私は負けない
紂王伝 第85話 一人でどうすべきかと思い悩む日々の中で、私の内に渦巻く陰鬱な感情は、知らず知らずのうちに綻びとなって表に漏れ出していた。「妲ちゃん、どうしたの? 哀しいこと、苦しいことがあるなら、何でも私に相談してね」嬴風お姉様が痛ましげに私の顔を覗き込み、手を握ってくれる。「妲姉、最近ずっと元気がないよ。気晴らしに、僕と遠乗りにでも行こうか?」まだ十一歳の禄父にまでそんな風に気遣われる始末に、私は激しい自責の念に駆られた。このまま引きこもっていては、お姉様たちの鋭い洞察に、いずれすべてを見破られてしまう。(――駄目。怖いけれど、あの男と直接会って、今度こそ決着をつけなければ)元を正せば、あの男とて王朝の重鎮。己の仕出かした蛮行が露見すれば破滅するのは自分だと、今更になって恐怖し、執拗な口止めの念押しをしたいだけに違いない。あのおぞましい出来事に、私の心まで屈服させられてたまるものか。「私はもう忘れた、貴方の行為など気にしない」と、あの男の眼前に突き付けてやるのだ。私は消え入るような勇気の残滓を必死に掻き集め、あの男から手渡された木片に記された場所へと、一人で足を踏み入れた。辿り着いたのは、朝歌の中でも卿や大夫といった、特権階級の富裕層しか立ち入らぬ絢爛たる高級飲食店であった。一歩中へ入れば、案内係の者が私の纏う気品と、同時にそこへ不釣り合いな張り詰めた空気を察し、怪訝な面持ちで用件を尋ねてくる。私が偽名を使わず、ただ静かに己の名を告げると、相手の態度が畏怖を帯びたものへと一変した。丁重に奥の階段へと導かれ、辿り着いたのは外界の喧騒が一切届かぬ、秘匿された個室であった。だが、そこから二時間もの間、私はただ一人で放置された。刻一刻と擦り切れていく精神、冷え切っていく指先。じわじわと恐怖が私を侵食し始めた頃、ようやく扉が叩かれた。「お連れ様が参られました。別の部屋へご案内いたします」なぜ、さらに部屋を移動させるのか。その徹底した足跡消しの手際に不穏な予感を覚えながらも、案内された新たな個室の敷居を跨ぐ。室内に佇んでいたのは、やはりあの男であった。「やあ、よくぞ足を運んでくださいました、妲己様」微子啓は、あの日旦那様の前で見せていたような、いかにも温厚な兄としての和やかな微笑みを浮かべて私を迎えた。その声を鼓膜が捉えた瞬間、私の全身の毛穴が恐怖で逆立つ。私はその戦慄を必死に抑え込み、袖の中で小さな拳をきつく握り締めた。(負けない。ここで私が折れてしまえば、二度と旦那様の元へは帰れない……!)「今日はお時間を割いていただき、感謝いたします」私は喉の震えを完全にねじ伏せ、凛とした王妃としての貌で、平然と挨拶を返してみせた。この男に、今度こそ立ち向かうために。




