帰途
紂王伝 第71話――約束の一ヶ月が経ち、私はようやく我が家への帰途についていた。正妻たる風からは「妲己の容態も落ち着いた」との言伝を得ている。しかし、あれほどの恐怖を植え付けたのだ。文字通りに受け止めて良いものか、一抹の不安は拭えない。私は万全を期すため、禄父の武芸指導を任せている飛廉や悪来といった近臣からも、奥(後宮)における妲己の動向を密かに探らせていた。彼らの報告によれば、確かに妲己は庭へ顔を出すようにはなったものの、飛廉たち大人の武官が視界に入ると、以前のような無邪気な懐っこさは身を潜め、どこか距離を置くような仕草を見せるのだという。その一方で、まだ十一歳の禄父に対しては、以前と変わらぬ態度で接しているらしい。(なるほど……。私個人への恐怖だけでなく、広く『大人の男』という存在そのものに怯えているのか)我が身の犯した演技の罪深さに、胸がズキリと痛む。ならば、今夜からはそれ相応の配慮を尽くさねばなるまい。彼女はまだ十二歳の、あまりに繊細な少女なのだ。婚姻の儀を済ませているとはいえ、真に閨へ迎えるまでには、最低でもまだ二年の猶予はある。焦る必要など毛頭ない。彼女の歩幅に合わせ、ゆるりとその凍てついた心を溶かしてやれば良い。妲己の身を案じる一方で、私自身もまた、限界に近い飢餓感を抱えていた。孤独な執務室に一ヶ月も籠もり、張り詰めた精神で国政の舵を取ってきたのだ。そろそろ家族という名の無条件の温もりに触れねば、己の内にある狂気が、朝廷の無辜なる臣下たちへ理不尽な刃となって向かいかねない。(天下を統べる王でありながら、身内の愛がなければ容易く壊れるとは。我ながら、酷く脆いものだ)己の内にある統治者としての弱さを心内で静かに笑いながら、私は愛する家族が待つ温かな邸宅へと、歩みを急がせるのだった。




