ぶ親子連れ。
それぞれが楽しげに"これからの時間"を待っている──そんな空気に包まれていた。
蓮はその流れに乗るように、案内板の矢印に従いホールの扉を押し開けた。
……しかし。
「……あれ?」
観客席のひとつひとつにはカバーがかかったまま。
無数の椅子が、まるで誰の到着も想定していないかのように沈黙している。
スポットライトの当たらないステージは、奥に向かって吸い込まれるような暗さをたたえていた。
「間違えたのかな……?」
不意に、背後から声が届く。
「間違えてないわ」
振り返った蓮の視線の先──
そこに立っていたのは、赤紫色のワンピースを身にまとった涼子だった。
彼女の髪はいつもよりふんわりと巻かれ、
唇には控えめなピンク。
スカートの裾がきらりと揺れ、
まるで舞踏会のプリンセスのように、その場に溶け込んでいた。
「ふふ……"今夜"のために、張り切っちゃった……なんてね」
ちょっとだけ恥ずかしそうに笑う彼女の姿に、
蓮は、ほんの一拍、言葉を失った。
(……綺麗だ)
それは、心の奥から浮かんできた素直な感情。
だけど、それを口にすることはなかった。
静かなホールに、彼女のハイヒールの音がやわらかく響く。
「こっち。始まるわよ──私たちの、コンサート」
その言葉とともに、
涼子はホールの奥、まだ明かりの落ちた座席列へと歩き出した。
蓮もまた、その背中を追いながら、
心のどこかで"何か"が動き出す音を、確かに感じていた。
──
ホールの灯りが落ち、
舞台の奥からひと筋のスポットライトが差し込む。
ゆっくりと幕が上がり、オーケストラのチューニングの音が静かに消えると──
「……これって」
蓮の耳に届いたのは、
聞き慣れたイントロだった。
それは、自分が夢中になったあのゲームのボス戦テーマ。
続いて、あのアニメの、仲間が別れを告げるあの場面の挿入曲。
そして、気がつけば──彼がこれまで心を奪われてきた"音楽"たちが、次々と流れ込んでくる。
ステージ上では、楽団が見事な編曲で次々と"蓮の記憶"を奏でていた。
それは、あまりにも優しく、あまりにも懐かしく──
まるで彼の"人生そのもの"をなぞるようなメドレーだった。
ふと、隣を見ると、涼子がそっと目を閉じていた。
長いまつげが揺れ、頬にはほんのり朱がさしている。
彼女もまた、心で音を聴いているようだった。
やがてフィナーレの音がフェードアウトし、
会場はやわらかな静寂に包まれる。
そして──
静かに一人の少女がステージに現れた。
白く淡いワンピースに、足元には裸足。
蓮が思わず息を呑んだのは、その顔に見覚えがあったから。
(……あの夢の中の、泣いてた子……)
ステージの中央に立った少女が、ピアノの伴奏と共に、歌い始める。
「夢のあとに」
ガブリエル・フォーレの旋律が、やさしく、けれどどこか胸を締めつけるようにホールを包む。
その声は、少女の姿からは想像できないほど深く、魂に触れるようだった。
言葉はフランス語なのに、意味など分からなくても──
なぜか蓮の胸の奥に、熱くしみこんでいく。
「……ねぇ、蓮」
隣から、小さな声がした。
「……もう、気づいてるでしょ?」
涼子の声は震えていた。でも、それは怖さや悲しさではなく、
むしろ覚悟を込めた、温かい揺らぎだった。
「夢の……終わり、なのか?」
蓮がぼんやりと呟いたその声に、隣の涼子が静かに答える。
「──うん、そう。
……もう、夢の終わりだよ」
そう言った彼女の顔は、微笑んでいた。けれどその瞳だけは、どこまでも悲しげだった。
「ねえ、蓮……。
この世界はね、"あなたが見たいと思った世界"なの。
みんなが笑ってて、誰も傷つかなくて、あたしとあなたは、ちゃんと隣にいて……」
静かに視線を舞台へと向ける。歌声は、まるで祈るようにホールを包み込む。
「でもね、本当は──あたし、もう知ってるんだ。
この夢と正反対のことが、現実で起きてるってことを」
涼子の言葉に、蓮は息を飲む。
「結衣先輩は、あなたのために戦った。
美鈴ちゃんは、音を失って、それでもあなたのためにステージに立った。
拓真は、あなたを信じて、仲間として何度も立ち向かってくれた。
……そしてあたしは、ひとりで、あなたの病室に通い続けてる」
一呼吸置いて、涼子はゆっくりと瞳を閉じる。
「この夢の中では、全部"叶って"いるように見えるけど……
現実はもっと、ずっとぐちゃぐちゃで、うまくいかなくて、苦しくて……でも、
それでも──
それでも、あなたのこと、好きなんだよ」
そう言ったときの涼子の声は、泣いているようにも、微笑んでいるようにも聞こえた。
「……たとえ、あたしがあなたにとって"ただのおせっかいな女の子"だったとしても。
現実では、うまく言えなくても。
それでも、こんなに──"愛してる"って思うくらい、好きなんだよ」
蓮は、言葉を失っていた。
涼子の瞳に浮かぶ涙は、どこかにいる"現実の涼子"のものなのか、それともこの夢の中の涼子のものなのか。
それさえも、今の蓮にはわからない。
ただ──
その想いだけは、確かに蓮の胸に届いていた。
「…………」
音楽は、最後の旋律を優しく奏で、
ステージ上の少女が、静かに頭を下げ、舞台袖に向かって歩いた。
そして、すべての音が──止まった。
舞台の灯が落ち、ホール全体が再び静寂に包まれる。
「……なあ、もし……これが、夢なんだったらさ」
隣にいる涼子に、蓮はゆっくりと顔を向ける。
彼女もまた、涙を浮かべながら、そっと微笑んだ。
「……うん」
その声は、今にも崩れてしまいそうで──それでも、優しかった。
「一つだけ……願いを叶えても、いいかな」
「……」
小さく頷く涼子。
蓮は静かに、そして確かに言葉を紡いでいく。
「──本当は、俺はあの時のゲーセン以来ずっと……お前のこと、気になってたんだ。
でも……中学の時にさ。あの、"地位協定"という存在を知って……
俺みたいな"オタク"が、誰かを好きになるのは、許されないって思ってて」
涼子はゆっくり、目を伏せたまま話を聞いている。
「お前のこと、見てた。
明るくて、ちょっと強引で、でも……やさしくて、ほんとは繊細で。
誰よりも人を想える、お前のこと──本当は、ちゃんと好きになってたんだ。
……でも、それを言うことすら、怖かったんだ」
言い終えた蓮の頬にも、ひとすじの涙が伝っていた。
「もし、もしあの協定がなければ……
たぶん、俺……お前のこと……」
その言葉を言い切る前に、涼子がそっと手を伸ばして──
蓮の頬に触れる。
「……大丈夫、もうわかってるよ」
そして──涼子の唇が、蓮の唇に、そっと触れた。
優しく、静かで、でも確かに"想い"が宿ったキスだった。
「……わたしは、ここで輝いたよ。
夢の中でも、ちゃんと、あなたの隣で。
……だから、蓮。
目を覚ましたら──
今度は、あなたが輝いて。
誰かのために。自分のために。
わたしみたいな"ただのおせっかい"の子のためでも、いいから」
「……うん」
舞台の照明が、ぱっと明るくなる。
先ほど「夢のあとに」を歌っていた少女は、
今は凛とした指揮者の衣装をまとい、
静かに、そして誇らしげに指揮台に立っていた。
右手には、白銀の指揮棒。
その先に、音の光が広がっていく。
アンコールの幕が上がる。
流れ始めたのは──あの自由曲。
吹奏楽アレンジによる──
「キャンパスモード」
まるで、夢のすべてが再生されるかのように。
音楽が、煌めきを放ちながらホール全体を包み込んでいく。
蓮と涼子は、並んで座りながら、
その"終わりの音"を──ただ、静かに聴いていた。
明るくて、少し懐かしいメロディ。
それはまるで、彼らの高校生活を音符に起こしたような、やさしくて、力強い音。
蓮と涼子は、客席の隅で──そっと手を繋いだまま、その音に耳を傾けていた。
ふと、蓮の眉がわずかに動いた。
クラリネットソロが入る直前、柔らかく、でも芯のある音色が空気を揺らす。
「……この音……」
目を細めて、ステージの奏者に視線を向けた。
演奏者の顔は見えない。でも、その"音"が、蓮には確かにわかった。
「……美鈴、だ」
横で涼子が、ふっと笑う。
目元には涙を浮かべながらも、嬉しそうにうなずいた。
「うん。彼女、がんばったんだよ。
ほんとはね、怖かったんだと思う。失敗するのも、あなたの前で吹くのも。
それでも彼女、自分で決めたの。"やる"って」
「……」
涼子の言葉を聞きながら、蓮はステージを見つめる。
遠い距離なのに、まるで手が届くような、あたたかい音が続いていた。
「……でもさ、俺がここにいられるのは、
たぶん、その音のせいだけじゃなくて……
"お前"がいたからだと思うんだ」
「……え?」
「俺さ、もうダメだって思ったとき……
お前が話しかけてくれた。
食堂で一緒に食べてくれた。
一緒に笑ってくれた。
夢の中かもしれないけど……それでも、あの時間が嬉しかった。
……ありがとう、涼子」
涼子の頬に、ぽろりと涙がこぼれた。
「うん、うん……! ……あたしも、蓮くんがいてくれて……ほんとに、よかった……!」
握った手が、強くなる。
そのぬくもりが、これまで以上に現実味を帯びていた。
演奏は終盤へ。
ステージが、光に包まれる。
響きが、天井へ、心の奥へと届いていく。
蓮は、そっと涼子の肩に手を添えた。
「……蓮?」
「……もう一度、夢の中でも、伝えたい」
静かに、彼は涼子の方へと顔を近づけた。
涼子も、ほんの少し目を閉じ──
そしてふたりは、
ステージの音に包まれながら、
長く、やさしく、
お互いの想いを確かめ合うように──
キスを交わした。
終章のフレーズが、ホール全体に広がる。
まるでふたりのキスを祝福するかのように。
夢の中で、
ふたりは、ちゃんと結ばれていた。
まるで深い海から浮かび上がるように、
意識がゆっくりと現実へと引き戻されていく。
──自分の部屋でも、学校のものでもない白い天井。
──かすかな機械音。
──そして、まぶたを通して感じる、柔らかな月の光。
(……ここは……)
まばたきを一度。
もう一度。
瞳が、少しずつ焦点を取り戻していく。
そこは、病院の個室だった。
点滴の音。
わずかに揺れるカーテンの隙間から差し込む光。
聞き慣れた電子音が、どこかで律動を刻んでいた。
蓮はゆっくりと右手を動かし、胸元へ当てる。
白いTシャツの胸のあたり──
そこに、ほんのりとした湿り気を感じた。
汗ではない。
涙……だろうか。
手のひらに残るその感触が、なぜかあたたかかった。
「……ゆめ……か……」
夢の中で触れた笑顔。
夢の中で繋いだ手のぬくもり。
夢の中で交わした、想いのかたち。
「……」
静かな部屋の中、誰にともなく、
蓮はそっと、つぶやいた。
「……ありがとう……りょうこ……」
その声は、かすれていて、かすかだった。
けれど、確かに温もりがあった。
その言葉とともに、蓮の頬を一筋の涙がつたう。
ほんの一瞬、
蓮の唇が、かすかに、微笑んだ気がした。
──そして、静かに目を閉じた。
それは、夢の続きを願うためではない。
これから"現実"の中で、
彼女に、そしてあの日々に、
いつか"ちゃんと"応えるために。




