なんで?そんな嘘が
紂王伝 第87話 ――恐怖と混乱に言葉を失って立ち尽くす私。そんな私の耳元へ、微子啓は蛇のように這い寄って顔を近づけてきた。「すいません、いささか言葉が過ぎましたね。あまりに妲己様が無知であられるので、思わず……あは♡」小馬鹿にしたような、歪んだ愛嬌。その悍ましさに息が詰まりかけた瞬間、廊下から静かな足音が近づき、給仕の声が部屋に響いた。「お待たせいたしました。お料理を順番にお持ちいたします」「ふぅ……」器が擦れ合う微かな音を背景に、私は肺の空気をすべて吐き出し、強引に理性を呼び戻した。危ういところだった。恐怖のあまり、この男の敷いた盤面にそのまま乗せられるところだったわ。私は給仕が部屋を退出し、再び密室になるのを待って、微子啓に冷徹な眼光を突きつけた。「妲己様、せっかくの美味です、温かいうちにいただきましょう。ご安心ください、先ほどの言葉の『真意』は、これから順を追ってしっかりと説明して差し上げますから」落ち着きなさい、私。この男の狂言に惑わされてはならない。まずは慇懃無礼に食事を勧めてくるこの男から、すべての論理を聞き出すのだ。なぜ私の一言で、二人の破滅に留まらず、故郷の冀州の民までが連座して屠られねばならないのかを。「――続けてくださる、おじさん」私はすでに、王妃としての形式的な敬意すら完全に投げ捨てて問いかけた。微子啓は何がそれほど愉しいのか、唇の端を歪に釣り上げながら、悦に入って語り始めた。「妲己様、まさかお忘れになったわけではありますまい? あなたがこの朝歌の宮廷に召し抱えられた本質を。名目は側室ですが、実情は我が商への降伏の証たる『貢ぎ物』であり、実家に反逆を許さぬための『人質』に過ぎない。そのような政治的立場の者が、王の兄と密かに不貞を働いていた。その事実が朝廷に露見した時、はたして我が商王朝がどのような苛烈な報復に打って出るか、想像もつきませんか?」「な、何を……何を言っているの!? 貴方が、あの日に私を無理やり……っ!」あまりの暴論に、私は激昂して食卓を叩いた。「馬鹿なの!? 襲ってきたのは貴方のほうじゃない――!」「それを、一体どうやって証明すると言うのです?」微子啓は、私の必死の抗議を嘲笑うように一蹴した。「唯一の正解があったとするならば、あの日、あの瞬間にすべてを弟(受)へと告発することだけだった。なればこそ、まだ信を勝ち取る道もあったでしょう。……ですが、恐怖のあまり口を閉ざし、一ヶ月もの間、何事もなかったかのように隠蔽していた。その事実がある以上、今更の不実の訴えなど誰が信じます? ええ、私はちゃんと弟に打ち明けますとも。――あの恐るべき生首の後、暴君の威に怯えた者同士、互いの孤独を癒やすために、手を取り合って夜通し慰め合ってしまった……とね♡」「な……何、を……?」そんなこと。ねえ、嘘でしょう? 冗談だと言って。どうして、そんな悍ましい偽りの物語が、その唇から淀みなく溢れ出てくるの?理解した瞬間、私の血の気が一気に引いていくのが分かった。旦那様を傷つけたくない、家族を悲しませたくない――私が必死に紡いできた一ヶ月の沈黙(努力)が、いま、私を「不貞を働いた大罪人」へと仕立て上げる、完璧な罠の材料として完成してしまったのだ。旦那様。嬴風お姉様。禄父くん。誰でもいい、お願いだから、この底なしの地獄から私を助け出して――!




