【第1話:最強論破王の冴えない現実と招待状】
2035年、日本。街の巨大モニターには「今日も優しい言葉で、思いやりのある一日を」という気味が悪いほど朗らかな標語が映し出されている。「他者口撃による心理的攻撃に関する禁止法」の制定から数年。他者を傷つける言葉は法的に排除され、人々は腫れ物に触るような表面的な優しさを強制される無菌室の住人となった。
だが、人間の底辺はいつの時代も変わらない。
けたたましい電子音と極彩色の光が交錯するパチンコ店の隅で、ヒロキは最後の千円札が機械に吸い込まれるのを虚ろな目で見つめていた。リーチすら掛からない。液晶画面の美少女キャラクターが「また遊んでね!」と無機質に微笑むのを見届け、ヒロキは舌打ちをして席を立った。
ポケットの中で安物のスマートフォンが震える。「非通知」の文字。消費者金融か、裏の金融業者か。どちらにせよ、出る選択肢はない。実家暮らし、28歳、フリーター、そして多額の借金。社会の掃き溜めのような現実から逃げるように、ヒロキは薄暗い自室へと急いだ。
カーテンを閉め切った部屋で、パソコンのモニターの青白い光だけがヒロキの顔を照らす。彼がアクセスしたのは、法規制の網をかいくぐった完全匿名の裏掲示板「ホント」だ。表社会で鬱憤を溜め込んだ人間たちが、連日汚い言葉の泥仕合を繰り広げるネットの深淵。ここが、ヒロキの唯一の王国だった。
画面上で、誰かが社会への不満を長文で熱弁している。ヒロキは薄ら笑いを浮かべ、キーボードを叩いた。
「あの、それって何か客観的なデータあるんですか?」
即座に相手から怒りに満ちた反論が飛んでくる。ヒロキは異常な速さで瞬きをしながら、さらに文字を打ち込む。
「データ出せないってことは、ただのあなたのお気持ちですよね。自分の頭の悪さを長文で露呈するの、やめてもらっていいですか?」
冷徹に事実と矛盾だけを突きつけ、相手の感情を逆撫でする特有の煽り。何度かの応酬の末、相手は完全に沈黙した。画面の向こうで怒りに震え、言葉を失っている敗者の姿を想像し、ヒロキは背筋がゾクゾクするような快感に酔いしれた。この界隈で最強論破王と呼ばれる彼にとって、相手を論理と屁理屈で屈服させる瞬間だけが、底辺の現実を忘れさせてくれる唯一の麻薬だった。
その時、画面の端に見慣れない黒いポップアップが表示された。完全な暗号化通信。件名はない。クリックすると、血のような赤い文字で短いメッセージが記されていた。
『闇ディベート大会「しゃべらすな」へご招待します。一勝につき、賞金一千万円。ただし、敗北者はすべてを失います』
添付されているのは、今夜零時に指定された海沿いの地下廃倉庫の座標だけ。迷惑メールか、悪質な悪戯か。だが、一千万円という途方もない数字が、ヒロキの脳裏から離れない。
再び、ポケットのスマートフォンが震え出した。借金の取り立てはすでに限界に達している。このまま逃げ続けても破滅は目に見えている。ヒロキはパソコンの画面を見つめ直し、ニヤリと気味の悪い半笑いを浮かべた。
「口喧嘩だけで一千万とか、コスパ良すぎでしょ」
己の論破スキルへの絶対的な過信が、恐怖を完全に麻痺させていた。負けるはずがない。相手が誰であろうと、事実と詭弁で精神をへし折ってやればいいだけだ。ヒロキは着古したパーカーを羽織り、深夜の街へと足を踏み出した。その先に待つのが、人間の尊厳すら使い捨てられる狂気のデスゲームだとは知る由もなく。




