1話 飛んで異世界パニック
公務員と書いて、公僕と読むー…そんな昨今の風当たりの強さを受け、今日も身を粉にして働いた深夜0時。終電が21時の田舎の駅舎に人影はおろかタクシーすらいるわけもなく、溜め息を飲み込みとぼとぼと夜道を歩いた。
駅に隣接するシャッター通りと化した商店街の片隅で、昭和のノスタルジー溢れるスナックの看板が力無く点滅を繰り返していたが、通りかかった瞬間に弾けて力尽きる。参ったな、ここが消えると角の交差点は道向かいの自販機の明かりを頼りに渡らなくてはならない。
一応は駅前の大通りにあたるのだから、やはり街灯くらい設置した方がいいのでは?と思わなくもないが、自分の管轄外であるし、下っ端平公務員の身でどうこう出来るものでもない。また、たかだか数十メートルの道に街灯を設置するだけでかかる書類と判子の数だけの日数、それに比例する多部署の皆様の苦労を思うと、匿名の市民の声として届け出ることも躊躇われた。
まあ実際、こんな時間に歩いている人間なんぞ自分だけなので、問題はないだろう―…そんなことを思いながら交差点へと踏み出した瞬間、角から目も眩むようなライトに照らされ、ブレーキ音が響き渡る。あ、やっぱり街灯は要るなと思った瞬間、浮遊感に襲われ思考は四散したのだった。
なぁふっ、にょーぅ、のぉーん
えもいわれぬ鳴き声に引き寄せられるようにして、意識が覚醒していく。というか、何だ、一体何の生き物の鳴き声なんだ。いや、私はこの絶妙に可愛くない声に聞き覚えがある。
一緒になって何度も何度も繰り返し練習したのに、またのぉーんに戻っているじゃないか。違うよ、そうじゃない、猫はにゃあと鳴くんだよ―…
「……にゃんごろー?」
「のぉふっ」
「ふむ、やはりこの子が引き寄せたか」
聞き覚えのある声と、聞き慣れぬ声。その両方に首を傾げながら目を開くと、愛猫であるにゃんごろーと、そのにゃんごろーを背後から抱えて「やあ」と微笑む規格外のイケメンが視界に飛び込んでくる。おまけに上下左右どこを見ても真っ白で、さながら雲海の中にでも浮かんでいるようだ。
少しの間を置いた後、開けたばかりの瞼を閉じれば、「待って待って!」と少し慌てた声が降ってきた。
「今眠ってしまったら、彼方の理に連れて行かれてしまうよ!」
「ふわーイケメンは喋っても美声とか、恵まれてるぅ。いい夢見たわ…」
「起きて!この子も、君を呼んでいる!」
「んのぉーん」
「いやだから鳴き方!!」
何でそうなる!!と勢いよく起き上がったところで、再び飛び込んでくる麗しのイケメン。そして、タレ目・中太り・短いしっぽとテンプレートな猫のイメージからは少し…いや、たぶんやや少しだけ…外れたにゃんごろー。
改めて不可思議な組み合わせに、何と声を掛ければいいかわからず固まっていると、心得た様子のイケメンが輝く笑みを浮かべながら問いかける。
「君、自分の名を言えるかい?」
「……上名木 翠です」
「では、翠。簡潔に言おう、君は死んでしまった」
「でしょうね!?」
有り難いことに瞬間の痛みの記憶はなく、身体中どこにも傷痕は残っていないが、ライトの先に見えた車体はトラックのようだった。しかも、右折とはいえ随分なスピードで突っ込んできたのだ。冷静に考えれば考えるほど、助かる筈もないよなと思う。
では、現状は一体どうしたことか。
服も髪型も事故直前のまま、頬に手で触れると温かく、そのまま首筋まで下ろしていけば、掌越しに脈打つ感触が伝わってくる。もしかして自分は生きているのではと、そんな錯覚に襲われそうになっていると、心中を読み取ったかのように「ご明察!」と指を鳴らした。
「翠は死んだ、彼方の理の上ではね。だから僕が、貰ってきたんだ」
「は…?えっ、もらう…?」
「身体も心も魂も、翠は翠のまま!此方でのんびり楽しく暮らそう!」
「のんびり……楽しく……」
何とも魅惑的な誘いの文言に理性がぐらりと揺れるが、素早く頭を振って余計な言葉を追い出していく。そして替わりに、目の前のイケメンへと意識を集中させた。
言わずもがな顔は良い、非常に良い、文句のつけようがない。長くさらさらな髪は浅黄色、肌は透き通るように白く、ややつり上がった瞳は藍と碧が混じり合う不思議な色をしている。高く通った鼻梁は、わけてほしいほどだ。
薄い唇はほんのり桜色に色付いている上、左の目許には鱗模様のペイント…?らしきものが施されており、これらが何とも言えぬ大人の色香を醸し出していた。
総括すると、お色気系のイケメンお兄さんといった感じになるのだが、着ている服…藍色の中華風の着物が一般市民の翠にもわかるほどの高価な光沢を湛えている上、それを本人が嫌味なく着こなしてしまっているものだから、とても上品に纏まっているのだった。お伽噺的な表現をするなら、この世ならざる高貴な佇まいとでも言おうか。
それもこれも、全ては顔が良いからこそなので、やはりイケメンというものは得である。
「翠、思考がズレてしまっているよ」
「あっ本当だ…って、え?何でわかるんですか…?」
「そりゃあわかるさ、だって僕は神様だもの」
「ベタだな!?でも納得です!顔が良い筈だわ!!」
「納得するのはそこなのかい?面白い子だね」
クスクスと優雅に笑うイケメンこと自称神様であったが、「あと一つネタばらしをしよう」と瞳を細めた途端、それまでの穏やかで飄々とした表情は消え、その場は凛とした空気に包まれた。
「正確には、翠は僕の御子となったから、心を読めるようになった」
「御子?」
「さっきも言ったけれど、翠は元の世界で事故に因り死んだことになっているだろう。それは、その世界の理に依って決められた、何人にも変える術のない天命だ」
「でも、貰ってきたって…」
「うーん…これもまた正確に言うと、実は翠が天命を終える瞬間に拐ってきたんだよね」
「拐った…って、いいんですか!?」
「あの瞬間であれば、翠が"死ぬ"という事象は変えられようもないさ。君のいた世界風の言い方をするなら、グレーゾーンというやつだね!」
眩しいほどの笑みでピースまでしているけれど、話を聞く限り結構ろくでもないことをしでかしたのではないだろうか。
それでいいのか神様と言ってやりたいが、そのおかげでこうして未だ健在でいられるらしいため、翠はぐっと堪え、黙って話に耳を傾け続ける。
「今から、翠を僕の世界に連れて行こうと思うんだけど……ほら、生身で放り出してもまず言葉が通じないし、文化諸々も違うだろう?そういうの、キツイだろうなぁって」
「まあ、確かに…」
「だから僕の御子にしたんだよ、そうすれば加護が与えられて、言葉が通じるだけでなく、他にもお得な便利機能がいっぱい身に付いて、生き易くなると思ったからね」
「…………あの、」
「ん?何だい?」
「どうしてそこまでしてくれるんですか?」
ここまでの話を総合すると、自称神様はグレーゾーンギリギリのことをしてまで、翠の死の因果を曲げようとしているように思われた。しかしながら、自分が神様…それも異世界の神様に生かされるような理由がとんと見つからないのだ。
必死に心当たりを探しては首を傾げて唸る翠にニヤリと笑むと、自称神様はよくぞ聞いてくれましたとばかりに、腕の中で興味なさげに欠伸をするにゃんごろーを高々と掲げる。
「忘れちゃったのかい?一月前、この猫と君の間で起きたことを」
「一月前…?ん?あ……ぁ、あああぁぁ!!???」
時は、一月前に遡る―…
その日もまた残業を追われ、日付が変わる頃にようやくアパートへと辿り着いた。役所から自宅まで休みなく歩き続けたせいで、脹ら脛はパンパンに腫れ、踵には靴擦れまで出来てしまっている。
とにかく先ずはヒールを脱ごう、そのままリビングには寄らず一目散に浴室へ向かえば、着のみ着のまま座椅子なりカーペットなりに沈み、メイクも落とさず朝を迎えるなんて恐ろしいことにはならない筈だ。
そう思い、靴を脱ぐべく踵に指を掛けたところで、のぉーーんと低く可愛いげのない鳴き声が近付いてくる。否、飼い主としてはこれはこれでとても可愛いと思ってはいるのだが、如何せん猫らしくにゃあと鳴く声も聞いてみたいわけで。
また休みの日にでも練習かなとにゃんごろーを抱き上げるべく振り向いた刹那、視界に入る景色に悲鳴すら忘れて『ひっ…!?』と後退った。
『にににににゃんごろー…そ、そそそれ、どうしたの…?』
『んなぁーほぅ』
見たまえよ、とでも言わんばかりのどや顔でにゃんごろーが咥えているのは、青色の蛇。そう、30センチ程の蛇。
仕事等で翠が不在の間、玄関や窓は必ず締め切っており、にゃんごろーが外に出ていかないようにしている。というより、この子は生粋のおっとり引きこもりっ子なので、余程のことがなければ外に出たがることすら稀なのだ。
そんなこともあり、今まで何かを狩ってきて見せるということもなかったのだけれど……いきなり、ハードルが高過ぎだろう。そもそも、この蛇は本当にどうしたのか。まさか排水溝から入ってきたとでもいうのか?嫌だそんなのちょっとしたホラーだ。
ホラーとスプラッタと毛のない生き物への抵抗力が著しく低い翠は、深夜という時間帯での隣近所への迷惑を考慮して悲鳴こそ堪えるものの、正直かなり参っていた。
ところが、飼い主の心、愛猫知らず。にゃんごろーはもっとよく見ろとばかりに近付き、とうとう翠の膝先にほらよと蛇を置いてしまう。
『ひぃっ!!!??……あ、あれ?』
この世の終わりかという程の絶望感から一転、ピクリとも動かぬ蛇に乱高下していた心臓の音は治まり、冷静さを取り戻していく。
見まい見まいとしていた蛇を改めてじっと見てみると、舌を出したまま苦しげに目を閉じ、ぐったりとしていた。たまに身体が揺れているので生きているらしいことはわかるが、大変苦しげに見える。
意を決し、震える指先でそっと身体をつついてみても動きが見られないのを確認すると、翠は部屋の奥へと走り、お菓子用の籠を空けてそこにタオルを敷き詰めて戻る。そうして、深呼吸の後でそっと蛇を両手で抱えてタオルに寝かせると、再び籠を持って部屋に戻ったのだった。
「まさか、あの時の蛇が…」
「そう、僕だよ」
自称神様によると、あの日はとても暇だった為、好奇心で異世界へ遊びに行ったのはいいが、世界の造りがまるで違うせいで神様としての元の姿はおろか人形すら保てず、辛うじて蛇の形を取っていたとのことだった。
今回は着のみ着のまま軽い気持ちでなく、きちんと力を蓄え諸々備えてきたから、こうして私達を迎えたばかりか人形で相対することが出来ているらしい。
「翠は僕の為に鶏肉と水を用意してくれたね、そればかりか睡眠時間を削ってまで蛇の餌について調べ、怖がりながらも購入を検討してくれていた」
「うっ…心の準備が出来なくて、起きてから注文しようと先延ばしにしちゃいましたけど…」
「フフッ、買う前で良かったよ。とにかく、翠が用意してくれた食事のおかげで幾らか力が戻り、どうにか自分の世界へ帰ることが出来た。君とこの子は、僕にとって命の恩人だ」
「だから、助けてくれたの?にゃんごろーも?」
「この子は……実は君がいない間に家へ盗人が入るのだけど、」
「まさか、その窃盗犯に!?」
「いや、何というか…この子に気付かず漁ってた盗人が、この子の、ほら、ちょっと個性的な声が急に聞こえて酷く驚いてね。その弾みでこれまた気付かず力いっぱい踏まれることになってたから、その直前に、ね」
「っ……ありがとうございます!」
自分の居ぬ間にそんなことがと顔を青褪めさせていると、苦笑気味の自称神様がにゃんごろーをそっと差し出してくれたので、力いっぱい抱き締める。
荒唐無稽な話ばかりだが、不思議と信じられる気がした。これが他の人間であれば、何を言ってるんだ大丈夫かとなるところだけれど、イケメンパワーを抜きにしても、彼の言葉は不思議と心にストンと落ちてくるのだ。
今この瞬間に、彼は翠にとって自称だけでなく正真正銘の神様となった。にゃんごろーは翠にとって大切な、唯一の家族だ。その恩人を神様と言わずして、何と言う。
「よしよし」と頭を撫でる大きな掌に涙目になっていると、不意に神様はにゃんごろーごと翠を横抱きにして立ち上がった。
「他にも説明しなくちゃいけないことは山程あるんだけど、時間がない。詳しいことは追々、家に帰ってから話そう」
「へ??」
「さあ、次に目を開けたらその時は、君は正真正銘、僕の御子だよ。お父様と呼んでくれて構わないからね!」
「何ですかそ、れ―…!?」
神様が言い終わるのと同時に、再び目も眩むような光に包まれる。
目を開いたら、そこは……
「ああっ!ご無事でよかった!!」
「龍神様のお戻りであるぞ!早う陛下へお報せを!!」
「春青様、その娘は?」
「皆!僕の御子を連れて来たよ、可愛がっておくれ」
上へ下への大パニックとなっていました。
.