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ネコネコランドへようこそ  作者: 香月 深青
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第十一話 月のしずく図書館

ネコネコランドの夜は、不思議なくらい静かだった。


昼間はあんなにも賑やかだった石畳の道も、夜になると月の光をやわらかく映して、まるで別の世界のように穏やかな表情を見せる。


家々の窓からこぼれる灯りはあたたかく、遠くからは誰かが弾く小さなピアノの音が風にのって聞こえてきた。


空を見上げれば、こぼれ落ちそうなくらいの星。


その下を、リオンはミルクと並んで歩いていた。


今夜のミルクは、いつもより少し静かだった。


王冠を頭にのせた白い横顔が、月明かりの中で淡く光って見える。


ふわふわのしっぽだけが、時おりゆっくりと揺れていた。


「どこへ行くの?」


リオンがそっとたずねると、ミルクは小さく笑った。


「静かなお友達に会いに行くにゃ」


その声まで、今夜はどこか優しい。


石畳を抜け、小さな橋を渡り、森の奥へと進んでいく。


風が木々の葉を揺らし、さらさらと本のページをめくるような音を立てた。


ふと甘い花の香りが鼻をくすぐる。


見上げると、大きな古木が月へ向かって枝を広げていた。


その幹には、小さな扉がある。


木の肌に溶け込むようにひっそりと。


扉の上には、金色の文字。


月のしずく図書館


「図書館……?」


リオンが目を丸くすると、ミルクは誇らしげに胸を張った。


「夜にしか開かない、特別な場所にゃ」


そう言って、ちいさな前足で扉をこんこん、と叩く。


すると扉は音もなく開き、あたたかな光がふわりとこぼれた。


一歩足を踏み入れた瞬間、リオンは思わず息をのむ。


そこには天井まで届く本棚が、どこまでも並んでいた。


小さな星のようなランプが宙に浮かび、やわらかな灯りで本の背表紙を照らしている。


古い紙の匂い。


インクの匂い。


静かな時間の匂い。


まるで、心まで静かになる場所だった。


その時だった。


高い本棚の影から、すっと黒い影が現れる。


夜をそのまま毛並みにしたような、つややかな黒。


月の光を映したように静かに輝く金色の瞳。


歩く音さえしない。


気づけば、すぐ目の前にいた。


「……騒がしい気配がすると思った」


低く静かな声。


けれど不思議と冷たくはない。


ミルクがにっこり笑う。


「インク、お友達を連れてきたにゃ」


黒猫は静かにリオンを見る。


その金色の瞳の奥に、深い夜のような静けさがあった。


「……人間?」


「リオンっていうの」


インクはしばらく何も言わなかった。


けれどやがて、ほんの少しだけ目を細める。


「……本が好きそうな目をしている」


「目で分かるの?」


「分かる」


短い言葉。


でも、その声にはどこか優しさがあった。


リオンは本棚の間をゆっくり歩き始める。


どの本も美しくて、どこかあたたかい。


ふと、一冊だけ淡く光る本が目に入った。


まるで「ここだよ」と呼ぶように。


そっと手を伸ばく。


表紙に書かれていたタイトルを見て、リオンの足が止まった。


『名前を呼ばれた日のこと』


胸が、かすかに揺れる。


静かに本を開く。


最初のページには、こう書かれていた。


名前は、最初にもらう贈りもの。

呼ばれるたびに、

「あなたはここにいていい」と、

世界がそっと教えてくれる。


けれど、呼ばれなくなった名前は、

少しずつ心の奥で眠っていく。


自分が誰だったのかさえ、

分からなくなるほど静かに。


その言葉を読んだ瞬間、リオンの胸の奥がぎゅっと痛くなった。


呼ばれなかった名前。


気づいてもらえなかった寂しさ。


「そこにいる」のに、いないみたいだった時間。


けれど――


たった一度。


やさしく名前を呼ばれただけで、胸の奥に小さな灯りがともる瞬間がある。


自分がここにいていいのだと、そっと許される瞬間がある。


ぽたり。


気づかないうちに、一粒の涙がページに落ちた。


その時、そばから静かな声がした。


「……その本を選ぶ人は、みんな少し優しい」


見ると、インクがすぐ近くに立っていた。


金色の瞳が、月のように静かに揺れている。


リオンは涙をぬぐいながら、小さく笑った。


「インクは、読んだことあるの?」


黒猫は少しだけ空を見上げるように目を細めた。


そして、かすかな声で言う。


「……僕は、自分の名前を忘れた」


胸が詰まる。


「呼ばれなくなって、長い時間が過ぎた」


その声は静かだった。


けれど、その静けさが痛いほど寂しかった。


「気づいたら、名前のない影みたいになっていた」


リオンの目に、また涙がにじむ。


ルナのことを思い出す。


ひとりぼっちで、自分の名前さえ忘れてしまったあの子。


そして――


どこか昔の、自分の心にも少し似ていた。


リオンはそっとしゃがみ、インクと目線を合わせた。


すぐには触れない。


でも、届く距離に心を置く。


やさしく微笑んで言った。


「忘れたんじゃないよ」


インクの瞳が揺れる。


「きっと、眠ってるだけ」


静かな夜の中で、その言葉はあたたかな毛布みたいに広がった。


「また誰かが大切に呼んでくれたら、きっと目を覚ます」


インクは何も言わなかった。


けれど金色の瞳の奥に、ほんの小さな光が灯った気がした。


帰り道。


月明かりの下を歩きながら、リオンは胸の奥のあたたかさを抱きしめていた。


名前は、贈りもの。


呼ばれるたびに、自分の居場所を教えてくれる大切なもの。


そして誰かの名前を呼ぶこともまた、その人の心に灯りをともすことなのだ。


隣で歩くミルクが、そっとリオンの手に前足を重ねた。


「また来ようにゃ」


リオンは月を見上げて微笑んだ。


「うん。また来る」


森の奥では、月のしずく図書館が静かに灯っている。


名前を探す猫と、心を見つける本を抱えて。


ネコネコランドの夜は、今日もやさしかった。

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