九侯の娘
紂王伝 第90話 ――商王朝の王都・朝歌より遥か北西の地。そこには、九侯の領国が盤踞していた。その地勢は、文字通り四戦の最前線。東に土方、北に鬼方、西に犬戎および姜方という、商に服属していない異民族の脅威に常に晒されている。さらには真南に唐、南東に蘇という諸侯国が座し、その更に南に、天下の主たる商の朝歌が存在する。かつて殷中興の祖たる名君・武丁の治世、賢臣・傅説の奇策によって失忡の地を掠め取って以来、九侯の血筋が商の不落の盾として外敵を防ぎ続けて、すでに二百年の星霜が流れていた。だが、ここ半世紀の間に商王朝が打った大いなる外交戦略が、盾たる九侯の胸中に大きな波紋を広げていた。事の発端は、西方の新興勢力である周の季歴へ、我が商王朝から太任を降嫁させたことに始まる。この婚姻によって周との強固な同盟が結ばれ、西方の憂いは一挙に解消された。結果、それまで西方の防衛線を一手に担っていた「商に極めて友好的な大国・崇」が、長年の過酷な任務から解放されることとなったのだ。商廷はこの浮いた大国・崇の武力を、土方や鬼方といった最悪の北方外敵を破砕するための新たなる楔として北へと再配置した。崇国は蘇や唐といった有力諸侯とも密に連携をとり、商を中心とした一大北方防衛網を構築していったのである。この地政学的な再編は、王朝にとっては有効な一手であった。しかし、その防衛線の外側、激動するパワーバランスの「北西の最前線」に位置する九侯にとっては、生きた心地のせぬ大激変であった。周囲の蘇や唐、そして大国・崇が商の元で強固に結束し、軍事的な地殻変動を起こしている。北伯の崇が勢力、影響力を拡大すれば、他の諸侯国の勢力、影響力が相対的に低下する事を意味する、過酷な最前線で孤立していくのではないかという、拭いきれぬ不安と焦燥。(――このままでは、我が国は異民族の嵐に真っ先に呑まれるか、あるいは同盟の狭間で圧殺される。商との紐帯を、何としてでも絶対的なものにせねばならん)退路を断たれた九侯は、最後の外交的手段に打って出た。己の血を分けた愛娘を、商王・帝辛の『側室』として朝廷へと差し出す、決死の婚姻提案である。九侯からの必死の奏上を受け、我が商王朝は速やかに王族の重鎮らを招集し、御前会議を執り行った。比干、箕子の両叔父上を交えた密議の果て、北西の過酷な最前線を無償で繋ぎ止め、九侯の忠誠を確固たるものにするための布石として、この側室の受け入れは「極めて利の大きい政治的選択」であるとの審判が下った。――応諾。こうして、商王朝は九侯の娘を新たな側室として宮廷へ迎えることを公式に決定した。盤面に、また新たなる駒が配されようとしていた。




