啓叔父さんの嘘
紂王伝 第36話 いつものように遊びに来てくれた微子啓叔父さんと、他愛のないお話をしていた時のことだった。「実はね、妲己ちゃん。西の奥のほうに、とっても悪い人がいるんだよ」啓叔父さんはそう言って、困ったように眉を下げてみせた。けれど、その口元はどこか歪んでいて、皆に頼んでその「悪い人」を王都・朝歌に連れてくる計画を立てているのだと語る姿は、なんだか少し嬉しそうにさえ見えたのだ。(一体、どんな恐ろしい人なのだろう)気になった私は、叔父さんが帰ったあと、嬴風姉さんにそのことを尋ねてみた。すると、いつも優しい風姉さんが、珍しく少し怒った顔をして私をたしなめた。「駄目よ、妲ちゃん。あんまり人を、最初から悪人と決めつけては。……まったく、啓お義兄様も、まだ幼いあなたに何てことを吹き込んでいるのかしら」姉さんのその反応が、私の好奇心にさらに火をつけた。ただの悪人なら、風姉さんがそんなに複雑な顔をするはずがない。私は、お父様が付けてくれたあの百人の若者たちや、宮廷の伝手を頼って、その「悪い人」の素性を密かに調べて貰うことにした。やがて届けられた報告を見て、私は思わず「あれ?」と声を漏らしてしまった。王都に召喚される予定のその男は、私の国のお父様と同じ、商に仕える諸侯の一人だった。「周」という名の西方の国を治める君主で、名を、姫昌というらしい。それどころか、もたらされた噂によれば、彼は西方で「聖人」とまで称えられ、領民からも他国の諸侯からも絶大な信頼を寄せられている、もの凄く立派で偉いお方なのだという。(……ということは、啓叔父さんは私に嘘をついたのかしら?)嘘というよりは、何かを企んでいるような、あの叔父さんのどこか楽しげな笑顔が脳裏に蘇る。聖人と崇められる西方の主が、この朝歌へと引きずり出されようとしている。不器用な旦那様が泥にまみれて国を創ろうとするその裏で、宮廷の歯車が不穏な音を立てて回り始めているのを、私はまだ小さな胸の奥で、確かに感じ取っていた。




