庇護
紂王伝 第58話 あの苛烈な『警告』は、想像以上に二人の脳髄へと深く刻み込まれたようだった。あれ以来、妲己も微子啓兄上も、嘘のように大人しくなっている。当初、宮廷内では「今回の不祥事を受け、微子啓を八方の西方担当から外すべきではないか」という議論も上がった。しかし、私はあえてそれを却下し、本人に責任を持たせてそのまま担当を続けさせることにした。更遷してしまえば、それこそ周に対する不自然な動きとして勘繰られかねないという政治的判断もあったが、何より兄上自身、今の立場を失えば次はないと、嫌というほど身に染みているはずだからだ。だが、代償は小さくなかった。あれほど頻繁に私の元を訪れていた兄上からは、かつての「兄弟の気安さ」が綺麗に消え失せ、今では完全に冷え切った「君臣の関係」となってしまった。(……仕方あるまい。兄上は、それだけの事をしたのだ)自業自得。そう割り切ってはいても、血を分けた兄から完全に畏怖の対象として見られるようになった寂しさは、私の胸に薄暗い影を落としていた。そんなある日のこと、私は箕子叔父上から、直々に自身の屋敷へと招待された。私はその誘いを快諾し、夜陰に乗じて叔父上の元へと足を運んだ。「まあ、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。今宵はただの叔父と甥だ。楽にしてくれ、受」差し出された極上の酒を酌み交わしながら、私は久々に王の仮面を外し、張り詰めていた気を抜くことができた。日々の重苦しい政務の疲れや、誰にも言えない孤独な胸の内を、実の父親のような温かさを持つ叔父上の前で、少しだけ弱音として吐き出すことも許された。夜も更けた頃、箕子叔父上が静かに杯を置き、真剣な眼差しを私に向けた。「ところで受よ、お前にちと頼みがあってな。まずは私の話を聞いた上で、判断してほしい」「ええ、どうぞ。叔父上の頼みとあれば、何なりと」姿勢を正した私に、叔父上が口にしたのは、羑里に幽閉されているあの『姫昌』のことだった。姫昌の母親は、私の父上や、比干叔父上、そして目の前にいる箕子叔父上たちの兄弟姉妹にあたる。つまり、叔父上から見れば、姫昌は可愛い甥の一人なのだ。それが今回、我が子を食らわされるという、人の世の限界を超えた惨劇に巻き込まれてしまった。「今回のことは、あまりにもむごい……。せめて親族の端くれとして、少しでも彼の心を慰めてやりたいのだ。受よ、私に羑里への出入りの許可を貰えないだろうか」叔父上の言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥にたまっていた澱が、すっと消えていくような感覚を覚えた。「ああ、叔父上……。実は私も、従兄弟である姫昌には、申し訳ないという気持ちで胸がいっぱいだったのです。しかし、私のこの立場ゆえに、表立って彼に謝罪をすることすら出来ず、ただ心を痛めることしか出来ませんでした。……ですから、私からもお願いいたします。どうか、私の代わりに彼に寄り添ってやってください」「そうか。お前のその心根を聞けて、私も救われたよ、受」叔父上は優しく微笑み、再び私の杯に酒を注いでくれた。後日の朝議にて、私は群臣の前に立ち、厳かに宣言した。「これより、姫昌が幽閉されている羑里の管轄を、箕子に全権委任することとする」この決定により、表向きは『王族の重鎮による厳重な監視』という形を取りつつ、裏では親族としての最大限の庇護と謝罪の機会を姫昌に与えることができた。暴君の仮面の下で、私は叔父上の優しさに深く感謝しながら、このかすかな救いが、商と周の未来に少しでも良い光をもたらすことを切に願っていた。




