第10話「※夢の中の、「日常」」(前編)
─ピピピッ、ピピピッ、ピ……
「……んー……っ」
薄暗い部屋に響くスマホのアラーム音。
手探りで枕元に伸ばした手が、ディスプレイをタップしてそれを止める。
カーテンの隙間から、やわらかい朝の光が差し込んでいた。
「……7時……月曜日か……」
目をこすりながら、蓮はベッドの中で小さくため息をついた。
いつもと変わらない朝。
だけど、ほんの少しだけ、空気が違う気がする。
(なんか……やけに、静かだな……)
耳をすませば、階下からは母親がキッチンで動く音。
テレビからは朝のニュースの声が微かにきこえる。
(……ってことは、今日も普通の学校……か)
ゆっくりと体を起こし、ベッドから足を下ろす。
いつものスリッパを履いて、いつもの制服に袖を通す。
そのすべてが、どこか既視感に満ちていた。
「おはよ、母さん。……父さんは?」
「早番だって。もう出たわよ。はい、トーストとハムエッグ。ちゃんと食べてね」
食卓には、いつもの朝食。
いつも通りの母の優しい声。
それを見つめながら、蓮はふと口を開いた。
「……なあ、母さん」
「なに?」
「……この毎日が、ずっと続けばいいなって、思ってたことあった?」
母は少し驚いたように目を丸くしたあと、やわらかく笑った。
「うん。中学のとき、言ってたわよ。"もう、何も変わらなくていい"って。
あのころ、色々あったからね」
蓮は小さくうなずき、いただきますとと呟きながらトーストをかじる。
──
「行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてねー!」
ドアを開けた瞬間、春のような風が頬をなでた。
「──おっせーぞ、グース!」
見慣れた自転車の上から、拓真が手を振っていた。
「お前、いつも待ち合わせって概念忘れてんのか? このままじゃ、お前の人生も"遅刻人生"になんぞ!」
「誰のせいだよ、誰の……!」
笑いながら、蓮は自転車に乗り、拓真と並走する。
「なあ、拓真」
「ん?」
「こうして並んで学校行ってんのって、いつぶりだろうな」
「何言ってんだ? 毎日だろ? 蓮の寝坊がなけりゃな!」
(……あれ?)
「俺たち、ずっと……こうだったっけ?」
「おいおい、寝ぼけてんのか? 今日から新学期だってのに、フワフワしてんなー。……あ、でもまあ」
拓真がふいに空を見上げる。
「……"今が夢みたい"って思えるくらい、いい日になるといいよな」
蓮はその言葉に、ふと胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
(ああ……そうか。これは、"夢"なんだ)
(だけど、もう少しだけ、見ていたい気もする)
──ふたりの笑い声が、朝の空に溶けていった。
「そういえばさー、サッカー部、今度の対外試合、結衣先輩も見に来るっぽい。やばくね?」
「えっ、え? 何がやばいの?」
「そりゃ、変なプレイしたら帰り道まで説教コース確定だろ。……お前、あの人のキック見たことある?」
「……うん。バスケボールを屋上まで飛ばしてたね、あれは」
「うちのコーチより怖いまであるよ、まじで」
二人でゲラゲラ笑いながら校門をくぐった。
「んじゃ、またあとでなー、グース」
「おう、マーベリック」
拓真が手を振って、3組の教室へ消えていく。
俺は1組。廊下の反対側に、いつもの自分の席が見えた。
「おはよう、野中」
「あ、おはよーっす」
振り返ると、クラスの"オタ友"こと三浦と佐久間が、開封されたばかりのアニメグッズを見せびらかしていた。
「見ろよこれ! 先週のアニメイト、奇跡の"Lレア"引いたんだぜ?」
「やっば……お前、前世で何救ったん?」
「やっぱ推しのおかげか? ご利益やばすぎだろ」
「ちげぇよ、それはただの運命のいたずらってやつだ!」
──うん、これだ。この会話、このノリ。
誰に見られても恥ずかしくない、けど"俺たちにとって"は何よりも楽しい時間。
担任が来る頃には、教室は一気に日常モード。
ホームルームの間、ぼんやりと窓の外を眺めた。
曇り空。
遠くの工事現場のクレーンが、のっそりと腕を動かしている。
……ふと、風に乗って、どこか懐かしい"クラリネット"の旋律が耳に届いたような──気がした。
──
いつもと変わらない午前の授業。
英語は微妙に寝そうになって、古典は完全に意識を手放していた。
昼休み。
オタ友たちは購買戦争に敗れ、なぜかカップ麺を悲しげにすすっていた。
「……焼きそばパン、買ってこよ」
誰に言うでもなくつぶやいて、蓮は一人、食堂へ向かった。
焼きそばパン+ミルクティーの定番セット。ちょうど500円。
ちょっと小走りになったのは、残り1個だったからで──何となく嬉しかった。
食堂の隅。通称"オタク席"と呼ばれる定位置に、蓮は腰を下ろす。
「…いただきます」
もぐもぐ。
ふと思った。この日常、なんだか……ちょっとだけ、出来すぎてないか?
でも──それでも、悪くない。そう思いながら、食堂を眺めながら食べていった。
「なーに「萎れたおっさん」みたいな顔してんのよ」
声とともに、隣の席にドスンと座り込んだのは──涼子だった。
「え、いや……別に、そんな顔してたか?」
「うん。焼きそばパンとミルクティー抱えてさ、肩落としてボソッと"いただきます"って、
あんた、完全に"やさぐれ人生相談室"の入り口よ」
「なんだよそれ……」
苦笑する俺をよそに、涼子はマイバッグから取り出したタッパーを開ける。おかずがぎっしり詰まっていた。
卵焼き、唐揚げ、ほうれん草の胡麻和え──どれも、手作りだ。
「ほら、これあげる。ちょっと多めに作っちゃってさ」
「えっ、いいの?」
「もちろん。でも感謝の言葉と、次のテストで赤点取らないことは条件ね」
「お、おう……努力はする」
「"する"じゃなくて、"やる"の。ほら、あーんして」
「いや、それは恥ずいって……!」
──なんて言いながら、結局一口。
ふわっとした卵焼きの甘さが、ほんのり胸に沁みた。
そんなやりとりをしていると──食堂の奥から手を振る影が見えた。
「野中くん! 涼子ちゃんもいっしょに食べよー!」
軽やかな声とともに駆け寄ってきたのは、美鈴だった。その後ろには、少し距離を保ちながら玲央も歩いてくる。
「席、空いてる?」
「お、おう。どうぞ」
「ありがと~。あっ、そうそう。プリン、手作りしたの!」
「え……すごいな、西村さん。お菓子作れるんだ」
「うんっ。玲央くんに教えてもらったの。ね?」
「ああ。分量さえきっちり測れば、ほとんど成功するよ」
玲央は、どこか達観したようなトーンで微笑んだ。
その様子に、美鈴は「ほらね~」と嬉しそうに笑う。
「……俺、そっちのほうが難しそうに感じるけど」
「野中くんは"感覚派"っぽいもんねー。でも、そこがいいとこ!」
「え、あ、うん……?」
俺がもごもごしていると、涼子がすかさず突っ込んできた。
「つまりバカってことよ」
「ちょっ、それを言うか!?」
「はいはい、静かにー。食堂の神様が怒るぞー」
玲央が冷静なツッコミを入れ、自然と笑いが弾ける。
誰かが冗談を言って、誰かがそれに笑って、誰かがからかって──その輪の中心に、俺がいる。
──こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
ふと、そんなことを思った。
談笑しているうちに、予鈴が鳴った。
「じゃ、またね~」
「あとでな、グース」
「……おう、またな」
それぞれの教室へ戻っていく背中を見送りながら、俺は独り、心の中でつぶやいた。
──こんな毎日が、もしも本当に続いていくのなら。
きっと、惨めな姿で"あの音"にすがることも、なかったのかもしれないのに──
ホームルームが終わり、教室がざわめき始める。
放課後の空気は、授業中とは違ってどこか柔らかい。
「でさ、『異世界デブネコ旅』の第6巻、あの展開マジで熱かったろ?」
「うん、まさか敵のボスが"かつての恩師"だったとは……伏線すごすぎだよな」
オタク友と話しながら、教室後方でリュックにノートを詰めていると、不意に名前を呼ばれた。
「蓮、一緒に帰ろ?」
その声に、教室の空気が一瞬で変わった。
振り返ると、制服の胸元に薄い水色のリボン。髪を後ろで緩くまとめた涼子が、鞄を手に微笑んでいた。
「……お、おぅ?」
「ヤバッ……"冷徹様"……!」
さっきまでアニメ論争をしていたオタク友が、涼子の姿を見るなり合掌ポーズを取った。
「拝んどけ、蓮……じゃ、オレはこの辺で! お幸せにィ!」
「え、ちょ……おま……」
彼は文字通り"煙のように"教室から姿を消した。
「……なんで拝まれたんだ、俺……?」
「さあ? "冷徹の涼子さま"は近寄るだけで爆発する、とかいう都市伝説でもあるのかな」
「冗談キツいわ」
涼子は小さく笑いながら、蓮のリュックのストラップに指を引っかける。
「ほら、帰ろ」
「……はいはい」
下駄箱までの道すがら、ふいに涼子が手を伸ばす。
「……ん」
「……え?」
「手。つないでも、いい?」
「え、えーっと……」
「ダメ?」
見上げてくるその顔は、いつもの強気な"冷徹様"ではなく、どこか甘えたような、少女そのものだった。
「……まあ、いいけど」
そのまま手を握られる。
しっとりとした掌。温度。鼓動。
(……夢なら、なんでこんなリアルなんだ)
誰にも聞かれない問いを胸に、2人は昇降口を抜け、校門を出た。
──
そして、駅前の商店街にある小さなファーストフード店。
「チーズてりやきバーガーセットひとつ、あとミニシェイクも」
「俺は、照り焼きダブルで」
「食べるねえ、元運動部」
向かい合って座るテーブルで、2人はトレーを前にして頬を緩める。
「あ、ねぇねぇ、これ見て」
スマホを取り出し、画面には自作のAIイラスト。
「こないだ新しく描かせた"もし推しが中世ヨーロッパの女騎士だったら"ってテーマ。
見てよこれ、肩当てのディテールやばくない?」
「え、すご。……てか涼子って、こういうの本当好きだよな」
「だって"好き"なんだもん」
唐突に発されたその一言に、心臓が跳ねる。
「な、なんの話……?」
「え? いや、AIアートの話だけど? なに想像したの、蓮くん?」
「いや、別に……」
口をつぐむと、涼子がいたずらっぽく笑った。
「ふふ……顔、赤い」
「うるさい」
この瞬間、たしかに彼女のことを"普通のクラスメイト"とは思えなかった。
でも――
それでも、蓮はまだ"現実との違和感"には気づいていない。
彼にとって、これはただの、少しだけ特別な日常だった。
ファーストフード店を出ると、夏の夕暮れは街に淡いオレンジを落としていた。
「……ね、手、もう一回」
涼子がぽつりとつぶやく。
蓮は一瞬だけ戸惑うが、その手をしっかり握り返した。
「ん、ありがと」
少し照れながら微笑む涼子と手をつなぎ、2人は商店街のアーケードを歩いていく。
途中、路地の先で、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
「あれ……西村さんと……玲央?」
「うん。ウィンドーショッピング中、ってとこかな」
玲央は腕を組むでもなく、美鈴の歩幅に合わせて並び、なにかを楽しそうに話していた。
美鈴も、どこか幸せそうにうなずいている。
「……なんか、意外だな。玲央って、ああいう顔もできるんだ」
「ふふ、不思議に思った?」
涼子が横目で蓮を見ながら、少しだけイジるような口調で続ける。
「実はあの二人、相思相愛なんだよ」
「マジで……。でも言われてみれば、サマになってるわ」
「でしょ?」
そんなやり取りをしながら、やがて2人は近くの小さな公園にたどり着く。
滑り台の向こうにある木製のベンチに並んで腰かける。
「なんかさ、今日って変な日だよな。全部がうまくいってるっていうか」
「……そうかな?私から見れば、いつも通りだと思うよ」
そよぐ風。砂利のこすれる音。
しばしの静けさのあと、蓮がぽつりと問いかける。
「そういえばさ、涼子って……拓真と付き合ってたんじゃないの?」
「……何言ってるの? 拓真とは、付き合ってないよ」
「えっ」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「中学の頃から仲は良かったけど、そういうのとは違うよ。…私はずっと……」
そこまで言って、涼子は小さくうつむいた。
夕陽が頬を赤らめたのか、あるいは別の何かか。
その声は、どこか震えていた。
「私が好きだったのは……初めから、蓮だけ」
心臓が跳ねた。
「……ま、まぁ、なんていうか」
「ダメ?」
「いや……ダメじゃないけど」
「ふふ、よかった。……さーて!」
涼子はバッと立ち上がり、頬を両手でぱんっと叩いた。
「言えたものも言えたし、帰るわよ! ……あ、そうだ。明日、弁当作るから!」
「え、ほんと?」
「ほんとほんと。なーにがいい? 唐揚げ? ハンバーグ?」
「……うーん、涼子が作ったやつなら、なんでもうまい気がする」
「ふふ、調子いいなー。ま、いいわー」
手を振って、涼子は公園の出口の方へ歩き出す。
蓮も立ち上がり、背中を見送る。
その歩幅も、背中の輪郭も、
いつもよりずっと近く感じた。
(俺って……こんなにも、誰かと"隣"にいられる存在だったっけ)
夕焼けが、2人の影をやわらかく伸ばしていた。
──
しかし、そんな時間も。
この夢のような日常も。
あと少しで終わるのだと、蓮はまだ知らない。
蓮の部屋。
「……ん?」
スマホの画面が唐突にフリーズした。
ベッドに寝転がりながら見ていた講習動画が、ぷつぷつと音を立てて止まり、
画面中央には回転し続ける読み込みマーク。そして、それが唐突に——
《接続エラー》
「サーバーダウン……したのかな」
蓮はスマホを持ち上げて、電波アイコンを見上げる。アンテナは立っている。Wi-Fiも問題ない。
だけど、動画は一向に再生される気配を見せなかった。
「……ま、いいか」
布団から体を起こし、机に向かう。
プリントを広げ、残っていた宿題と明日の予習を淡々と片づける。
誰にも邪魔されない、静かな夜。
ほんの数時間前まで、誰かと手をつないでいたのが嘘みたいだ。
終わったプリントをファイルに挟み、何気なくテレビのリモコンを取る。
「……ん?」
画面に映ったのは、黒い背景と白い文字。
《電波を受信できません。アンテナの接続をご確認ください。》
「マジかよ……テレビまで?」
チャンネルをいくつか切り替えても、映るのは同じエラーメッセージばかり。
少し眉をひそめながら、録画用の外付けHDDにアクセスしようとリモコンに手を伸ばす。
「……じゃあ、録画してたアニメでも——」
「録画メニュー」ボタンを押しても、HDDがうんともすんとも言わない。
ランプはつかず、ディスクの起動音もない。
《USB接続エラー。認識できません。》
「……死んだか」
蓮はつぶやくように言った。
「そりゃそうだよな……中学の入学祝いで買ってもらってから、ずっと酷使してたもんな……」
ふう、と息を吐き、背もたれに体を預ける。
「おつかれさま……ありがとな」
どこか本当に、誰かを労わるような声だった。
数秒、そうして静かに黙ったあと、蓮は立ち上がり、部屋の電気をパチンと消す。
視界に広がるのは、月明かりにうっすら照らされた天井。
しん……とした空気が、部屋中に満ちていく。
布団に体を滑り込ませ、スマホの画面も伏せるように裏返して。
(……なんか、今日は色々あったな)
蓮の目がゆっくりと閉じられていく。
静かな夜。
平穏な一日を終えた、何気ない夢の入り口——
……のはずだった。
すすり泣く声が、どこかで聞こえた。
「……?」
周囲は、白い霧に包まれていた。
音も、色も、匂いも、どこか曖昧で——でも、確かにそこにあった。
霧の向こうに、ぽつんと座り込んだ小さな影。
肩を震わせて、少女がひとり、啜り泣いていた。
誰かはわからない。ただ、胸が騒いだ。
蓮はその姿に、なぜか抗いがたい引力を感じて、そっと近づいていく。
「……大丈夫、か?」
そう声をかけようとしたときだった。
——ピーポー、ピーポー。
救急車のサイレンが、現実よりも妙に歪んだ音で耳をつんざく。
「っ——?」
視界が急に色を取り戻し、喧噪が押し寄せた。
遠くから誰かが叫ぶ声がする。
「蓮! さがれ!!」
——聞き覚えのある、あの声。東條玲央。
振り向く。
そこにあったのは、怒号のようなエンジン音と、光るヘッドライト。
——どん。
次の瞬間、視界いっぱいに広がったのは、トラックのフロントバンパーだった。
(あ……)
時間がスローモーションになる。
ぶつかる。と、思った。
——が。
ぱちり。
「……っ!」
蓮は反射的に起き上がった。
胸が波打つように上下し、額にはうっすらと汗がにじんでいる。
あたりは、見慣れた自室。
ベッドの上、LEDライトの灯りは消え、薄明かりがカーテン越しに差し込んでいた。
(夢……?)
視線を落とせば、スマホの画面が光っている。
時刻は「6:58」。
(起きるには、あと2分……)
だが、もう眠気はどこにもなかった。
蓮はゆっくりと布団を抜け、カーテンを開ける。
雲の切れ間から朝日が差し込んできて、眩しさに目を細める。
——ただの夢。だけど、何かが胸にひっかかる。
先ほどの少女は誰だったのか。
玲央の声はなぜ、あんなにもリアルだったのか。
……そして、あのトラックの衝撃は——。
「……変な夢だな」
つぶやいた声が、朝の静けさに溶けていった。




