明日、明日にはきっと
紂王伝』第70話 今日からは、あのおぞましい出来事などすべて忘れてしまおう。何事もなかったかのように、いつも通りの私でいるのだ。そう心に固く誓って迎えた朝。「妲姉、おはよう!」無邪気な禄父の朝の挨拶が、静まり返った部屋に響いた。その声を浴びた刹那、私の身体は私の意志を裏切り、恐怖でびくりと強張ってしまう。――耐えろ、私。怪しまれてはならない。「……おはよう、禄父くん」歪な笑みを浮かべ、辛うじて挨拶を返す。いつもであれば朝食の前に二人で中庭を駆け回るのが日課だったが、「ごめんね、まだ少し身体が辛くて」と断るしかなかった。禄父はそれ以上深く追及せず、ただ小さな眉を曇らせた。「あんまり、無理しないでね。なんだったら、僕がここにご飯を持ってこようか?」我が子のその健気な優しさが、今の私には酷く痛い。「ううん、大丈夫」とだけ告げて、私は椅子に深く腰掛け、窓外の景色に視線を逃がした。この広大な宮殿の中庭と、その上に広がるどこまでも高い空を、ただ何も考えずに見詰めている時間だけが心を凪がせてくれた。今の私は、あまりに脆い。誰の手の温もりも、言葉も、今の汚れた身体には受け入れがたかった。だが、無情にも朝食の刻限は訪れる。食事の場に向かうのは、正直に言えば億劫でしかなかった。しかし、これ以上引きこもっていては、余計に周囲の懸念を煽ってしまう。私は胸の内で一つ、大きく気合いを入れ、重い足取りで嬴風お姉様の邸宅へと向かった。「おはよう、妲ちゃん。……大丈夫? ひどく顔色が悪いわよ」姿を現した私を見るなり、お姉様が痛ましげな表情で歩み寄ってくる。その白い手が私の肩に触れようとした、まさにその瞬間だった。「ひっ……!」防衛本能が、お姉様の慈愛の手を『恐怖の侵入者』と誤認し、私は全力でその身体を引いてしまっていた。「……?」差し伸べられたお姉様の手が、空中で止まる。その美しい双眸に、隠しきれない怪訝の色が浮かんだ。当然だ、これほど露骨に拒絶されれば、誰だって異常に気づく。誤魔化さなければ、すべてが破綻する。「おはよう、ございます……嬴風、お姉様。……ひっく、う、うぅ……まだ、少し体調が優れなくて……」過呼吸寸前の喉の震えを、体調不良によるしゃくり上げへと必死に擬装する。お願いだから、そんな風に私を見ないで。そんな、傷ついたような、不穏な顔をしないで……。「やっぱり、今日も部屋で横になっていますね。……ごめんなさい!」私はそれだけを一方的に告げると、お姉様の視線から逃れるように踵を返し、自室へと駆け戻った。バタバタと廊下を駆ける足音が、己の情けなさを責め立てるように響く。明日。明日にはきっと、いつもの私に戻れるから。だから、だから私を、これ以上――。暗闇に閉ざされた自室で、私は膝を抱え、ただ明日という来ないかもしれない救いを祈り続けるのだった。




