文字の普及
紂王伝 第33話 近隣諸国との華やかな会合を終えた翌日、私は比干叔父上や箕子叔父上をはじめとする重鎮たちを集め、崇侯虎から打診された戦車と武具の供与について緊急の協議を行った。我が商の国境のさらに西――「周」の急速な台頭は、国防における新たな懸念事項であった。西方の外交・防衛の責任者である長男の微子啓兄上からは「何の問題も無い」との楽観的な返答が届いていたが、協議の結果、崇国へ幾分か高めの対価を支払わせる条件で、戦車と青銅の武具の下賜(売却)を決定した。西の同盟国である崇国の戦力を補強し、周への確かな抑止力とするためだ。「この議題は、明日の朝議の席にて、西方担当である啓兄上から正式に上奏してもらう形にしよう」私は比干叔父上たちにそう告げた。公の場で兄上にこの重要な軍事外交の主導権を握らせることで、宮廷内での面目と権威をより確固たるものにしてやりたかったのだ。続いて、私はもう一つの懸念事項であった「神職勢力」の処遇について、新たな王法を布告した。先の商容の叛逆以降、私が神事を大幅に縮減したことで、宮廷の神職たちは完全に暇を持て余していた。このまま彼らを朝歌に放置しておけば、再び不満を募らせて良からぬ陰謀を企てかねない。「暇があるなら、地方へ行け。これより神職どもを各地の邑落へ派遣し、民へ『文字』を普及させる仕事を割り振る」大街道が整備され、塩の塊や貝貨による商業が爆発的に活発化した今、各地の市場では取引の記録や契約のために、文字を読み書きできる人材への需要がこれまでにないほど高まっていた。「我ら高貴なる神官の身でありながら、泥臭い邑落で賤しき民に文字を教えろとお仰るか!」案の定、神職どもからは猛烈な反発の声が上がった。だが、彼らは先の商容の件で王家に対して多大な「負い目」がある。私の冷徹な眼光に射すくめられると、最後は嫌々ながらも、お互いの顔を立てる形で私の命令に従って朝歌を旅立っていった。これで、朝歌の内憂は減り、地方には文字という名の「次代の国力」が植え付けられる。(よし……。今日のところは、これくらいで十分だな)重い木簡を片付け、私は数年ぶりに、すっきりとした足取りで玉座から立ち上がった。いま、政務はこれ以上ないほど順調に回り、国は私の描いた理想の設計図通りに動いている。私は、頑張った己へのささやかな褒美として、愛する家族の待つ奥の館へと帰ることにした。思慮深く私を迎えてくれる妻の嬴風。私の指を握って笑う息子の禄父。そして、少しずつ我が商の宮廷に馴染み始め、無邪気な笑顔を見せるようになった愛らしい少女、妲己。「お帰りなさいませ、陛下!」弾んだ声で出迎えてくれる彼らを、私は一人の男として、どこまでも愛おしく抱きしめた。この温かな光の館に満ちる幸せを、何が何でも守り抜く。西から忍び寄る不穏な影など、この完璧な繁栄の力で全て叩き潰してやると、私は無垢な家族の笑顔を見つめながら、静かに、しかし狂おしいほどの決意を胸の奥で固めていた。




