軍事協定
紂王伝 第75話「待たせたな、崇侯殿」会談が散会した後、私は内密な拝謁を求めていた崇侯虎の元へと足を運んだ。周囲の耳目を完全に遮断するため、居並ぶ近衛や侍従の姿はすでに遠ざけてある。「これはこれは、陛下。希望通りの密談の場を設けていただき、恐悦至極に存じます」厳格に頭を下げた崇侯虎であったが、人払いが完璧であることを確認すると、その獰猛な諸侯の貌を一変させ、かつて少年時代を共に過ごした頃の気安さで声をかけてきた。「てか、辛ちゃん。もう聞いた? 飛廉将軍からさ」「……何の話だ?」重要な軍政の案件か。思わず眉をひそめた私に、心当たりは全くなかった。「いや、まあ、まだ耳に入ってないだろうなとは思ったんだけどさ」虎は苦笑しながら、得心がいったように言葉を続けた。「実は、前に下賜してもらった戦車の操練教導のために、飛廉将軍に我が領地まで出張ってもらっていただろ? ――恥ずかしい話なのだが、我が崇国の兵どもが揃いも揃って不甲斐なくてな。教導の期限までに、到底使いこなせるようになりそうにないのだ」「ふむ……」彼の言い分に、私は深く頷いた。戦車を用いた戦闘技術は、単独の騎馬よりも遥かに緻密な御者技術と、高度な連携を要求される。一朝一夕で習得できぬのも無理はない。「それでな、飛廉将軍と膝を突き合わせて解決策を練ったのだ。任期を五年と定め、我が崇国から兵を商の正規軍へと出向させ、前線で直接鍛え直してもらおうとな。兵の給与は我が崇国が全額負担する。商には、食糧の支給と兵舎の提供だけをお願いしたい。毎年千人ずつ派遣し、最大で五千人の規模だ。商にとっては無償での軍備拡大と経費削減になり、我が国にとっては兵の練度向上と本国との戦術連携が手に入る。どうだ?」(――飛廉、貴様……ッ!)これほどの国家級の軍事協定を、なぜ主君である私への報告より先に、他国の諸侯と合意させているのだ!私は内心で、我が不肖の将軍の頭をひっぱたきたい衝動に駆られた。しかし、為政者としての脳は、この提案が商王朝にとって多大な利益をもたらすものだと即座に弾き出していた。私は仮面を崩さぬまま、傲然たる笑みを浮かべてみせた。「面白い試みだ。早速、宰相である比干叔父上らと協議に入ろう。もしこの出向制度が期待通りの成果を上げるならば、九侯殿や鄂侯殿らにも呼びかけ、商を中心とした一大合同軍へと拡張するのも一興だな」「おお、流石は辛ちゃんだ、話が早い」「前向きに検討はするが、現段階での確約はできんぞ、虎」「ああ、構わんさ。前向きに考えてもらえるだけで十分だ」満足げに首を縦に振る虎の顔を見つめながら、私は破格の軍事的収穫をもたらしたこの諸侯会議の余韻に、静かに浸るのだった。




