第2話 不穏な家庭
それからのアナスタシアちゃんの生活は、しばらく平凡そのものだった。
乳母に世話され、おしゃべりなメイドたちの声に耳を傾け、ひたすら眠る。
体が本能的に勝手に動くことや、泣いてしまうこと。
なによりオムツの世話をされることには抵抗がありすぎて白目を剥きそうになったが……。
そこは「仕方ねーだろ赤ちゃんなんだから」の精神で乗り切ることにした。
いやオムツは一刻も早く卒業したいが。
(それにしても暇だなぁ。親らしき人、全然会いにこないし)
これには少しばかり不安を覚えた。
もしかして、アナスタシアちゃんの家庭。
……不穏、なのか?
(平凡な生活には平凡な家庭が必要だ。少なくとも子供のうちは。……なんとか状況を知りたいけど……)
状況を知ろうにも、頭上を飛び交うのは異世界言語。
英語に似た響きなのもあり、固有名詞らしきものは所々拾えるのだが、会話の意味はわからない。
そんな風に歯がゆく思う日々が続き……。
ヤキモキする時間が続いたが、推定一歳に近づくころには「単語」が分かるようになった。
(これは多分、あんよが上手、あんよが上手って言われてるよね)
乳母に掛け声をかけられての歩行練習が始まり、劇的に単語の習得が捗るようになった。
まず理解したのは、手、足などの体の呼称。
次に、歩き、上手、泣くな、これ、それ、食べる、あなた、私、などの頻出する単語が分かるようになった。
完全に歩けるようになると、さらに理解が捗るようになる。
物に駆け寄ったり指さしたりすることで、乳母から「○○が気になるのですか?」というような狙った言葉を引き出せるようになり、格段に分かるようになったのだ。
そうなってくると、後は経験則で文法を見つけていくだけ。
お喋りなメイドたちの会話を聞いているうちに、初歩的なものは理解できるようになった。
……なったのだが。
「ねぇ聞いたー!? また旦那様、別邸に入り浸ってるそうよ」
「うわ本当? いつもの事だけどぉ、よくやるわよねぇ」
……。
「あなた今日は奥様のお世話当番よね?気をつけなさいよ」
「やだもー怖いー!! 辞めたいよう~」
「そう言ったって、あの様子じゃ紹介状なんてくれないわよ。諦めなさいな」
…………。
こんな会話ばかりが聞こえてくる。
(完全に不穏な家庭……!!)
思わず床をダムダム叩きたくなったが、そんな一歳児は怖すぎるので我慢する。
私はひとまず、現状確認を行うことにした。
◇
「うぁ……、う、う、うぁぁあん! ぁぁん、うぁぁぁん!!」
まず、全力で泣く。
この体は本能と感情に忠実なので、前世の悲しいことを片っ端から思い浮かべれば楽勝だった。
──子供の頃、家に土足で入ってきた借金取りがウーヴァーミーツしたステーキ食べてる前で三時間土下座させられた時は苦しかったなぁとか。
──海外に売り飛ばされるか提携してるブラック企業で働くかを求められた時は泣いたなぁとか。
──給料の振込先がヤツらの通帳で、申請した生活費以外は渡して貰えないことを知った時は絶望したなぁとか。
あ、つい暗くなってしまった。
しかしもう全部過去のことだから。今は平気。
そう思いながらも、思い返せば、幼い体からはいくらでも涙が溢れ出た。
そうして大騒ぎすると、まず乳母がやってくる。
それでも泣き止まないとメイド達もやってくる。
そうすれば、彼らのざわめきから「家庭の事情」は自ずと漏れてきた。
「赤ちゃんだもの、やっぱり生母の奥様が抱いて差し上げないと」
「シッ。そんな差し出がましいこと言ってはだめよ」
「でも、こんなに泣いてかわいそうで……」
まずはそんなヒソヒソ話が聞けた。
ふむ、と思いながら他の噂話にも耳を傾ける。
「自分の子供を一度も抱きしめないひどい奥様」
「でも旦那様が……」
「そうはいったって……」
「そもそもあの赤子が……」
「そんなの言い訳よ」
「また別邸に知らない女が」
「ねぇ、フリードリオ様が」
「ああこの家どうなるのかしら」
「それはそうと帝都のあの噂は」
……下働きの人間というのは、よく働き、よく交流し、よく喋る。
噂を取捨選択した結果、この家の現状がおおよそ分かった。
まず、現当主にして我が父、ゲオルギウス。
これはどうやら、本当にどうしようもない男らしい。
今私がいる「帝都上屋敷」にはほとんど帰らず、別邸に女と閉じこもっている。
別邸と本邸の使用人は別々だが、買い出しや外商受付など金銭を扱わせるようなレベルの使用人は限られているので、情報がある程度共有されるようだ。
次に、我が母ニルリーナ。
こちらは癇癪持ちで近寄り難いと噂だ。
しかし……実際は当主の仕事を押し付けられて、精神的に崩壊寸前なだけである。
一部のメイドに対して辛く当たることもあるが、それは仕事や礼儀作法がおかしな場合のみのようだ。
(ちゃらんぽらんそうなメイドが「紅茶を手にかけちゃっただけで減給とか言われた。いくら熱かったからってありえなくなーい?」「まじ?ひどーい」と言っていた)
そのくらい酷い無作法がない限りは、黙っているタイプらしい。
……多分、損をするタイプだ。
また、父にも母にも会ったことがないと思っていたが、母の方は仕事が一段落した真夜中に、たまに来ていたらしい。
寝顔だけ見て去っていくようだ。
流石に起きている時の記憶が一切ないのはどうかと思うが、私に対してなんらかの感情はあるのかもしれない。
それが良いのか悪いのかは、まだわからないが。
最後に、長兄のフリードリオ。
フリードリオは情報が少ない。
去年、七歳で寄宿舎に入ったそうで、家にいないのだ。
子供の頃は手のかからない子であったらしいことと、眉目秀麗ということしか分からない。
不確定要素は語れないので、兄については後回しだ。
(ふーむ……。)
……この父。
…………。
…………普通に、いらないのでは……?




