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第9話「※夕映えの丘に、きみと」(前編)

外はどんよりとした曇り空。

けれど、美鈴の朝は静かに、確かに始まっていた。


いつものように、母が作った和朝食を口に運びながら、美鈴は黙々と今日の予定を思い描く。


「しっかり食べんと、フルパワー出られんよ?」


「うん、わかっとる。……ありがと」


その声には、わずかながら緊張がにじんでいた。


食事を終えると、美鈴は自室に戻り、着替えと身支度を整える。

鏡の前で、クラリネットケースの紐を肩に掛けながら、自分の表情を一度だけ確認。


──平気、やれる。


そう小さく呟いたあと、ふとベッドサイドに置いてある小さな保冷弁当箱に目をやる。

それは、事故当日まで彼に届けようとして用意していたもの。


けれど、今もなお、それは“渡されないまま”そこにある。


(……今日は、聴いてもらえるといいな。あの人に)


そっとその弁当箱に手を伸ばし、軽く指先で撫でる。

まるで、それが彼のぬくもりであるかのように。


そして小さく、まるで誰にも聞かれたくないような声で──


「……行ってきます、"グース"。

 ちゃんと、聴いてね?」


そう、呟いた。

家を出る美鈴の背中に、クラリネットと“願い”が揺れていた。


曇り空の下、市内の音楽ホールのエントランス前。

緊張と期待とが入り混じるような空気のなか、制服を着た七星学園の吹奏楽部が集まっていた。


その中心に立つのは、顧問の篠原先生とと部長──。


「今日の演奏、悔いのないように。やってきたことを信じよう」


部長の言葉に、部員たちが小さく頷く。


「落ち着いていきましょう。……自分の“音”を、ちゃんと信じて」


顧問の静かな声は、遠くの曇天よりも澄んでいて。

その声に導かれるように、部員たちは一斉に応じた。


「はいっ!」


少しばかり音が弾けて、空気が和らぐ。


そのなかで──

ただひとり、少しだけ列の後ろにいた美鈴が、ふと呼び止められた。


「美鈴ちゃん」


振り返ると、そこには涼子がいた。

機材ケースのストラップを肩にかけたまま、彼女はまっすぐに言った。


「──届けてね」


言葉は短い。でも、あまりにも重くて優しくて。

それはもう、“親友”ではなく、“バトン”だった。


美鈴は一瞬だけ目を丸くし、でもすぐに、

小さな笑みを浮かべて──


「……うん」


そう答えて、クラリネットケースを抱きしめるようにして歩き出した。


彼女の背中を見送る涼子の目は、

この日、誰よりも“未来”を信じていたのかもしれない。


──その音が、きっと届くと。


部員の声が入り混じる控え室の中、クラリネットのケースを開ける音だけが響いた。


部屋には窓がなく、壁は白く無機質で、空調の微かな音がかえって耳に残る。

その中で、美鈴はひとり、自分の世界に入っていく。


クラリネットのパーツを一つひとつ、丁寧に組み立てながら。


(本当は……まだ、怖い。

足が震えてるのは、ただの緊張のせいじゃない。

私、まだ蓮くんの顔をちゃんと見ていない。

声だって、聞いていない。

なのに「演奏する」って、よく決めたよね……私。)


自嘲のような思いが胸の中を通り過ぎる。


(でも、あの夜……涼子ちゃんのあの目を見たとき、もう逃げられないって思った。

「届けて」って言ってくれた。

その一言に、全部が詰まってた。

私が吹く意味も、私にしかできないことも。

きっと、そういうことだったんだと思う。)


ネジを締める指先に、自然と力が入る。


(私は、蓮くんが好き。

でも、その気持ちだけじゃ、たぶんここにはいない。

今の私は──少し違う。

彼のために“音”を届けたい。

今の自分が、何を思って演奏しているのか。

伝わらなくてもいい。

でも──“届いてほしい”。)


リードに唇をそっと当てる。

音はまだ鳴らさない。ただ、その仕草は“誓い”だった。


(彼は今、どこかで静かに寝ている。

その先に、私の音が届くって──そう聞いた。

だったら、私は全力で吹く。

多少かすれても、音が外れてもかまわない。

それでも──全部を込めて吹く。

全部、あの人に届ける。)


深呼吸をひとつ。

目を閉じれば、思い浮かぶのは──蓮が自分に向けてくれた、あの優しいまなざし。


(あの人は、私のことを“ちゃんと見てくれた”。

だから、今度は私の番。

私の音で、彼を“ここ”に連れ戻す。

それが、私にできること。

私が、ここにいる意味。)


クラリネットを胸元に抱きしめる。


ただ一度の演奏のために──彼女は迷いをすべて音に変える覚悟を決めた。


会場内。

重厚な音響に配慮されたホールの静けさのなか、観客席の中段あたりで、

涼子は見覚えのある後ろ姿を見つけた。


「……拓真?」


声をかけると、彼はゆっくりと振り向き、どこか気まずそうに笑った。


「……や、やあ。奇遇だね。いや、奇遇じゃないか」


「部活は?」


「サボった。……怒る?」


「バカですか!」


即答だった。


が、涼子の口調にトゲはなかった。驚きと呆れと、ほんの少しの嬉しさが混じっていた。


「バカですよ。ええ……自覚するぐらいバカです」


拓真は小声でぶつぶつ言いながら、空いている隣の席を手でぽんと叩いた。

だが、涼子はすぐには座らなかった。


「音楽、正直よくわからないけどさ。……でも、美鈴が“戻ってくる”なら、見ておきたくて」


その言葉に、涼子の目が一瞬だけ細くなった。


「──まっすぐだね、キミは。ほんと」


「ん、まあ……」


「でも、そういうとこ、好きかも」


ふいに言われて、拓真は明らかにうろたえた。


「ど、ども……」


「でも席は別ね。“別れて”るし」


さらっと付け加えた涼子の一言が、最後に刺さった。


「了解。……でも、俺は“待ってる”から」


「ふふ、知らないよー」


軽く手を振りながら、涼子は自分の席へと向かっていった。

拓真はその背中を、照れくさそうに見つめながら、ひとりごとのように呟く。


「……やっぱ、好きなんだよな。オレ、あいつのことが」


高い天井の照明に照らされたホール。

程よい緊張感の中、客席は徐々に埋まりつつある。


──ふと、結衣は見つけてしまった。

ステージからやや離れた、対角線上の席。そこに座る少年の姿を。


東條 玲央。


その名を、声に出すことはなかった。

ただ、視界の端に映ったその横顔が、妙に静かで、遠くに感じられた。


(──来てたんだ。やっぱり)


結衣は胸の内で、言葉にもならない感情を押し込めた。

彼女の手元には、美鈴の分の書類一式。

届ける相手は、今日ではない。

でも、託す相手は──もう決めている。


(…わたしには、もう役目がある。彼に声をかける時間も、言い訳もない)


結衣は目を伏せて、そっとため息を吐いた。

彼の目を見たら、何かがほどけてしまいそうで──怖かったから。


──そして、玲央。


彼はステージと向き合うように座っていたが、わずかに視線を斜めに逸らした。

誰かが自分を見た気がした。それは勘か、それとも直感か。


(……結衣。やっぱ来てたんだな)


呼び止めることも、言葉を交わすこともない。

でも、それでいいのかもしれない。


(もう、あの人に頼る気はない。……たとえ、何があっても)


目の前の席には、すでに多くの観客が座っている。

でも、彼の瞳は──まだ来ぬ“音”を見つめていた。


(聴かせてもうらうよ、美鈴。……それで、俺が何をすべきか、決める)


手にしているのはパンフレットではない。

玲央の手は、空っぽのまま。

ただ一つ、彼の中で灯り始めた決意だけが、静かに息をしていた。


控え室の時計が、あとわずかで本番を告げようとしていた。


「次、行くよ!」


部長の一声が控え室の空気を震わせる。ピリッとした緊張感が走るが、

それは恐れではなく、戦地へ向かう者たちの覚悟に似た静かな火だった。


「名前を呼ばれたら深呼吸。肩の力は抜いて。私たちの“音”を、ホールに響かせよう」


部長は一人ひとりに目を向けながら言った。顧問もそれを見届けている。


美鈴も、小さく頷いた。胸の奥で何かが音を立てる。


──わたしたちの出番だ。


舞台袖に立つと、少しひんやりした空気が肌を撫でる。照明の光が遠くに見え、客席のざわめきが少しずつ近づいてくる。


そして、美鈴の中にだけ響く、もうひとつの音があった。


(蓮くん──聞こえてる?)


歩きながら、心の中でそっと呟いた。


(玲央くんに、告白された。…うん、驚いた。だけど、ちゃんと、ありがとうって言ったよ。

だって、ほんとに優しい人だったから)


階段を一段、一段と上がるたびに、胸の奥にある想いが形を持ち始める。


(でもね、あたしの“好き”は、もう決まってる)


ステージに出る直前、美鈴はそっと指先で胸元を押さえた。


(戻ってきたら、ちゃんと伝える。言葉で。気持ちで。ちゃんと、あたしの“音”で)


舞台のライトが視界を照らす。

クラリネットを構えながら、凛とした瞳で指揮者の方を見つめた。


──音が、始まる。

──すべての想いが、この瞬間に集まる。


(聴いててね、蓮くん)

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