【第10話:生まれ変わる男と、見下す女】
狂気の宴が幕を閉じ、地下コロシアムに静寂が戻り始めていた。
ヒロキは一千万円が詰まったジュラルミンケースを小脇に抱え、上機嫌な鼻歌を歌いながら控室の廊下を歩いていた。血生臭い闘技場を離れ、彼の頭の中はすでに欲望で満たし尽くされている。
「ルルちゃん! お待たせ」
廊下の先で待機していたルルの姿を見つけるや否や、ヒロキは下品な笑みを浮かべてすり寄った。
「いやー、楽勝だったわ。それじゃあ約束通り、今夜は朝まで俺の好きに……」
ヒロキがルルの腰に手を回そうとした瞬間、彼女はヒールの踵を返し、流れるような動作ですっと身をかわした。
「あ、ごめんなさいヒロキさん」
ルルは小首を傾げ、申し訳なさそうに眉を下げる。
「今日はこの後、運営陣での反省会が入ってしまって。本当に残念なんですけど……ご褒美は、また今度ゆっくり、ということで」
「えっ? いや、でも約束……」
「お疲れ様でした、最強論破王さん」
有無を言わさぬ営業スマイルでシャットアウトされ、ヒロキは伸ばした手を行き場なく宙で彷徨わせた。しかし、彼の手元にはずっしりと重い一千万円のケースがある。これだけの金があれば、女なんて後でいくらでも金で買える。ヒロキはすぐに気を取り直した。
「まあいいや。ルルちゃんとはまた今度ってことで」
ヒロキはケースをポンと叩き、憑き物が落ちたような爽やかな笑顔を見せた。
「俺、この金で借金全部返して、真っ当な仕事探すわ。底辺フリーターは今日で卒業。俺の新しい人生は、ここから新しく始まるんだ!」
希望に満ちた足取りで、ヒロキは地下施設から地上へと続くエレベーターへと乗り込んだ。その背中は、見違えるほど頼もしく、生まれ変わった青年のように輝いていた。
……数分後。
誰もいなくなったモニタールーム。無数の監視カメラの映像が映し出される画面の前で、ルルは無表情のままヒロキの後ろ姿を見つめていた。
「あー……安物のタバコと汗の匂い、最悪」
彼女の手には、強力なアルコール除菌シートが握られている。ルルはヒロキが触れた自分の腕や、密着させた太ももを、皮膚が赤くなるほど念入りに、力一杯ゴシゴシと拭き取った。先ほどの甘い態度は微塵もなく、その瞳には絶対零度の見下した光が宿っている。
「見事な論破でしたよ。……でも」
モニターの中で、地上に出て意気揚々と夜の街へ消えていくヒロキの姿を確認し、ルルは冷酷な笑みを深めた。
「どうせあんなクズ、数日でまた底辺に逆戻り。またのお越しをお待ちしておりますよ、奴隷くん」
ゴミ箱に丸めた除菌シートを投げ捨て、ルルはヒールの音を響かせて闇の中へと消えていった。
それから、わずか数日後。
「……おかしい。なんで、なんで当たんねえんだよ……!」
パチンコ店のけたたましい喧噪の中、真っ当な人生を歩むはずだったヒロキは、血走った目で液晶画面を睨みつけていた。
一千万円。借金を返す前に「少しだけ増やそう」と手を出したのが運の尽きだった。気が付けばレートの高い裏カジノやパチンコを渡り歩き、アタッシュケースの中身は完全に空っぽになっていた。
「あと一回……あと一回出れば、全部取り返せるんだ……!」
ヒロキは震える手で、財布に残った最後の「一万円札」をサンド(入金口)にねじ込んだ。
しかし、無情にもリーチは外れ、残高のクレジットはゼロになる。すべてを溶かした。借金は1円も減っていないどころか、利子でさらに膨れ上がっている。
「ああ……あぁぁっ……!」
台に突っ伏して頭を抱え込んだその時。
ヒロキのポケットの中で、安物のスマートフォンが短く震えた。
暗い画面に浮かび上がったのは、見覚えのある暗号化通信の通知。
『闇ディベート大会「しゃべらすな」第2戦へご招待します』
再び借金地獄の底へ真っ逆さまに堕ちた最強論破王の前に、次なる死の招待状が、静かに、そして残酷に口を開いていた。
(第1戦・完)




